赤い彷徨 part II
★★★★☆★☆
永田充不安クラブ♡
 



前回からのつづき)

1日目の夕食は片町にある赤玉本店で金澤おでんをいただきました。店舗は新しく小奇麗で女性客も多く、やや想定と異なり面喰らいました。もちろん味は確かでしたが。



一番搾りとの相性も当然ながら上々であります。おでんは勿論のこと御造りもおいしゅうございました。




そして宿ではまた幹事としてやらかしてしまいまいました。ホテル泊だった前回に続いて、今回はいわゆるゲストハウス泊だったとはいえ、おっさん4人の旅なのにまたもやダブルベッド登場。やむなくじゃんけんで勝った人が一人ベッドで寝て残りは座敷で雑魚寝となりましたが、もう呪われているとしか思えません。参加者の方々にはこの場を借りてあらためてお詫び申し上げます…。しかしもう1組の外国人の若者たちの騒々しかったこと(笑)



翌朝は早朝に起きてバスで輪島に移動しました。NHK朝ドラ的には「黒歴史」かもしれない「まれ」の舞台ということもあり個人的には諸々楽しみにしていたのですが、能登半島を北上するにつれ段々と雲行きが怪しくなり…。



輪島漆会館のところでバスを下されるとそこはとんでもない暴風雨で茫然と立ち尽くします。外を歩いている人の傘がおちょこになるような状況でとてもではありませんが外出する気力がわきません。



それでもしばらく雨がおさまるのを待っていたのですが一向に和らぐ兆しも見えず、やむなく近場、道の向こうに見えるお土産屋さんに移動します。



そちらの休憩スペースでいただいた金箔コーヒー。少しでも加賀らしいものをということで。



多少雨が和らいだこともありランチへ向かいます。当初「海亭 のと吉」で昼食を取るつもりで事前に予約の電話をしたところ、電話にでたおばちゃんに「予約なんてなくても全然大丈夫!」と言われたのでそれならと当日向かおうとしたら「今日は貸切です」とあっさり言い放たれさすがに閉口しました(わざわざ顛末をブログに載せるくらいにはおっさんの食べ物の恨みは恐ろしいですよ(笑))。とはいえ、やむなく急遽飛び込んだ「漁師の店こだわり」のお料理(ブイのたたき丼(1000円)にミニ刺身のトッピング(300)等をつけたものだっと思います)もご覧のとおり文句のつけようのないものでしたので良しとします。



そういうわけで結局観光らしい観光もできず失意のうちにバスで夕方に金沢に戻り、駅前でバスを降りてそのまま北陸新幹線で首都圏に戻ります。



帰りの晩飯は駅弁「利家御膳」(税別973円)で旅を締めくくりました。今回も楽しい旅でしたが、何せ宿の件の粗相では皆様に大変ご迷惑をおかけしました。他方、個人的には結局年明けの連休にも再度金沢を訪問しましたので、またそれは「番外編」として後刻ご報告申しあげます。




(おわり)

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前回からのつづき)

金沢城を後にして、これまた一大観光地となっており、時に「金沢の台所」などと呼ばれる近江町市場に周遊バスで向かいます。「市場」や「港」というワードは無条件にグッとくるものがあります。



昼飯時を過ぎて夕方に差し掛かろうという時間帯になればさすがに少しは落ち着くのではないか、との目論見でしたが、さすがに連休のピークタイムに比べれば人手は少な目だったのでしょうが、それでもやはり観光客の姿は少なからずでした。



前回往訪時同様「鮨処源平」さんへ。それでも多少待つことにはなりましたが、無事カウンターの一部をおっさん4人で占拠。これまた前回同様の「あげは」(12貫2,600円)をいただきましたが、安定の美味。のどぐろなど魅力的なメニューは他にもあれど、財政上の制約からここはぐっと我慢なのでした。



遅めの腹ごしらえを終えて向かったのは長町(まがまち)武家屋敷跡。こちらも金沢の有力観光スポットのひとつとして有名なところで、旧加賀藩の上中流武士の屋敷跡が立ち並んでいます。ご覧のとおり今風に言えば大変「フォトジェニック」なスポットということで、この手の歴史的建造物スポットにしては若い女性の姿も少なからずみられます。



お城同様こちらにも土塀・石垣に関する解説がありました。



前回訪問時には土塀の屋根には苔の姿も見られたのですが、吹き替えを行ったのか綺麗になっていました。苔ファンとしては、目線レベルで愛でることができる稀有なものがなくなってしまい、その点はやや残念でした。



当然ながら数多の外国人観光客が闊歩していました。我が国における外国人観光客と言えば最近ではアジア系の方々がマジョリティですが、この道中の金沢ではむしろ白人の観光客の姿の方が目立ちました。





武家屋敷の土塀沿いを流れる大野庄用水です。灌漑、物資運搬、防火、防御、そして融雪など多目的な用水路とのことです。



旧野村家の屋根越しに望む秋空です。



こちらは鞍月用水と思われます。このあたりの高低差についてはブラタモリ金沢編でかなり突っ込んでましたね。「秋吉」という赤提灯の看板が見えますが、これは当時開店直前だった焼き鳥屋さんのものです。最近知ったことですが、福井が地場の有名チェーン店だったようで、金沢まできてなんだけど食べたかったなあと。




(つづく)

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前回からのつづき)

だいぶ間があいてしまいましたが引き続きの金沢城ということで、こちらは三十間長屋です。一度は火事で焼失しまいましたが、幕末・安政年間に再建されたという重要文化財で、再建後は武器弾薬庫としての機能を果たしていた由。




11月ということでモミジもほどよく色づいていました。おじさんたちだけで愛でる紅葉というのも意外と悪くはありません。



「石垣の博物館」との異名をとるらしい金沢城。今回は2度目の訪問ですが、いつかチャンスがあるなら一人で石垣だけ一日舐めまわしたいくらいなのですが、40過ぎたおっさんがそこまでのスタンドプレーもできません(笑)さて、こちらは年代毎の石垣の積み方について、大まかに3段階に分けてわかりやすく展示してくれています。まずこちら「自然石積み」ですが、個人的には「野面積み」という呼び方の方がしっくりくるような気もします。文字どおり自然の石や少し割った程度の石がそのまま積んでいるため、石と石の間の隙間があるので排水がよい反面、そうそう高く積み上げることは難しいということになろうかと思います。凹凸があり敵が攻め込んできた際に上りやすいという側面もあるようです。



こちらはもう1段階進んだ「粗加工石積み」で、割った石の表面をさらにノミで加工することである程度まで形を整えた石で積み上げるものです。割石を加工し、形や大きさを揃えた石材(粗加工石)を用いて積む技法。金沢城では櫓や長屋などの外周の石垣に見られるそうです。



さらに進んだ「切石積み」はより丁寧に加工し方形にまで整形した石で積み上げる技法です。ご覧のとおり石と石の隙間はなく密着しています。正方形・長方形・多角形・鍵型などがある。どちらかというと機能性(防御性)よりもデザイン性を重視しているとされ、人目につく場所に多く、こちら金沢城では数奇屋敷石垣や鉄門石垣で用いられているようです。



石垣の展示の傍らにあった「鶴の丸土塀」の構造展示ですが、この土塀は防御用と位置付けられるようですね。



こちらがその「鶴の丸土塀」を再現したものですが、たくさんの「鉄砲狭間」があり、内側から瓦1枚割れば鉄砲で迎撃できる構造になっています。外側からは単なる壁にしか見えないため「隠し狭間」と呼ばれるそうです。



ということで、後ろ髪を引かれながら金沢城を後にします。



(つづく)

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前回からのつづき)

引き続き金沢城跡を散策します。前回の最後でお見せしたのが金沢城の実質的な正門であったという河北門の一の門です。この河北門も発掘された礎石を活用しつつ、江戸時代の「御城中壱分碁絵図」や明治期の古写真をもとに復元されたようです。



石垣に手書きで「△」などの印が掛かれています。印と言っても石を削ったものではないので発掘調査の過程で何らかのマーキングをしたものなのでしょう。河北門の下にはサッカーでもできそうな広大な広場がありますが、こちらは新丸広場というそうです。




河北門から左手を見下ろした「湿生園」と思われます。こちらも江戸時代の古絵図や発掘調査結果に基いて新丸南堀の外郭を再現したものだそうです。園なのとおり季節によっては湿性植物が楽しめるのでしょう。



三の丸に戻り、二の丸の正門である橋爪門の前まで来ました。現存の城は無論素晴らしいのですが、この金沢城のように各種エビデンスに基づいて往時の姿を出来る限り再現しようという試みもなかなか興味深いもので、個人的には敬意を表したいです。




橋爪門の向こうには二の丸広場が広がっています。彼方に見えるのは武器倉庫だった五十間長屋で、左手に見える櫓は菱櫓で、大手と搦手を見張るいわゆる物見櫓です。写真にはありませんが右手にある橋爪門続櫓とこの菱櫓は五十間長屋で接続されています。



二の丸広場から三十間長屋に向かう本丸附段を渡るのは極楽橋で、金沢城築城前にこの地にあった「金沢御堂」に参詣する人々が朝方に念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方には日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと伝えられているそうです。




極楽橋は空堀に上にかかっており、左右にその姿を見下ろすことができます。7年前に来たときは空堀にある小路を通っていたようです。




(つづく)





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前回からのつづき)

兼六園から県道10号線を挟んで向こう側には金沢城跡があります。この地には戦前は陸軍第九師団司令部という帝国陸軍の拠点があり、戦後は国立の金沢大学のキャンパスになっていましたが、89年から95年にかけて随時大学が移転したことに伴い、以降は城跡公園として整備されてきました。



見下ろすのは兼六園と金沢城に挟まれた県道10号線ですが、兼六園と金沢城の間には歩道橋があり、そこから行き来することができようになっています。



石川門から入りますが、ここまで早朝から新幹線に乗り、降りたら満杯のバスに揺られ、その後茶屋街を歩きどおしですっかりくたびれてしまったおじさんたちは入ったところの休憩所で少々ブレイクタイム。そもそもこの日は秋の金沢とは思えないほど暑い日だったのですが…。



前方に見えるのは新しい金沢城公園を象徴する建物のひとつである五十間長屋です。01(平成13)年に再建されたもので、戦の際に二ノ丸を守るための施設ということで、石落しや鉄砲狭間となる格子窓が見られます。



金沢城の実質的な正門とも言われる河北門ですが、石川門、橋爪門と共に「金沢城三御門」と位置づけられているようです。10(平成22)年に再建されたものです。



(つづく)




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前回からのつづき)

「兼六園下・金沢城(石川門向い)」バス停で下車して兼六園へ向かいます。苔好きとしてはついついカメラが下の方に向かいがちになる場所ですが、こちらもアジア系に限らず外国人観光客の方々の姿が数多く見られました。



霞ヶ池のところでは、ご覧のとおり国籍問わず多くの方のシャッター音が鳴り響いていました。兼六園内で一番大きな池ということで、5800m平米もの表面積を誇るとのこと。



雪吊りの松ということで「ザ・兼六園」という感じの絵ですね。「唐崎松」でしょうか…確証は全くありません(笑)



こちらも見事な松ですが、こちらは上の松を別角度から撮影したものではないかと思います。




こちらは「根上松」と思われます。その認識が正しければ、という前提付ですが、兼六園名物のひとつとも言われ15メートルの高さの黒松です。40数本に上る根が地上2mにまでせり上がっているという意味で珍しい外観、ということのようですが、森喜朗元総理や野球の松井秀喜選手の出身地である旧根上町(現能美市)とは何か関係があるのでしょうかね。



木漏れ日を見上げながら歩くおじさんたち。



えも言われぬ迫力があります。



確か何かを感じてカメラを向けたのですが、果たして自分は何の気配を感じたのでしょうか。



霞ヶ池を逆サイドから。雄大さが際立ちますね。



兼六園を一回りしたところで、いよいよ金沢城へ。前回訪問時はまだ再建が始まったくらいの段階だったので、その後どうなっているのか個人的には非常に楽しみにしていました。



(つづく)

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昨年11月に仲間内で行った金沢/輪島旅行の記録について記しておきたいと思います。今回の1泊2日の旅、1日目の金沢に関しては個人的に7年ぶりの訪問(前回)となったわけですが、みどころは多く2回目でもまだ全部回りきれた感はなく、まだまだ飽きないなーと言う感じです。2日目の輪島については生憎かなりの荒天で歩き回ることさえ出来ず閉口、加えて予約なしでOKと言われていたはず食堂には「満席です」と言われるなど幹事としては少々恨めしいところもありましたが、リカバリーの昼飯では海の幸をそれなりに堪能できましたのでまあよしとしておきます。



今回は初めて乗った北陸新幹線で往復しました。我がグループは上野乗車組と大宮乗車組に別れるのですが、いずれも7時台に乗車ということで皆さんには早起きを強要してしまいました。うち大宮乗車組は大宮駅東口で合流したのですが、早朝からパトカーがサイレンを鳴らしながら南銀の入口にやってきて、車から降りた警察官の方々が南銀の中へバタバタと走って行くという警視庁24時(埼玉県警か)みたいな光景も目撃してしまいました。朝食ですが、当てにしていた吉野家が改装中でお休みということで富士そばでお世話になりました。



10時に金沢駅に到着し、コインロッカーに荷物をしまい、駅前の「金沢駅東口バスターミナル北鉄グループ案内所」にて北鉄バス1日フリー乗車券を500円/人で購入。早速に「城下まち金沢周遊バス」の右回りに乗り込むのですが、同じ新幹線で到着した方々が多かったのが朝っぱらからバスがごった返しており、みんな荷物も多いのでさながら都内の通勤ラッシュのような様相を呈していました。そして最初にバスを降りて訪問したのがこれまで粛々と写真だけ掲載してきた東茶屋街というわけです。



「橋場町(ひがし・主計町茶屋街)」バス停で下車するとすぐ浅野川があり、その東岸に広がるのが東(ひがし)茶屋街、かつての旦那衆の遊び場というところなのでしょうかね。江戸時代の文政年間に加賀藩主のお墨付きを得た茶屋街のひとつで、当時の茶屋建物、1階に出格子を構え、2階のを高くしてお座敷を設ける「茶屋建築」のものが道路沿いに建ち並ぶご覧のとおり風情ある街並みです。右手奥に見える昔ながらの電気屋さんが非常に懐かしい感じの店構えでした。



各茶屋街に置かれた「検番」は明治時代に芸妓さんたちの風紀取り締まりを目的として設置された組織で、こうした事務所は後述の主計町茶屋街にも見られました。



ここの一本右はもう浅野川沿いの道でした。




ひとしきり東茶屋街をぶらりと回った後は、浅野川大橋を渡り川を挟んでひがし茶屋街の対角線上にある主計町茶屋街に向かいます。



日露戦争の旅順攻撃の司令官を務めた乃木将軍のお名前が突然登場して「なんだろう}?」と思ったのですが、後々調べてみたら東京の乃木坂にある乃木神社に乃木将軍とこの今越清三朗(少年時代)おふたりの像があるようです。出張で金沢を訪問した乃木将軍が辻占(和製フォーチュンクッキー的な?)を売り歩いていた当時8歳の清三朗少年と出会い、家計を助けようと一所懸命に働く姿にいたく感銘を受けたそうです。そしてその少年を励まし金2円を手渡したのですが、清三朗少年はこの乃木将軍にいただいた恩を忘れることなく精進し、後に金箔製造業で大きな業績を上げたという美談に基づくもの、ということのようです。



こちらの主計町茶屋街は東茶屋街に入りきれなかった茶屋が集積したところのようですが、東茶屋街に比べれば些か小ぶりで人通りも少ないものの、その分少々狭い路地も落ち着いて散策することが出来て個人的には好きです。こちらも一回りして、再び周遊バスに乗り今度は兼六園/金沢城に向かいます。



(つづく)

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前回からのつづき)

二ノ丸跡にある草花はまた別の機会でも、と思って中之門跡まで戻ってきたのですが、結局踵を返して二ノ丸跡に足を伸ばしました。写真は諏訪の茶屋と呼ばれる建物で、火災などで消失といった紆余曲折がありつつ11代将軍・徳川家斉の治世に現在の吹上御苑(西の丸西側、いわゆる御所のある界隈)のあたりに創建されたものだそうです。ただ、現在のこの建物は明治時代に再建されたもので、戦後皇居東御苑の整備の際に移築されてきたもので、現在は茶室としては利用していないようですね。



というわけで二の丸庭園まで来ました。1630(寛永7)年に3代将軍家光公の命により、数々の庭園を手掛けた文化人・小堀遠州の手により造成され、ここで将軍の茶会も催されたようです。ただ、現存する庭園は昭和に入ってからに復元されたものだそうです。



二ノ丸庭園にあった藤の木に外国人観光客の皆さんが群がっていました。自分はと言えば、奈良公園で藤の花に近づいたら熊ん蜂がうようよしていたのがトラウマで、藤の木には余り近寄りたくないというのが正直なところです。まあ、そもそも花は咲いていませんが(笑)



そういうわけで大手門まで戻りました。大手門渡櫓の脇にも石垣に上がるための石段がありました。



大手門渡櫓の門扉、アップです。



大手門を出て左にある大手濠には優雅に泳ぐ白鳥はじめ鳥たちの姿を見ることが出来、鳥々を心安らかに眺めるのも良いですね。




その後時間があったので明治神宮にも足を伸ばしてみました。これは明治神宮東門近くにある「代々木の大樅」と呼ばれるモミの木で、この木が代々木と言う地名の由来という説もあるそうです。といっても、ここにあったそのモミの木は明治中期に枯れ、そして戦時中にB29が樹上に墜落して焼失してしまったそうです。そういうわけで、このモミの木は戦後に植樹されたものとのこと。



しかし皇居東御苑だけでなく、この明治神宮にも外国人観光客の姿が多いのはびっくりしました。



(おわり)

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前回からのつづき)

梅林坂を下り終えたところで右側を見たあたりだったと思います。この先は白鳥壕を右手に見ながら百人番所方面に戻る道です。石垣の高さがよくわかりますね。



その道を少々進むと右手には汐見坂があり、坂の上には宮内庁楽部の建物があるそうです。坂の名前の由来ですが、築城当時は付近まで日比谷入江が入り込んでいたため、この坂から海を眺めることができたことによるそうです。



高く聳え立つこのあたりの石垣は家康公の時代に積み上げられたもののようです。



汐見坂を上り、石垣の上に戻ります。そして本丸休憩場の裏手にある展望台からの丸の内ビル群を臨むことができます。石垣の高さをまた異なる観点から実感することができます。



眼下に見えるのが独立した濠である白鳥壕ですが、この白鳥濠を挟んで本丸と二の丸のところはいわゆる河岸段丘ということで標高差が10mほどあるそうで、その高低差を活かして先ほどの高い石垣が成立しているということなのでしょうね。



展望台を後にし、そのまま中雀門跡を通って本丸から下ると再び遠くに大番所が見えてきます。



そして中之門跡まで戻ってきました。二ノ丸跡に広がる雑木林はまた紅葉シーズンにでも訪れてじっくり愛でたい…そう思っていたのですが。



(つづく)

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前回からのつづき)

天守台裏(北側)から見上げた石垣です。こちらの写真では捉えられていませんが、よく見るとところどころ破損等したところがあり、そこは明暦の大火や東京空襲の痕跡だと理解されているようです。



北詰橋門を左手に見ながら、更に平川壕沿いに東へと歩を進めると右手に宮内庁書陵部の建物が見えてきます。書陵部は戦後の1949(昭和24)年に旧図書寮の職務を引き継いで誕生した、45万点以上の皇室にまつわる歴史的資料を保存しているところです。そしてその歴史的資料というのは、代々皇室に伝わってきたものを中心に古典籍・古文書類、歴史資料として重要な明治以降の宮内省/宮内府/宮内庁の公文書類、宮内庁が管理している陵墓等から出土した考古品といったものだそうです。



書陵部を右に歩を進めるとワインディングロードな下り坂が見えてきますが、こちらは皇居東御苑の梅の名所「梅林坂」。初代江戸城を築城した太田道灌公が1478(文明10)年に菅原道真を祀り梅樹数百株を植えたことにその名は由来するようです。現在も70本ほどの梅の木がありますが、どうやらその多くは戦後に植えられたもののようですね。



こちらの梅の花のうち早咲きの品種は冬至のころから咲き始め、例年2月中旬に見頃を迎えるそうです。また、この梅林坂には山王権現神社があったといわれ、それが現在永田町の総理官邸の裏にある山王日枝神社になったということのようです。



梅林坂を下り、左を平川壕、右を天神壕に囲まれた道を進むとドン突きには平川門があります。門の向こうに見えるのは毎日新聞東京本社のようですね。この平川門からも皇居東御苑に出入りできるそうです。大奥に近いということで大奥女中達の出入りする通用門であり、かつ清水、一橋、田安の御三卿の登城口でもあったようですが、一方で罪人や遺体を運び出す際に使われる門でもあったようで、件の松の廊下で刀傷沙汰を起こした浅野内匠頭もこの門から城外に移送されたようです。



平川門を確認して本丸方面に戻ります。向こうに毎日新聞の建物が見えますので、こちらも平川壕だったのだと思います。道がお城らしくクランクになっているところです。



ここにもかつて門があったのでしょうか。ここを進み突き当りを左に進むと梅林坂を降りたところに戻ることができます。



(つづく)

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前回からのつづき)

そしていよいよ(というほどでもないか)天守台が近づいてきました。1657年明暦の大火(俗に言う「振袖火事」)で消失してしまい、再建の計画もあったようですが復興優先ということで見送られ、現在に至るまで天守台のみが残っています。以後は先述の富士見櫓が天守的な役割を果たしたということのようです。



浜離宮あたりもそうですが、遠くに大都会のビル群を望むコントラストは見事ですね。この江戸城跡をはじめ武家屋敷の庭園が数多あり、さらに新たに開発される地区でも積極的に木々が植えられたりしているのだから東京に緑が少ないはずがありませんね。



この江戸城天守台は天守台の高さ13m、上面(天守1階)は35mx40mほどあったというのですから日本の城の天守台としては最大規模だったのではないでしょうか(まあ当然と言えば当然か)。



天守台の奥に見えるのは桃華楽堂(とうかがくどう)、1966(昭和41)年2月に昭和天皇の皇后であり今上陛下の実母である香淳皇后(こうじゅんこうごう)の還暦記念に建設された音楽堂とのことです。音楽がお好きだったようですね。



3度築かれたという江戸城本丸天守のうち最大だった寛永度(1638年)は45mもの高さがあり、天守台の13mと足すと地上58mということになりますから、江戸時代としては相当大きく高い建物だったのでしょうね。



天守台を登る途中であらためて振り返ってみた丸の内のビル群ですが、手前に広がる本丸御殿跡の広さも何となくうかがえる構図になっていますね。



天守台の上の本丸広場との反対方向(北側)には北詰橋門を窺がうことができます。こちらも門からも皇居東御苑に出入りすることはできるようです。最寄駅は地下鉄竹橋駅になるようです。



整然と積まれた石垣にはあらためて惚れ惚れします。現存するのは明暦の大火後に再建された4代目の天守台で、加賀藩4代藩主・前田綱紀の手によるものです。



(つづく)

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前回からのつづき)

富士見櫓の能書きもしっかりチェック。当然こちら側からの写真では見えませんが、このあたりの石垣を積んだのは加藤清正公だったのだとか。関東大震災をも耐えた石垣ということのようです。



眼前に広がる本丸広場を前に左にやや旋回し、広場の西側の小路を進みます。この広大な広場にはかつて本丸御殿が広がっており、手前から行政窓口的役割の「表御殿」、将軍の居所である中奥、そしてかの大奥という順で建っていたようです。明治時代には気象台が建っていたというのも面白い話ではあります。



本丸広場の西側の小路を進むと、年末の定番作品・忠臣蔵の「殿中でござる!」のセリフで有名な松の廊下跡もあります。とは申せ、ご覧のとおり今となっては何の変哲もない茂みでしかない感じなのですが。




元禄14年(1701)3月14日に赤穂藩主・浅野匠頭が高家衆筆頭の吉良上野介に斬りかかった刃傷事件です。上野介は軽傷で事なきを得るも殿中での刃傷はご法度ということで内匠頭は切腹を命じられ、その後同藩は改易となりました。そして浪人となった、大石内蔵助をはじめとする旧浅野家家臣たちが、御咎めなしに終わった上野介を討つべく翌年12月15日に本所松坂町にあった吉良邸に討ち入り「本懐を遂げた」というのは余りに有名な物語です。



そこに突然の茶畑。綺麗に刈り込まれた茶畑ではありますが、いわゆる茶葉にするため茶摘みをするわけではないため、秋ごろには珍しい茶の花を、そしてその後は茶の実まで見ることができるようです。



その茶畑の裏手(西側の蓮池壕の際)の高台の上には富士見多聞がひっそりと建っています。濠に面する石垣の上に立つ防御施設といった位置づけになり、江戸城に15あった多聞のうち唯一現存のものとのこと。



普段は鉄砲や弓矢といった武具が収められていたようで、



格子窓からは蓮池壕を見下ろすことができますすが、ご覧の高さ。20M級の石垣の上に建っていて、かつては富士山を望むことまでできたことをあらためて実感できます。建物の内部は昨年(2016年)11月から内部も通年公開になったようですね。



高台を下りて更に北へと進路を進めると見えてくるのが「石室」ですが、こちらは大奥の調度品用を格納しておく施設だったようです。この後うちの親をこちらに連れてきた時は「…折檻部屋?」とか言ってましたが(笑)



(つづく)

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前回からのつづき)

大手三の門をくぐると左手に百人番所という、ご覧のとおり全長50メートルくらいはあるとても長い建物があります。ここでは1日24時間ずっと、甲賀組をはじめとした4グループが輪番で警護をしていたところだそうで、文字通り各グループ100人配置されていたとのこと。



そして右手には中之門跡がありますが、ご覧のとおりこちらの石垣は江戸城の中でも最大級の石が使用されています。しかもその巨石が加工されて隙間なく積まれています。




この積み方「切込みはぎ」と呼ばれる技法だそうです。そしてここで使われている石は瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩だということで、西国の諸大名から献上されたのではないかと考えられているのだとか。外国人観光客の方と比べてもご覧の規模感です。



その中乃門跡をくぐると右手にあるのが大番所。こちらでは百人番所、同心番所と比べて一番位の高い与力や同心が警備にあたっていたようで、本丸への道では最後の番所ということで警備上の重要性は高かったと考えられているようです。建物自体は明治期に再建されたもののようではありますが。



その大番所の横にあった松の木と、その背後の石垣の内側の階段と思われるものです。



大番所を後にし、本丸へと続く大きくカーブした道を進みます。



そこには中雀門跡(ちゅうじゃくもん)があります。写真だとわかりにくいかもしれませんが奥の左側の石垣の損傷がかなり激しく、これは先述の明暦の大火で焼けた旧天守台の石垣を利用したのではないかと言われているようなのです。



中雀門跡のところで振り返ったところの石垣です。どうやらかつてこちらには書院二重櫓とよばれたものがあったようですね。



中雀門跡をくぐるとかつて大きな御殿があった本丸が広がるのですが、そちらは我慢してその前に左に旋回、木々を掻い潜るように歩を進めた先に富士見櫓があります。江戸城にあった櫓のうち現存する3つの櫓のうちのひとつです。明暦の大火で焼けたもののその後再建され、再建されなかった天守の代わりとしての機能も果たしたようで、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたりしたのだとか。



(つづく)

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ナクスタで浦和の試合のあった日は我が家に嫁さんのお友達の皆さんが遊びに来られるということで完全リリースされていたのですが、残念ながら大宮さんのつれない対応もあり試合のチケットもあえなく取れず。そのため、当日はひとり皇居東御苑の見学と明治神宮参拝へと出かけました。城ファンを自認しながら誠にお恥ずかしい話なのですが、まさか現在皇居となっている旧江戸城の名残を見学できる、しかも無料で中に入れるなどとは正直思いもよらないことでした。職場の傍にこんな見学スポットがあることに今のいままで気づかないとは…我ながら不覚を取りました。



東京駅八重洲口から行幸通りをまっすぐすすみ、和田倉門のところを右に行ってしばらくすると左手に大手門入口が見えてきます。入口はこの大手門の他北桔橋門(きたばねはしもん)と平川門と計3つあるようです。下のガイドマップの右下が大手門入口になります。こちらの見学についての細かいレギュレーションについては宮内庁さんのサイトでご覧ください。



大手門から入場します。外国人観光客に多さにはびっくりしましたが、この日はカンカン照りで暑さが厳しく、ところどころでぐったりしているお姿も。門のところで簡単な荷物検査を受け(検査をしていたのは皇宮警察の方々でしょうか)た後、いよいよ大手門を潜って入場します。




振り向くと聳え立つオフィスビル群、というコントラストは都心ならでは。



大手門の前に置かれている鯱(しゃちほこ)は戦災で焼けた旧大手門渡櫓のものだそうです。



「明暦三丁酉」と刻まれていますが、江戸城天守などを焼いたいわゆる明暦の大火(1657年)の後に再建された時の鯱ということのようです。



こちらの大手門渡櫓は戦災で焼かれたため、戦後1967年に再建されたものとのこと。入って左に向かうと窓口があり、そこで入園票というプラスチック製のものを渡されます。この入園票は退場時に窓口に返却する必要があります。



右手に三の丸尚蔵館、そして大手休憩場などを見ながら進みます。休憩所は各入口にあるようですが、こちら大手休憩所は売店も兼ねていました。こちらの休憩所に↑のガイドマップがありました(窓口ではない点はご注意ください)。そのまま歩を進めると大手三の門跡地があり、その向こうにあるのが同心番所。3つある番所のうち比較で言うと最も位の低いお役人の警備詰所のようなところのようです。



(つづく)

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前回までのつづき)

引き続き弘前公園(弘前城)見学ですが、ご覧のとおり絶賛石垣補修工事中でこの期間は天守の見学も一切できない状況でした。全国に12ある現存天守のひとつである弘前城の天守ですが、本来はここにあるという理解でよいのでしょうか?



こちらは下乗橋を別角度から。橋の向こうに見えるのが移設中の天守と思われます。



こちらは未申(ひつじさる)櫓と思われますが、何せ1年半以上前のことなので記憶がおぼろげで…申し訳ありません。



南内門を内側から。二ノ丸に2つある門のうちのひとつ。



こちらは辰巳櫓。三ノ丸を通る弘前八幡宮の山車行列などを歴代藩主が観覧したと言われているとか。



東内門を内側から見ました。



東内門をあらためて外側から。今回弘前城を訪問したことで、全国12の現存天守のうち個人的に未訪なのはいよいよ丸岡城(福井)と備中松山城(岡山)の2つを残すのみ、となりはしたのですが、何分今回の弘前城は天守に入れなかったので何となく消化不良なような気も…。



同じく東内門を外側から中濠とともに。名残惜しいですがこれで弘前城を後にします。今度来るときは花見シーズンなどと贅沢は言いませんので、せめて天守を見学できるタイミングで再訪したいものです。



お城から弘前駅までの復路は近くにバス停を見つけ、ちょうど来たバスにダッシュで乗り込みました。はやぶさで東京方面へ帰ります。



はやぶさの乗り心地は無論よかったのですが、外はもう真っ暗であり、そもそもあっという間に着いてしまったので特段の感慨もなく。以上で今回の旅の記録を終わります。



(おわり)

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