赤い彷徨 part II
★★★★☆★☆★★☆
こんにちは、アジア王者です。↑お星さまが増えました。
 



私は、我が国の長い歴史において、3つの大きな「転換期」があったと考えています。その3つの転換期とは具体的には、①律令レジーム、②明治レジーム、そして③戦後レジームそれぞれの体制の確立の過程がそれにあたるのではないかと思っています。そして最初の大転換期である律令レジームの確立にあたってまごうことない中心のひとりとなったのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)の嫡流・藤原不比等だろうということで、中臣氏~藤原氏という「新興」氏族がどのように権力を手中に納め、それを維持・拡大しながら、律令制度の確立という作業にどのように関わっていったのか、その経緯を知りたいと思っていました。

そして、2017年末に初版が出た本書こそ、まさに著作名そのままに、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化の改新(乙巳(いっし)の変)の中心人物として広く知られる中臣鎌足をその始祖とし、長年に亘り我が国の権力中枢に陣取り歴史を動かしてきたその藤原氏について、その栄枯盛衰含め幕末までの遍歴を描かれたものです。具体的には、鎌足の「活躍」により、それまで神祇を分掌するに過ぎなかった中臣(藤原)家が蘇我氏に取って代わり政治の表舞台に登場したところからはじまり、2代目の不比等が持統天皇とともに中国から輸入した律令制度による体制(上記「律令スキーム」)を完成させ、巧妙に、時として手荒な手段まで用いつつ、その一族の者が主要官職に就いたり皇室との関係を深め(姻戚関係の構築によるミウチ氏族化)ながら、不比等の4男をそれぞれの源流とする北家、南家、式家、京家の4家間、あるいはそれぞれの家内での権力闘争も経ながら、次第に藤原家全体としての権力を維持・拡大し確立していった経緯が一冊を通して記されています。

「藤原」姓は鎌足がその死の直前に天智天皇から賜った姓ということのようですが、その「中臣」氏は上述のとおり決して豪族層を代表するような地位と伝統を有していなかった。そして、それまで権力の中枢にあった蘇我氏を打倒した乙巳の変の大功労者とされる鎌足の功業とされているものも実態として不明な箇所が多く、その実子孫たちにより下駄を穿かされている、あるいは創作されている可能性も大いにある。そして、後の律令制下で藤原氏が自己の栄達の根拠としてこの鎌足の功業を大いに利用したことは間違いないとしています。それはまさに個人的な興味分野である「勝者による歴史の書き換え」の一端ということが出来ましょう。

そして、その中臣鎌足の次男だった藤原不比等は、41代持統天皇(女性)の治世に31歳にして初めて任官し、持統天皇の血を引く、孫にあたる軽王(文武天皇)の擁立に尽力するのですが、この立太子(皇太子として立てること)に成功したことにより、持統天皇と藤原不比等、およびそれぞれの子孫が皇統と輔政を継承することが決定した時点をもって「律令国家の政権構造は確定した」と著者は評価しています。ちなみに大宝律令で制度化された太政天皇制により、持統は唐制にさえ前例のなかった太政天皇=上皇の地位に就いており、著者は「その背後に不比等の協力が存在したという推定は、おそらくは正鵠を得ている」とも評価しています。

この律令国家の政権中枢に位置し、当該期の政治を領導していたのは、「私見によれば」としつつ、「ミウチ的結合によって結ばれた天皇家と藤原氏とが相互に補完、後見し合って、律令国家の支配者層のさらに中枢部分を形成した」としています。そして、一部繰り返しになりますが、「藤原氏は、天皇家と相互に姻戚関係を結ぶことによって王権とのミウチ的結合を強化し王権の側からも準皇親化を認められていた。その結果、律令官制に拘束されない立場で王権と結びついて内外の輔政にあたった権臣を生み出したのである。彼らの実質的な祖である藤原不比等は、大宝律令の制定や平城京の造営といった功績、宮子、光明子通じての天皇家との婚姻関係によって、権臣としての地位を確立したのであったが、その地位がまた、藤原氏と天皇家との新たなミウチ関係を生み出し、次の時の藤原氏官人に高い地位を約束する根拠とされた」と見立てています。実際、議政官(左右大臣、大納言+参議、中納言、内大臣)により構成される朝廷の意思決定機関「議定」の構成原理や、蔭位制という官職の位階制は藤原氏が有利に作られており、他の氏族が地盤沈下していくように仕組まれていたというのはなかなか興味深い指摘と言えましょう。

そして、その律令制下に政権中枢にあった藤原氏らによる「歴史の書き換え」であることが疑われる点が日本書紀にも存在します。その藤原氏と律令スキームを作り上げた持統天皇は702年に58歳で崩御し、天皇としては初めて火葬(仏式の埋葬)されましたが、その際に「大倭根子天之広野日女尊(やまとねこあまのひろのひめのみこと)」という和風諡号(「しごう」、貴人の死後に贈られる、生前の業績への評価に基づく名)が贈られています。しかし、この和風諡号は早い時期に「高天原広野姫天皇」に改変され、日本書紀や続日本紀ではそのように記載されています。この「高天原」というワードについて、著者は「この頃いわゆる高天原神話が成立したと考えれば、持統をその中心の天照大神に擬そうと動き」があったのではないか、と推測しています。

○日本書紀の天孫降臨神話と持統天皇以降の皇位継承の類似性
・日本書紀(高天原神話)
 天照大神-天忍穂耳尊-瓊瓊杵尊(-火通理命-鸕鶿草葺不合尊-神武天皇(初代))
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            天児屋命
             
・持統天皇以降の皇位継承
 持統天皇-草壁皇子尊-文武天皇
             | 
            藤原不比等


加えて、「いわゆる天孫降臨の神話において、天照大神が、子の天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)を地上に降臨させようとしたものの、その拒否によって果たせず、天忍穂耳尊と万幡豊秋津師比売命(よろずはたあきづしひめのみこと)との間に生まれた天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を降臨させ、それを天児屋命(あめのこやねのみこと、藤原(中臣)家の源流とされる神)が五伴緒(いつとものお)をひきいて随伴するという構造は、持統が、子の草壁皇子尊を即位させようとしたものの、その夭折によって果たせず、草壁皇子と阿倍皇女(後の元明天皇)との間に生まれた孫の文武を即位させ、それを藤原不比等が百官を率いて輔弼するとうい構造と同じものである。」、「さらに言えば、文武の夭折を承けて、自らの孫である首(おびと)皇子を即位させようとする元明天皇にも重なるものであり、『日本書紀』が完成したのが元明の時代であることを思うとき、これは単なる偶然では済まされない問題であろう」という指摘はまさに「勝者による歴史の書き換え」という観点から示唆に富む指摘と言えましょう(また、同じく日本書紀では乙巳の変について「皇位簒奪を企てた逆臣蘇我氏」と「それを誅殺した偉大な中大兄皇子とそれを助けた忠臣中臣鎌足という構図で描かれていますが、これも後世の解釈によるところ少なからずでは、と指摘しています。)。

一方で、少なくとも律令スキームと明治スキームの転換期に共通する時代背景として、その内外情勢から早急な権力集中の要に迫られていた点を挙げることが出来ます。中大兄皇子と鎌足の時代である663年には白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗を喫し、その後も高句麗滅亡後の唐と新羅の対立に巻き込まれるなど北東アジアを中心にした国際情勢は風雲急を告げていたという見方が有力なようです。明治を迎えた日本をとりまく国際情勢についてはもはや言うに及ばずでしょう。

また、持統天皇を継いだ孫の文武天皇ですが上記のとおりやはり夭逝したため、これを受けて即位したのがその文武天皇の母である元明天皇で、そしてその元明天皇が皇位を譲るべき孫の首皇太子がまだ幼少であったため自らの娘、つまり先代文武天皇の同母姉である氷高内親王に皇位を譲る(元正天皇)といった経緯があり、この時代かなり綱渡りの皇位継承が続いていたようで、こうした事情から自らの権力の正統性を「擬制」する必要性に迫られたことも、「歴史の書き換え」が行われたであろう背景にはあったのではないでしょうか。本書では言及はありませんが、女性神とされる天照大神が本来は男性であったものが、持統天皇に準えてこの「神話」から女性とされたという説(些かオカルトの領域になるかもしれませんが)との関係も気になるところです。

ちなみに、この不比等による律令スキームの確立以降、上述のとおり不比等の4男(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が南家、北家、京家、式家の4家に分かれてそれぞれ覇権を争い、最終的に北家が勝ち残りいわゆる摂関政治がはじまり、そこから歴史の教科書にも登場する道長や頼通が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」の歌に象徴される栄華を極めることになります。その後は院政により摂関家の権力に陰りが見えるようなこともありつつ、藤原氏は嫡流の摂関家の他に清華家、大臣家、羽林家、名家、半家といった家ごとの格付けが固定化し、そうした主流から外れた家も中御門流(そこからさらに持明院家、坊門家)、中関白家、閑院流、小野宮流、勧修寺流、日野家などにどんどん分かれていき、限られた中央政府での官職を前に増えゆく藤原氏との中にはとうとう中央で官職を得られなくなった者も現れ、ある家は地方へ進出し、またある家は武家に転じていったりと、天下の藤原氏といえどもそれなりに厳しく、時として世知辛い思いをしながらバトンを繋いで行った様子も事細かに描かれており、とても覚えきれるものではありませんが、こちらもなかなか興味深いものがありました。

そうして鎌倉時代には摂関家が主に近衛家と九条家に分かれ、さらに鷹司、二条、一条が分かれいわゆる「五摂家」となり、以降室町、戦国を経て江戸、そしていわゆる幕末時代まで摂関には基本的には五摂家が交代で就くこととなり、いずれにせよそうした、時には動乱の時代を細々とでありますが生き抜いたということのようです。この他にも本書では藤原氏が時代を経る毎に分派していった数々の「苗字」が列挙されています。ここにはとても全ては書ききれませんが、個人的には西園寺、徳大寺、綾小路、藪、日野、中御門、高倉、錦織、土御門、安倍、錦小路などの姓が、深掘りしてみたらなかなか面白そうだな、と思えました。

なお、興味深い、という意味では、天武天皇の皇后だった持統天皇が即位したのは持統元年ではなく持統4年だったという事実で、まさに今迫り来る譲位に思いを馳せるならば大変示唆的です。これは前任の天武天皇までは仏式の火葬ではなく、崩御した天武天皇を弔う殯(もがり)という儀式が当時行われていたためでしょう。殯とは、一般的には「死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること」などとされていますが、皇位継承にあたりこの殯に代表される数々の儀式が行われていたために生じたタイムラグと思われます。これを持統天皇以降幕末の孝明天皇までは仏教式の火葬を行い埋葬されていましたが、「廃仏毀釈」を推進した明治政府が仏式けしからずということなのか、この殯を復活させたという経緯があるようです。そして、まもなく譲位される今上天皇はこの「重い殯」で社会に諸々の負担をかけるのは本意ではない、といった趣旨のことを過去に発言しておられますので、その点からしても掘り下げてみたい論点ではあります。

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「我が国の社会保障制度は危機的状況にある」という、今や広く我が国で共有されている現状認識、加えて、我が国が未曾有の社会構造の転換期を迎えているという時代認識を前提にしつつ、それでは次の世代のために我々は何を行うべきか、ということで、我が国の社会保障制度の持つ課題の整理と、その今後取り組むべき方向性について著者の主張を開陳するしています。そのように申し上げると、これまで世に出てきた社会保障改革モノの数多ある書籍群のひとつのようにも思われるかもしれません。しかし、本書の著者は社会保障分野の有識者や厚労族の国会議員、そして社会保障政策を所掌する厚生労働省の役人でさえなく、経済産業省の役人という、著者の言葉を借りれば「一人の部外者」であり、その「部外者」の視点から構想された見直し案が提示されており、また、そうしたこともあり、これまで諸々の著書とは前提や提言の内容がかなり異なろうと思います。以下、そのユニークな状況認識や提言内容は端的に以下のようなものです(ちなみに、副題が「世界が憧れる日本へ」となっていますが、本書は、当世のテレビ、中吊り広告や書店を大いに賑わす「ニッポン万歳」、「日本すごい!」、「世界で愛される日本」的なものでは決してありません。むしろ「このままではまずいぞ」というのが大前提の本です…笑、念のため)



まず、当たり前のように使われる「高齢化対策」という言葉について、そもそも高齢化とは「対策」すべきことなのか、という問題提起がある。実は高齢者が急増しているから高齢化率(全人口に占める高齢者の割合)が高まっているわけではなくて、統計を見てみると実は65歳以上の高齢者の絶対数はそれほど増えておらず、高齢化率が高まる原因はむしろ若い世代の減少にこそある。そして、健康長寿を願い、経済成長と医療技術の発達によりそれが実現されれば社会は必然的に高齢化するのだから、我が国はじめ先進諸国は人類が求め続けた正しい道程を歩んでいるのであり、人類の求める理想に最も近しいものである。それなのに、なぜ現在我々がこの高齢化を「対策」すべきものと考えるのかといえば、それは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」としてバブル経済に沸き立ち豊かさを大いに享受し、労働力人口(14歳~64歳)が全人口の圧倒的多数を占めた80年代へのノスタルジーがあるではないか。そうした思いが我が国の各種政策の背景に透けて見える(その点は肌感覚では同意できる部分があります)。そして、我が国の現在の社会保障制度は、その人口構造上最も有利で、世界一の経済力を謳歌したその特異な時代の特異な社会環境を前提にした制度であるから、21世紀型の安定社会でうまく回らないのは自明の理である。



加えて、現代社会において私たちが健康を害している主な原因は、かつてのような飢餓、感染症、戦争といった個人の力では如何ともし難い不可抗力のようなもの(外因性でシングルファクターの疾病等)ではなく、主に生活習慣病のような、自分自身の行動に由来するもの(内因性でマルチファクターの疾病等)である。翻って、元来我が国の国民皆保険制度は、結核に代表される感染症や怪我のように「誰もが襲われるリスク」から労働者を守り、経済成長を維持するための労働力確保を目的に整備された。そのように国民全体でリスクを分かち合うことで、かつて死因トップであった結核をほぼ根絶したことに代表されるように、「世界に誇るべき成果」を残した。しかし、所期の目的は達成したものの、手厚い医療保険制度はそのまま維持され、現在のように本来予防可能な生活習慣病の治療に対しても当然のように公的保険から医療費が給付される状況が続いており、結果として、予防に対する取組は劣後し我が国の医療保険財政は破たんの淵に追い込まれている。「医療が高度化しているのだから治療にお金がかかるのは当然」というのも果たして本当にそうか。日本の奇跡のような医療環境が患者をどれほど幸せにしたのか。国民皆保険制度が実現する恵まれた医療環境によりあらゆる医療環境によりあらゆる治療が可能になった結果、人生の最期、つまり高齢になったタイミングで「手を尽くしました」というアリバイ作りのような医療のために膨大な費用と医療関係者のリソースが割かれているのではないか。



このように、いつでも誰でも最先端の医療を低コストで受けられる「奇跡の制度」が、かえって日本人の中で健康管理の優先順位を劣後させ、それにより「恩恵」だったものが「権利」に変化したのではないか。上記のような疾病の違いをあらためて認識し、適切な対応を図ることができれば今からでも医療費の適正化を図ることは可能である。その解決策の方向性としては、端的に言えば医療サービスの提供方法(がんなら患者自らのアプローチを基本に据えること、患者がもっと幸せになれるがんの治療方法の模索、認知症予防のために高齢者に出番と役割を与えること⇒医療の役割は「治す」から「導く」へ、そして診療データの適切な統合と診療への活用など)に加え、健康管理に取り組みやすい社会環境を整えること。さらには結果的に人々の健康度が高まるような魅力的なサービスを充実させること(楽しんでいるうちに健康になる、健康になると得をするような民間保険商品の提供、健康を楽しく、おいしくするヘルスケア産業の振興など)で、公的保険制度が適切に運用される前提条件を整え得る。そうすれば国民皆保険制度のよい部分は残しつつ、制度の「沈没」回避を実現することができる。このような取り組みにより、人生のラストフェーズにおいて、病院で薬漬けにされて苦しみながら亡くなっていくのではなく、最後まで自律的に、社会的な役割を持ち、健康で幸せに「生き切った」という想いとともに人生の終焉を迎えるような国にしていくことができるのではないか。それにより、引いては「世界が憧れる日本へ」変わっていくことができるのではないか、



以上が、誠に雑駁でなかなか腹落ちしないとは思いますが、大まかな筆者の主張ではないかと思います。ちなみに、第三章「社会は変えられる!」のパートでは、改革派官僚である筆者が経済産業省で、また出張先の県庁で数々の困難や不条理に立ち向かい、ゴリゴリと問題を解決していった際の様子や経緯が事細かに描かれており、現役の公務員の方は勿論、公務員の日々の仕事に興味のある方はそのあたりも興味深く読めるのではないかと思います。そして最後に、著者の目指すところを端的に言い表していると個人的には思う本の帯の裏にある言葉をご紹介します。「筆者は、これまでの数々の課題に“部外者”の視点から切り込み、それまで不可能と思われてきた改革を実現してきた。“”思い描くのは、次世代に残すべきこの国の未来であり、世界が羨望と畏敬の念を持って見つめる『憧れの国』日本の姿だ。」ということで、特に「部外者の視点から切り込み、それまで不可能と思われてきた改革を実現してきた」という下りが、如何にも他人の庭に土足で上がりこんであーでもないこーでもないと口も手も出していく経産省の方らしいなと思って笑ってしまいました。

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真夏の読書くらいはやはり先の大戦に関するものを、ということで今回はこちらをチョイスしました。表題の「アメリカの鏡・日本」(”Mirror for Americans:JAPAN”)が意味するところは、文字通り近代日本(=戦前の日本)は同じ時期の米国はじめ西洋列強が作り出した「映し鏡」であり、当時の日本に対する批判はそのまま西洋列強自身に跳ね返ってくる。鏡に映るのは自分たち自身の姿なのであり、近代の犯罪はそれを捌いた連合国の犯罪であるというものです。つまり、米国人が戦前及び戦中に「最も軍国主義的国家」、「ファナティックな好戦的民族」、「滅びるまで戦う覚悟の狂信的国民」であると国内で喧伝して対峙し、戦争により「懲罰し拘束する」としてきた近代日本だが、実はその日本というのは260年に及ぶパックストクガワーナの鎖国下で平和や安定を享受していたところ、黒船襲来という米国自身を含む列強の圧力を受けて「西洋文明を映す鏡を掲げてアジアの国際関係に登場してきた」のであるから、実のところ「アメリカ人は日本人の『本性に根ざす伝統的軍国主義』を告発して戦ってきた」が、実はその「告発はブーメランなのだ」(ブーメランという言葉は好きではありませんが…)というのが筆者の問題提起です。要するに(戦後の占領によって)「私たちが改革しようとしている日本は、私たちは最初の教育と改革でつくり出した日本なのだ」とも述べています(本作で著者は終始一貫して「合衆国は」、あるいは「連合国は」といった三人称は用いず「私たち」といった一人称を使用している点も感じるものがあります)。

著者であるヘレン・ミアーズさんは、豊富な日本滞在経験もある米国人の日本専門家です。戦中は米国陸軍省の占領地民政講座で講義を行い、戦後はGHQに設置された労働諮問委員会の委員も勤められた女性ジャーナリストで、本作はもともと彼女が帰国後の1948年に上梓した著作となります。ただ、当初こそ全米の注目の的となった著者ですが、本作の内容は当時の多くの米国人にとっては当然ながら不愉快なものであり、やがて無視されるようになったといいます。そして本作の日本での和訳出版については、当時占領軍のトップであるマッカーサー元帥が「私はいかなる形の検閲や表現の自由の制限も憎んでいるから、自分でこの本を精読したが、本書はプロパンガンダであり、公共の安全を脅かすものであって、占領国日本における同著の出版は、絶対に正当化しえない」と言い抜けて却下し、その後占領終了の翌年になりようやく出版が認められたという経緯があったようです。私は先の大戦で我が国が被害者で戦争責任はないといった論には与しませんし、戦に敗れサンフランシスコ講和条約を結んでしまった以上、ある程度の屈辱も受け入れるより致し方なしと思っています。加えて昨今の一部の排外主義的な動きには嫌悪感さえ抱いている立場ではありますが、こうした(日本人から見れば)ある程度フラットな見方が当時事実としてあり、それも敵対した米国人の中にこうした理解を示してくれていた人もいたのだ、という点は知っていて損のないことではないと思います。そういう意味で、やや終盤は冗長でだれるところはありますが、お薦めできる本と言えます。

以下中身に関して言えば、猪瀬直樹さんの「昭和16年夏の敗戦」においても同様でしたが、本作では日米各々の陸海軍の所有する飛行機の台数、戦前・戦中の飛行機の生産能力や生産の台数、保有する艦船のトン数、同じく戦前戦中の艦船の建造能力や建造実績、鉄鋼の生産実績といったデータで両国の「国力」を比較する箇所があります。要は戦前戦中に米当局が散々日本を「世界の脅威」として煽っていたが、実のところ彼我の国力差はこれだけあったのだ、ということを強調するのが狙いなのですが、この部分で両国の歴然とした当時の国力差を改めて定量的な数字をもって思い知らされ、読んでいて誠に誠に切なく、これだけ国力差がある敵国に玉砕覚悟で挑んで命を落としていった我々の先祖たちの無念を思うと心の底から悲しくなってきます。当時の日本が米国をはじめとした列強の一部に追い込まれて戦争に踏み切らざるを得なかった事情はある程度斟酌はしますが、それにしても、その時々の為政者は負け戦、それも完膚なきまでに負けるような戦は決してしてはいけないと、その後現代に至るまで数々のレガシーを我が国が抱え続けている現状にもかんがみ、あらためてそう思わざるを得ません。

そして冒頭申し上げたとおり、当時のアメリカはじめ連合国が満州事変以降の我が国の行為が「侵略的である」として批判をしているところ、著者は満州事変以降の日本のビヘイビアについても先輩である欧米列強から教わったプロトコルから外れないように日本は苦心して自らの行為を律していた、としています。そして、「日本の行為は侵略であり残虐な行為もあったが、それは他の列強の行動様式と特段に変わるものではない」と断じた上で、いわゆるリットン調査団の報告(1932年10月)で日本がその行為を「断罪」され満州からの撤退を勧告されたのは、恐らく日本としては青天の霹靂だったのではないかと同情さえしてくれています。その列強のご都合主義ぶりは、20世紀初頭にロシアの南下が脅威であれば日英同盟を組んだ上で「番犬」として日露戦争をさせてその南下を食い止め、その後共産主義化したロシア(ソ連)の南下を満州で食い止めていた日本を、今度は最終的に当時日本と不可侵条約を結んでいたそのロシアを味方引き入れて倒したという点に象徴される、とも述べています。

また、そうした当時の西洋列強及び日本のビヘイビアを説明する中で、本作においては「法的擬制」と言う言葉が多用されています。戦前に西洋列強がアジア等に植民地、あるいは勢力圏を作ろうという際に、国際法上合法であることを「擬態」した法的なフィクションのことで、植民地の解放、自由、独立(民族自立)、民主化などといった理想や大義とは大きくかけ離れたものである、というのが筆者の定義のようです。例えば、列強の国が援助してできた傀儡政府を中央政府であるとする擬制、実質列強の支配下にある国を独立国であるとする擬制、国際連盟がその実植民地を持つ列強諸国が自身の体制を維持するための装置であったにもかかわらず美しい理想を掲げていたこと、大東亜を解放するというスローガン、といったものが具体的な例としてこの文脈で掲げられています。当時の我が国も先輩である西洋列強に習ってこの法的擬制/プロトコルをしっかり維持していたにもかかわらず(西洋列強は自分たちのことは棚に上げて)日本を非難して侵略者に仕立て上げたのだ、ということです。

なお、筆者は執筆時点での日本の行く末について大変に案じてくれており、アメリカはじめ駐留軍が日本を金輪際戦争のできない国にするのはもちろんのこと、競合産業を縮小させる等してこのまま経済をシュリンクさせていけば、維新後に倍増した日本人の人口を食わせていくことも危ういのではないか、と危惧してくれています。筆者の見立てでは、米国は当時日本をやっと食べていける程度の国にするつもりだったようです。それが、この時期にロシア、やがて中国で共産主義が勃興してきたからこそ、それを食い止めるための砦として日本を本格的に復興させようと心変わりしたわけですから、このタイミングで共産主義がこの地域で勢いをもったことは結果的に我が国にとって僥倖だったと思わずにはいられません。全くもって皮肉なことです。

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平成最後の夏を目前に控えた頃の話になりますが、数ある池井戸作品の中でも前々から読んでみたいと思っていた「銀翼のイカロス」(以下「半沢」)の文庫版が遂に出た、ということで早速購入してみました。ただ、本作は早いものでもう10年近く前になろうとしている日本航空(JAL)の破綻劇を架空の「帝国航空」というナショナルフラッグキャリアである航空会社の破綻劇に置き換えた上で、破綻から再生のプロセスの一部を「東京中央銀行」という3メガバンクの一角となる銀行の担当者の観点から描いた作品と聞いていたので、まずは「半沢」を読む前に現実に起こったJALの破綻から再生、そして現在までのプロセスを思い起こした上で読んだほうがよりリアリティをもって楽しく読めるだろうと思うに至りました。そこで、数あるJALの破綻から再生までを描いた著作の中からこの「JAL虚構の再生」(以下「虚構」)をチョイスして半沢の前に読んでJAL再生事案を復習してから「半沢」に臨みました。まず「虚構」ですが、こちらは元ジャーナリストで嘉悦大学教授である小野展克さんの手によるものですが、表題からわかるとおりJAL再生に批判的な立場から書かれた本です。そして本作をピックアップしたのは他ならぬ自分自身も「JAL再生は産業政策上の顕著な失敗例」と認識しているからに他なりません。

我が国のフラッグシップキャリア「だった」JALが破綻前と同じ、否それ以上のぴかぴかの姿で不死鳥のように舞い戻ったことはJALファンの方ならずとも美しい事業再生ストーリーのように思えるかもしれません。しかし、決して忘れてはいけないのは、同社の再生にあたっては公的金融機関である政策投資銀行による3,500億円の出資と同規模の融資という手厚い「公的支援」が施された上、金融機関による5,215億円もの債権放棄(=借金棒引き)、さらに破綻時に莫大な損失を出したことで7年間にわたり通算数千億円規模で法人税を免税されたことにより、本来なら市場から退場していたはずのJALが少なくとも年間1,000億円規模で「下駄を履かされた」結果、再生後は毎年のように莫大な利益を上げ続けているというファクトです。何が問題かと言えば、財務的には自分の足で立ち続けて経営を続けてきたANAが、この公的支援による再生劇により競争上劣位に立たされているという現状です。勿論JAL自身の経営努力もあるとは思いますし、自民党政権になってからANAに対するわずかばかりの見返りとして、ドル箱とも言われる羽田空港の発着枠が傾斜配分されANAに多めに配分されたりはしました。しかし、傾斜配分は焼け石に水という程度であり、もし次に金融危機、テロ、感染症のアウトブレイク等の「イベントリスク」が起きた場合、税金で救われたJALが悠々と生き延びる一方で、曲がりなりにもこれまで自分の足で立ってきたANAが倒産するという最悪の事態も十分に考えられます。JAL再生を民主党政権の数少ない功績、と見る向きも一部にはあるようですが、個人的には産業政策、競争政策史上に残る大失敗であったと理解しています。

「虚構」は(1)「政権交代が開いた扉」、(2)「タスクフォース、再生へのシナリオ」、(3)「会社更生法申請へ」、(4)「破綻への軌跡」、(5)「羽田国際化」、(6)「錯綜する再生へのシナリオ」の6部構成となっています。(1)ではレガシー構造、具体的には自民党政権下で政(地元に空港を作りそこに路線を開きたい国会議員)、官(運輸省)、財(JAL)のもたれあい構造、その中でゆで蛙状態が続き経営が悪化し続けていたJALが、政権交代により、民主党政権の下でパンドラの扉が開かれ、政権の足元は覚束ないながらも我が国航空産業の再編を含めた抜本的な再生に向けおうとする様子が描かれています。(2)法的根拠のない前原国交大臣の「JAL再生タスクフォース」(以下「TF」)が再生の青写真を描く一方、前原大臣が当初こそ「国際線一本化」(ANAがJALの国際線部門を吸収)を口にするも、経営トップに就いた自らの有力な支持者・稲盛和夫氏や民主党政権内の権力ゲームに負け、最終的に千載一遇の航空業界の改革チャンスが中途半端なものに堕していく様子、そして前原TFと企業再生支援機構との間の主導権争いが描かれています。(3)では主導権争いに勝ち、TFの再生計画を「がらぽん」した企業再生支援機構が財務省、政策投資銀行、メガバンク、そしてTFなどのアクターとの鍔迫り合いの中で再生計画をあらためて練り上げていく様子が描かれます。(4)では戦後国有会社から始まったJALが政治や行政の関与を受けながら、途中悲願の民営化を果たしつつも、御巣鷹山の事故などもあり徐々に破綻に向かう様子を振り返っています。(5)では第1次安倍政権が画策するも安倍総理の退陣もあり尻すぼみに終わり、民主党政権下でようやく実現に漕ぎ着けた羽田空港の本格的な国際化、そのスロットをめぐる再生復活JALとANAが火花を散らす様子などが描かれています。最終章の(6)ではJALを解体して国際線をANAに一本化するという本来あるべき案が稲盛会長により一蹴され、日本の航空産業の競争環境が歪んでいく様子が描かれています。

「半沢」は主人公の半沢直樹が勤務するメガバンクである東京中央銀行が帝国航空(=日本航空)の破綻と再生をめぐる骨肉の争いに、同行の主担当として巻き込まれ戦っていく様子が描かれています。今シリーズは、個人的にはTVドラマと本作しかチェックしていないので自分の経験としては言えませんが、基本的に時代劇のようなわかりやすい「勧善懲悪」モノであると理解しています。そして今回主人公である半沢直樹の前に立ちはだかるのは(1)新政権の国土交通大臣とその後ろ盾になっている大物という2人の政治家とその大臣の私的諮問機関であるタスクフォースの「再生屋」の弁護士たち、そして例によって例のごとく後ろから刺してくる(2)東京中央銀行内のライバルたち、というのが大まかなプロットです。ここでは完全に悪役の国土交通大臣は華はあるものの高飛車で無知な若手女性議員というキャラ設定ですが、これは現実の前原さんもさることながら、恐らく蓮舫さんあたりとのハイブリッドモデルなのではないかと思います。そして、陰に陽に銀行に債権放棄を迫ってくるTFのリーダーについては、現実世界の前原TFの弁護士さんをベースに半沢シリーズらしい悪辣さのスパイスを施したものではないかと思います。法的根拠のないTFが大臣の威光などをバックに銀行団に融資残高の7割に上る債権放棄を迫り、それに立ち向かう半沢という構図になっています。そして政治家の大物スキャンダルなども絡みながら合併行である東京中央銀行内の派閥争いなども絡んで物語は展開していきます。

「半沢」では銀行としてTFが迫る債権放棄を認めるかどうかが物語の焦点になっていますが、現実のJAL再生劇では銀行の債権放棄受け入れは特段大きな論点にならずほぼほぼ規定路線という感じで、むしろ論点はJAL解体の上で国際線はANAに一本化する=(私に言わせれば)産業政策としてあるべき王道を行くのか、という点と、もう1つ挙げれば、「虚構」によれば前原大臣指示の下で再生案を練り上げたTFと、政官の諸々の駆け引きを経た上で最後に実際に救済を担った企業再生支援機構(現地域活性化支援機構)との間の主導権争いというあたりだったのではないかと思います。そして現実に政投銀+メガバンクは上記のとおり多額の債権放棄を受け入れています。また、「企業再生支援機構」については、「半沢」では「企業再生支援機構」の名前こそ最終盤にこそ出てきていますが、あくまでそれは作品以降のアクターとして名前が出てきているに過ぎません。JALがモデルになっている「帝国航空」も、当初こそどうしようもない企業として描かれていますが、むしろ最後は、どちらかというと変化の萌芽を見せつつあり、TFの横暴に逆らうことのできないけなげな被害者のようにさえ描かれています。

両作を比較してみると、相違点は以上の他には、時系列に多少の相違があったり、現実世界で起きたのは右派政権から左派政権への政権交代だったのに対し「半沢」ではその逆になっていたり、細かい点で「虚構」≒現実と「半沢」との間に相違点はありますが、総じて「事実をベースにしつつ、香味料や薬味をふんだんにまぶして美味しく味付けしたフィクション」ということになるのだと思います。勿論「半沢」だけでも十分面白く読めるのですが、「虚構」のような本でファクトを整理してから読むと更に面白く読めること請け合いです。個人的に池井戸作品では、この夏にたくさん鑑賞した映画のひとつである「空飛ぶタイヤ」も、チャンスがあれば今回と同じような読み方をしてみたいと思っています。

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著者のロバート・ライシュさんは米クリントン政権で労働長官、オバマ政権では同大統領のアドバイザーを務めるなど米民主党政権において要職を歴任してきたリベラル派の経済学者であると理解しています(ここでいう「リベラル」とは日本政治における「リベラル」とは意味合いが異なります)。そのライシュさんの著作である本書(原題"BEYOND OUTRAGE"(怒りを乗り越えて))は2012年に、そしてこの和訳版は2年後の2014年に刊行されていますが、本書において著者は、表題のとおり米国における経済格差の問題点を指摘し、解決策を提示しています。

ただ、そうした格差問題について「21世紀の資本」のピケティはじめ経済学的観点からその構造や背景は各所で指摘されているものの、本書がそれらと少々異なるのは、そうした格差が放置され、拡大する背景にはその格差によって民主主義が機能不全に陥っているからである、だから機能不全に陥っている民主主義を改めるために有権者は行動すべきだというのが、本書における著者の主張であるという点です。

つまり、格差=富と権力がトップ層に集中することにより莫大な富を得たトップ層は、政治献金といったツールを通じて立法府、行政府、そして司法までを意のままに操ることで法制度、税制や司法判断を自分たちに有利に/不利にならないようにし、それにより更にトップ層への富と権力の集中が進んでいる米国の現状がある。それにより「本来万人にとって機能するはずだった経済活動や民主主義が失われ」つつあり、経済や政府がほんの一握りの権力ある富裕層、よく言われるトップ1%、のために存在するという危険な事態に直面している。従い、この事態をあらためていくためには有権者ひとりひとりが議員や立候補者に対して、

・富裕層に対する資産課税/所得課税の税率を以前の「適性」レベルに引き上げ

・金融取引課税

・軍事予算の削減(国防の質は落とさないという条件付き)

・社会保障の充実(医療費上昇の抑制、メディケア実現)

・上記による歳入増加と予算削減の成果を公共財(主に教育とインフラ整備)に回す

・金融機関に対する規制を従前のとおりに戻す

・政治献金の規制

といったことを実現するよう迫っていくべきだ、というのがライシュさんの手による本書の論旨です。

ただ、こうした主張は基本的には正論でそれぞれもっともなものだろうとは思いつつ、特に税制や金融規制の問題はグローバル化した世界経済においては国際協調が必要不可欠で一国だけでは解決できない問題(抜け駆けする国が現れればたちどころに逆回転を始めてしまう)であることから、運動としてかなりの困難を伴うものなのだろうとは思います。逆にいえば、本書が翻訳されて日本はじめ各国で読まれる意義というはそういうところにあるのでしょう。そして、本書では一貫して政敵である共和党に対する批判が展開されており、民主党の方なのだから当然といえばそうなのでしょうが、党派色はかなり強いので、その点は事前にわかっていてもなお少々鼻に突くところではあります。そして著者のロバート・ライシュさんについて言えば、2011年ころにニューヨークタイムス紙に同氏が寄稿していた記事における、米国における長期的な格差拡大の推移、そして格差が一定程度まで拡大する=世界大恐慌のような経済的カタストロフィーが近づく、という指摘が個人的には印象深く、酔狂にもピケティさんのあの分厚い本を読んだひとつのきっかけになっていたりします。

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「日本再興戦略」という表題だけだと毎年の政府が閣議決定しているいわゆる「成長戦略」のようにも思えますがさにあらず。著者の落合陽一さんは、筑波大学助教として教育に携わり研究者として論文を書き学界にも顔を出す一方、起業家でもあり、かつアーティストであるなど若くして多才な人物として、NewsPicks等の新興ネットメディアにとどまることなく最近ではオールドメディアでも徐々に脚光を浴びつつある新進気鋭の才能です。ご本人も政界進出の可能性を示唆されており、小泉進二郎議員あたりからも秋波を送られているなど「戦略」を立案するのみならず実行段階においても主体的に役割を果たしていかんとしているという点でも注目に値する方と言えましょう。ちなみに、なんとあの落合信彦(その昔のスーパードライのCMにも出演)さんの御子息というので個人的には少々びっくりしました。自分も学生時代のある時期に父上の著作もいくつか読んでいますので、親子2代にわたりお世話になっている、ということになります。以下概要です。

 日本再興に関する著者の基本的な考え方というのは、明治維新の時に一気に「西洋化」したがゆえに、西洋的な考え方や発想に捉われがちな我が国だが、今こそ東洋的発想に立ち戻るべきであり、さもないと日本の再興はないというもの理解できます。個人と集団、そして自然化と人間中心との間でものを考える中で、今は自然で集団の時代に突入している。いきなり西洋化した我が国なのだから、いきなり東洋に回帰してもよいのではないか。そもそも我々日本人は東洋人であるにも関わらず東洋を軽視し過ぎであり、自分たちのバックグラウンドにある東洋思想を学ぶべきである。西洋的な思想は言葉の定義が明確でわかりやすいという魅力があるが、他方東洋的思想はわかりにくいものを頑張って勉強していくことで理解していくという価値観であり、言外の意味を修業によって獲得していくという基本スタンスである。これに対し、西洋の精神は個人主義でみんなが理解する権利があると考え、内容が理解できなければ「それはわかりやすくインストラクションしないお前が悪い」という精神なのであるとしています。

 この基本スタンスについては、分野別に現状を例示しています。まず法律分野ですが、我が国は明治時代は欧州各国、戦後は米国の仕組みを取り入れて社会を構築してきたため、大日本帝国憲法はドイツ式、日本国憲法は米国式、刑法はドイツ式、民法はフランス式と斑模様であるを指摘しています。ひとえに「欧米」と言っても米国と欧州は異なり、また欧州各国もそれぞれ歴史、文化、伝統は異なっており、いわば我が国の諸制度というのは諸々の国々の制度の継ぎ接ぎということになる。従い、現在行われている憲法改正の議論を著者流に解釈すれば、国防上の問題に留まらず、そうした現状を時代に合わせてアップデートする必要性からなのである、ということになります。そして、こうした法令に限らず、時代の変化にあわせて、こうした「いいとこどり」の旧最適化モデルを変えていく必要があるとしています。

 また、我々の働き方について斬新な提案をしています。日本は歴史的にも労働時間の長い国であるとしているが、とはいえそれは生活の一部として仕事をしてきたということなのだというのが筆者の理解です。勿論、働く人が感じるストレスないことが重要なのは間違いないとして、その程度を一律に労働時間だけで測る必要はない。西洋からやってきた概念である「ワークライフバランス」の名の下にON/OFFのボーダーを設けて分離することが本当に幸せに繋がるのか、という問題提起をしています。他方、同時に日本の会社という組織も今の時代にアレンジする必要があるともしています。会社は本来「ギルド」であり「カンパニー」であるべきところ、日本の会社はソサエティ=「閉鎖的なムラ」になってしまっているため、これをより開放的なムラ、コミュニティにしていく必要がある。そして様々なコミュニティが生まれ、ヒトは複数のコミュニティに所属し、所属コミュニティを自由に変えることができるというのが理想的で、そこでヒトは好きなコミュニティに依存していけばよいのである、というのが著者の主張です。

 更に、我が国の統治、政治体制のあり方については、「明治以来の西洋的国民国家の中央集権体制は日本には向かない」と断言しています。地形や自然というルールが多様な日本はとても「ブロックチェーン」的であり、平安時代以前や江戸時代のような地方分権による意思決定が向いているのだと言います。この「ブロックチェーン」ですが、最近いろいろな書籍や記事を読みまくって理解しようと試みております。これまでのような中央集権的な運営体制から、中央の運営主体がなくより分権的なものになるのだ、くらいまでは理解できたものの、私立文系で著者の言うところの「ホワイトカラーおじさん」である私にはなかなか腹落ちするところまでは至っておりません。更なる精進が必要ですね。

 さて本題に戻りますが、それでは様々な技術がどのように世の中を変えていくのか。まず、近代は人間を画一化することで効率を上げ、全体の生産性を上げてきた。そうして生まれた画一的定義による「標準」から外れたものとしてマイノリティが生まれ、場合によっては差別を生んできた。こうした二項対立から抜け出せなければ人間は近代を克服することが出来ない。インターネットはこれまでマスという概念をもたらしてきたが、今はインターネットはパーソナライズへ移行しようとしている。自動翻訳、ロボティクス、自動運転、5Gといった新たなテクノロジーが我々のの生活を大きく変える。そして、目の悪い人がメガネの登場により何不自由なく生活できるようになったように、新たなテクノロジーがこれまでマイノリティとされてきた人々を何不自由ない人々に変えていくだろうと予言しています。

 そして、我が国最大の懸案事項のひとつである人口減少については、ピンチではなくむしろ人類史上稀有な大チャンスであると捉えています。そしてそれは、(1)省人化に対する「職を奪われる」といった抵抗が少なくて済む、(2)他国に先んじて人口減少と少子高齢化を経験することにより今後の国としての輸出戦略になりうる、(3)人材の教育コストを多くかける国になる、の3点においてです。この指摘には大いに頷けるものの、ただ、個人的に3点目に関しては眼下のシルバーデモクラシーの台頭をふまえるとやや疑わしい面があるのかなあという気も一方でしています。

 また著者は、日本人は革命のような急激な変化は苦手だが、改革や革新は得意なので日本をアップデートしていくという発想を持つべきとしています。機械が仕事をしてくれれば1人当たりの年収が大きく上がる。そして人口減少による需要減は先述の輸出で補うことがある可能としています。ただ、これについても、とかく不安定な輸出を前提にした国家戦略というのはやや危険な気もします。著者は否定しますが、他国による技術のキャッチアップもあり得るでしょうしね。

 そして著者は日本再興の切り札として、ロボットや自動運転の他にブロックチェーン技術を推しています。ブロックチェーンとは、著者の言葉を借りれば「分散型の台帳技術と言われますが、あらゆるデータの移動歴を、信頼性のある形で保存し続けるためのテクノロジー」、「しかも、誰かが一元的に管理するのではなく、全員のデータに全員の信頼をつけて保っていくことができます。」、「非中央集権的なテクノロジー」ということで、最近ではホットイシューである仮想通貨や公文書管理問題の解決といった文脈でよく耳にする言葉ですね。ブロックチェーンが非中央集権的なテクノロジーというのは、データの移動歴を一人の管理者が中央集権的に記録当の管理をするのではなく、複数のアクターが相互監視の下、つまり複数の参加者の認証により移動がオーソライズされ記録されていくということです。

 そしてこの認証を適性に行う動機づけとしてトークン(≒仮想通貨)が配布されるというのが一般的なスキームのようです。筆者はこのブロックチェーン技術と仮想通貨により生まれる「トークンエコノミー」という経済圏が日本を変えていくだろうと期待を寄せてます。先述の通り筆者の認識では日本は基本的に非中央集権的であり、しかもポイント好きな国民性からもわかるとおりトークンエコノミーと親和性があるとしています。そうした中、今日本に必要なのは民主主義を地方自治重視にアップデートすること。あらゆる地域の主体の参加意識をもう一度地方に戻す事。投票のルールも政治のやり方も全国一律ではなく各地で決めていけばよいというのが著者の主張です。このあたりは大いに議論の分かれるところでしょうが、個人的には著者の主張に期待してみたいと思っています。

 このトークンエコノミーですが、国の形だけではなく経済や産業の形も変えうると著者は見ています。トークンエコノミーの受益者負担、自給自足があればグローバルなプラットフォームによる搾取を防ぐことができる≒シリコンバレーと戦う最高の戦略になるというのです。AGFA(Apple、Google、Facebook、Amazon)といった巨大なプラットフォーマーにお金も情報も吸い上げられているのが現在の日本で、こうした状況にピリオドを打ちローカルな経済圏を作るための武器となるのがブロックチェーン化であり、トークンエコノミー化である。元締めとなるプラットフォームがなくてもユーザー同士で情報を管理したり、取引ができたりする仕組みで、これは日本の伝統的な価値観にも合っていると見ています。

 もし我々が受益者負担のオープンなブロックチェーンベースのサービスを提供できればアップルやグーグルやアマゾンにお金を稼ぐ抜かれなくて済む。逆に言えば、こうしてシリコンバレー発プラットフォーム社会を超えて行かない限り、我々は永遠に裕福にはなれないのではないか。このようにカルフォルニア帝国に対抗するトークンエコノミーの基盤のひとつになり得るのが仮想通貨だが、これが取引に使えるものとして定着すれば良いトークンエコノミーは一気に飛躍しやすくなる。しかしながら、現在投機マネーの流入により不安定になっており、望ましい状況ではないと懸念しています。

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職業作家の佐藤優さんが臨済宗相国寺派の研修において同派僧侶及び一般市民の受講者に対して行った4回の連続講義の内容をテキスト化したもので、その内容はクリスチャンの目から見た足下の危機に対する克服の処方箋というものです。著者は宗教というものの本質について、「人間を救済すること」としていますが、その宗教から危機に強い人間になる技法を体得ために本書は有益であると位置づけています。キリスト教徒(プロテスタントのカルヴァン派)である著者が僧侶という仏教専門家に対して行った講義内容ということで、宗教専門家以外にもわかる内容に編集しなおされているようです。本書の構成は講義に合わせて4つに分かれており、以下それぞれの講について概略や個人的に気になったものを抜粋します。

「第1講」では、世界情勢を読み解く上で必要となる世界3大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、仏教それぞれの基本的なスタンスについて、時に時事問題のケーススタディも織り交ぜながら説明しています。キリスト教については、「神学論争では常に論理的に弱い方、無茶なことを言う方が(弾圧したり政治的圧力を加えて)勝つ」、「神学的な論争には進歩がなく、論争をしても暴力的な形で決着がつき、数百年後にまた同じ議論が蒸し返される」という自虐的にも思える認識を示しつつ、西欧を作っている根本原理として①ユダヤ・キリスト教の一神教の原理、②ギリシャ古典哲学の原理、③ローマ法の原理の3つを挙げています。

なお、ここで著者は「一神教は不寛容で多神教は寛容」という俗説」について、(ⅰ)一神教は神様と自分との関係において自分だけが救われればよいと考えており、他人がどうしようが関心がないと言う意味で寛容であり、(ⅱ)世界を見渡して紛争を起こしているのは一神教だけではなく多神教同士の紛争もある、という2点をもって否定していますが、私は著者の否定する「俗説」をまだ捨てきれませんので、そちらはもう少し研究してみたいと思っています。イスラム教については、一口にイスラム教徒と言っても、主流派であるスンニ(スンナ)派と、イランで盛んなシーア派の2つに分けられ、そこから更に分派していく。そして、イランの核開発問題やシリアのアサド政権の行動原理といった世界情勢を理解しようとする上ではそうした分派のスタンスまで理解する必要があるようです。そして仏教については仏教の専門家相手ということもあってかここでは詳しく触れていません。

「第2講」では「『救われる』とは何か」。宗教というのは何のためにあるのかということで、基本的には人間の救済のためにあるものとしています。そして、その宗教は必ず物語の形で語られること、神話は科学によって拒否するものではなく解釈するものであることを指摘しています。また、日本人の思考方法として、基本的に「言挙げ」(言葉に出して言い立てること)をしない。あるいは「言挙げ」できるものによって「言挙げ」できない部分を知るという方法であるとしています。他方欧米では、フランス革命の原動力の一つであり、米国の建国の理念でもある「啓蒙主義」があります。そこでは理性が基本にあり、つまり啓蒙とは真っ暗な部屋に1本また1本と蝋燭を立てることで明るくなり、それまで見られなかったものが見られるようになる(理解できなかったものが理解できるようになる)というもの。この考え方が近代欧州で強まったが、それに対し、「いや光があれば影があるはずだ」と言うことでその影の部分=暗闇に着目したのがロマン主義である。ロマン主義の立場から言えば、啓蒙主義で蝋燭を立てて明るくしていった結果が第1次世界大戦、第2次世界大戦というカタストロフィーだった。これは光を増やせば増やすほど闇が増大したのではないか、そこにナチズムの跋扈のようなことが起きたのではないかとの認識であるということ。。

「第3講」は「宗教から民族が見える」ということで、民族というのは、宗教としては国家とともに避けて通ることのできない問題です。生きている人間と向かい合う必要のある宗教としては、生きている現実の政治、現実の民族、現実の国家の動きをまず押さえないといけない。最も強い宗教や主流の宗教という観点から見ることで実は民族が見えてくる。そしてその強い宗教というのは「宗教」というよりもむしろ「慣習」という形であらわれる。

いにしえからの伝統について、合理性では割り切れないが「真理」として信じるものがある伝統宗教。これに対して、いわゆる「新宗教」の構成は近代主義的で、合理的な考え方をうまく取り入れている点を指摘しています。そして、その新宗教のひとつであったオウム真理教について、実は仏教というよりもキリスト教のドクトリンの方が強くなっていったのではないか、という指摘は興味深いものでした。実際に麻原彰晃氏とその仲間が著者の専門分野であるロシアに行っているそうです。そのロシアの19世紀の思想家ニコライ・フョードロフは「科学技術が発展すれば人類は人間を生物学的に完全復活させることが可能になる」としている。そして、もしそれが実現し、アダムとエバまで遡る過去の人類がみんな復活すれば地球が手狭になる。そうなれば宇宙に出るためのロケットだ、ということでロケットの元になる考え方を発案したそうです。この発想は「ロケット工学の父」と言われる人物を経由してドイツに流れ、フォン・ブラウン博士によりV1ロケット、V2ロケットというナチスドイツ軍のミサイル兵器となり、引いてはソ連の人工衛星や米国のアポロ計画に繋がったといいます(「フォン・ブラウン」というワードはガンヲタとしては反応せざるを得ません)。つまり、人類の宇宙に対する関心の根っこに宗教的動機があったということなります。そして、その「万人を復活させる」という考えが麻原氏の思想に影響を与えた。「魂が死んだ後も残る」という発想は仏教ではなくキリスト教の発想で、実際麻原氏は「キリスト宣言」までしている。そして「オウム真理教という素晴らしい宗教に弾圧をかけようとする政府や反オウムの人々はそれにより自らの魂を汚すこととなってしまう。だから魂を汚す前に彼らを殺してしまうことが彼らの救済に繋がるのだという、考えに陥り、あのようなテロ行為を行わしめた、という指摘です。

またここでの一連の指摘として、日本人は成文憲法を作りなくなかった。今の憲法(日本国憲法)が「おしつけ憲法」だとすれば、大日本帝国憲法も「成文憲法のない国になど関税自主権は与えないし、治外法権も撤廃しない」という外圧によるという意味でやはり「おしつけ憲法」ではないか。我々は日本人だと言う目に見えない憲法が我々の中に生きている。だから憲法が実態と離れても余り困らない、というものがありましたが、「日本には英国のような不文憲法の方がなじむのではないか」という考えに至りつつある自分としては少々興味深いところです。

そして、我が国にも、天皇神話に包摂されていない沖縄と言う「民族」問題があることを忘れてはならない。沖縄という存在がある以上日本もやはり「帝国」である。沖縄は日本と異なり、「天の意思が変わり、天に見放された権力者には従う必要はない」という中国の易姓革命思想がそのまま入ってきている、といった一連の指摘は、母上が沖縄のご出身である佐藤さんならではの視点と言えましょう。

最後の「第4講」は国家と宗教ということで、「国家というものを見つめると宗教の重要性が見えてくる」とした上で、国家と民主主義というもののあり様を考える上で、「中間団体」としての宗教団体の重要性を指摘しています。ここでいう中間団体とは国家と個人の中間にあるもの=組織や団体のことであり、仮に個人ひとりひとりが国家と直接対峙することになってしまえばその圧倒的な力の差から国民の権利を守ることが困難になる。だからこそ、その間に入りクッションになり得る中間団体が民主主義を担保する存在なのだ、というもの。米国は新自由主義で小さな政府だが、それでもかの国にはセーフティネットとして社会団体や中間団体がある。その前提があってこその新自由主義であり小さな政府であった。しかしその米国の古き良き中間団体が弱体化した結果、「1%の富裕層対99%の我々国民」というウォール街のデモが起きるような状況に陥ってしまった、という指摘は個人的には新しい視点でした。中間団体としての宗教団体については、我が国では現憲法の定める「政教分離」とあるいは相反するものなのかもしれませんが、そこはバランスの問題なのでしょう。

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「こんなに変わった歴史教科書」という表題だけ聞くと「右か左か」といったイデオロギー色の強い内容のようにも思えますが、実のところ本書はさにあらず。中学生歴史教科書について、縄文時代から近代(戦前)までの様々なトピックについて、昭和47(1972)年発行のもの(以下「昭和教科書」)の内容と、平成18(2006)年発行のもの(以下「平成教科書」)の内容を比較して、両者の間にどれだけの変化があり、その変化の背後にどういった学会での議論とそれを受けた「定説」の変化があったのか、そのあたりをわかりやすく説明してくれています。本書によれば、歴史学会において新しい説が打ち出されても、それが大方の了解を得るまで概ね30年を要するということなので、昭和教科書と平成教科書を比較することにより、その間の30年間に歴史学がどう進歩したのかということも垣間見ることができるということになります。

「変化」について具体的に言えば、大変有名なところでは鎌倉幕府成立の年があります。私含め昭和世代の時には「いい国作ろう鎌倉幕府」ということで源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年でしたが、ご存じのとおり現在は頼朝が源義経らの追捕を理由に守護及び地頭の設置を朝廷に認めさせた1185年とされています。そしてこの2つを含めて実は7つもの説があり、しかも学会においては明治時代から1185年説が有力だったいうのも驚きでした。また、昔は誰もが教科書で目にしたであろう聖徳太子、源頼朝、足利尊氏(下に写真掲載)、武田信玄といった日本史の「主人公」たちの肖像画も実はそれぞれ別人のものではないか、という説が大なり小なり説得力を持っているようで、平成教科書ではそれぞれ「聖徳太子と伝えられる肖像画」、「源頼朝と伝えらえる肖像画」、「南北朝の騒乱の頃の武士の像」(高師直説が有力)とされ、信玄についてもそうだと断定している教科書はないというのが現状というのも隔世の感です。



また、歴史のサブスタンスとともに面白かったのは教科書作りのプロセスです。中学校の教科書というのは原則大学で教える歴史の専門家がドラフトして、現場の中学校教師がそれに実際生徒を指導する立場からコメントをする。その上で編集会議で議論を重ねて草案(通称「白表紙本」)となり、その白表紙が文科省に提出されいわゆる「教科書検定」を受ける。この検定は同省の「教科書調査官」により行われ、教科用図書検定調査審議会の審議を経て必要な場合は検定意見が付けられる。検定意見がつくときは教科書会社の編集者と執筆者が文科省に赴き検定意見を聞いてその文書を渡される。この検定意見を受けて再び編集会議が行われ、必要な訂正を行った上でそれが認められて初めて「検定済教科書」が完成、というのが全体の流れのようです。ただ、この本自体平成23年11月刊行ということで些か古いものですので、その後プロセスが変化している可能性もあります。

さて、最後に教科書の記載内容をめぐるイデオロギー的な問題についてですが、冒頭申し上げたとおりとかく本件は「右か左か」といった議論が語られがちです。ただ、今回本書を読んでみて個人的に感じたのは、一般的に「左」とされる教科書作成側というのは古文書などのエビデンスや科学的根拠を元に事実の地道な積み上げから歴史を紡いでいこうというのが基本的な立場であるのに対し、右=保守層の主張というのは国家や民族の存在が立脚する「ストーリー」が存在が前提にあり、それを覆すような、あるいは毀損するような記載ぶりに対して異論を述べていく立場、という構図のように感じました。勿論前者にも時にイデオロギー=上記「ストーリー」に対する強い反感を感じることもありますが、基本的にはこの立場の違いがこれまでの論争の本質なのではないでしょうか。

ただ、歴史は常に勝者によって書き換えられ、また、英語では歴史をHi"story"というくらいで物語的側面が少なからずあるわけですから、国家や民族が立脚するストーリーを守りたいという立場も個人的には理解できるところもあります。例えば、私はさすがに「古事記」や「日本書紀」が絶対に史実とは思いませんが、それでも少なくとも国なり民族なりの紡いできたひとつのストーリーであることは間違いないので、我が国にはこういうものもあったんだ、ということくらいは教えてもいいのかな、くらいには思っています。そしてその記紀でさえ律令レジーム=藤原氏という勝者によって書き換えられたものではないか、という指摘も一部にはあるくらいですから、国家や民族のストーリーはそれとして、歴史の裏を掘り起こしていく作業と言うのは、それはもう限りなく果てしないものではありますが、ゆえに誠に深遠でロマンがあるものだとも最近感じています。

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同「サダム・フセインは偉かった」や「スーチー女史は善人か」と同じく、元産経新聞記者である髙山正之さんによるコラム集です。本作は2007年から翌年にかけて「週刊新潮」に寄せたコラムを集めたもので、そのような形式であるため、比較的容易く読み進めることができる作品だと思います。髙山さんは最近でも「正論」や「Hanada」といったいわゆる当世流「保守」=右派論壇でのご活躍が目立つ方で、従ってコラムでは当然ながら中国、南北朝鮮、朝日新聞といったあたりを舌鋒鋭く批判するものが少なからずあります(左右問わず自分と意見の違う者を罵倒する系統の文章というのは個人的には読んでいて正直余りよい気分はしませんが…)。しかしながら、髙山さんのご批判の対象はそれらにはとどまらず、米国、豪州、そして欧州、東南アジアやアラブの国々まで及び、いわば全方位外交でみんな叩きまくる=「特定の者だけに偏ることなくみんなを罵る」ため、そういう意味ではご立派であり、また信頼のおける方ということができるのかもしれません。

そして、冒頭で髙山さんが仰るには、米国駐在や中国の専門家など特定の国・地域の「通」とされる特派員、記者、学者、そして経済人といった人々がそれぞれの「通」とされる国・地域を見る目はとかく曇りがちで、専門家といいつつ実は評価が偏っていて実像が見えてこない。だからむしろどこにも「通」ではない自分が他国について書いてみようじゃないか、というのがこのシリーズの趣旨ということのようです。かくいう髙山さんもテヘラン支局長を務めたご経験はあるようですが、専門家や一定のコミュニティの「インナー」とされる方々には大なり小なり必ず「しがらみ」のようなものはあるでしょうから、髙山さんのこの指摘は一理あるとは言えそうです。そのあたりは読む側のリテラシーが問われるところなのでしょう。

コラムの内容はエログロ含め「うえぇ…」とげんなりする話もありますが、個人的に面白かったエピソードは、豊臣秀吉や徳川の治世におけるキリスト教の禁教について、とかく悲劇的な文脈で描かれがちだが実はその彼らの非人道性に理由があった、という指摘(個人的にはそれに加えて、植民地化の先鋒としての宣教師の位置づけもあったのではないかと邪推しています)はなかなか興味深いものでした。また、その昔米国ロサンゼルスにも市街電車や郊外鉄道が市民の足だった時代があった。しかし時のアイゼンハワー米大統領が50年代半ばに米国中にインターステート(高速道路)を建造する法律を制定する。そして石油会社やタイヤ会社がLAの鉄道会社の株式を買い占め、まもなく倒産させてしまった。それによりLAが車社会になっていった、といったエピソードあたりでしょうか。ただ、このシリーズで注意が必要なことがあります。数多のコラムの中で面白いストーリーや歴史的な「実は…」的なアネクドートを耳目にすると、面白いのでそれを誰かに話したくなるのが人間の性なのでしょうが、その場合、本作はあくまでコラムということで出典が明記されているわけではないので、そこはやはり自分なりに咀嚼した上で事実関係をしっかり検証する必要がある、という点です。

最後に僭越ながら1点だけ苦言を呈させていただけば、コラムの中で第2次世界大戦中に米軍パイロットが多勢に無勢の状況ながら日本の戦闘機群に単騎で戦いを挑み見事撃墜されてしまったが、無謀な戦いを挑んだ背景には人種偏見(「日本人なんて大したことはないだろう」という思い込み)があり、「白人優越主義が生んだ喜劇」と切って捨てています。しかし、その同じコラムの締めくくりにおいて、08年に「先日の情報誌に中国が米本土にも飛べるステルス爆撃機『轟8型』を開発したとあった。あまりすご味を感じないのはなぜだろう」と著者は締めくくっていて、おいおいそれはさすがに、、、最近の一部「保守」論壇やネットで好んで使われる「ブーメラン」ではないのか?と思ってしまったのですが(個人的には余り好きな言葉ではありませんが…)。

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端的に言えば、文字どおり「人間(主に日本人)とは何か」をテーマにした辛口コラム集、といったところになりましょうか。表題の「人間通」はその最初のコラムですが、この「人間通」の定義については「他人の気持ちを的確に理解できる人」としています。筆者は故人で、wikiによれば関西大学で学長も経験した名誉教授を務めた方で、「文芸評論家」や「書誌学者」と位置づけられています。先日亡くなられた渡部昇一さんと交友が深く、共著も複数出されているようで、いわゆる当世流の「保守」論客ということになるのでしょう。筆者は「後記」において、この平成の世(本書は08年5月発行)に、我が国で、自分の素質を有効に活用し、悔いのない人生を送るためには、どういう風に意を用いたらよいか、それをいろいろと考えてみようというのが本書の試み」であるとし、「この本に書いた事項はすべて私の遅すぎた納得事項ばかり」で「それを早い目に読者へ伝えたい」と述べています。

本作では

・人間が絶対に矯正できない悪徳がケチと臆病である」、「『親友』とは絶えざる気働き心尽くしの結果である
・「可愛気」に代る長所は考えられない
・人間とは常に他の誰かよりも先んじようとし、そして死ぬまで自己及び自己の業績に対する承認欲求を求め続ける
・人間の織り成す歴史は要するに評判の積み重ねである
・羨望こそ人間が人間に関心を抱くためのもうけられている唯一の水路である
・人間性の究極の本質は嫉妬である
・多少とも世に顕れるほどの者は、嫉妬の矢が全身に突き刺さると覚悟しなければならない
・(組織内で)「聞いていない」と言い始める人が必ず出てくるので『根回し』が必要

などなど、割りと身も蓋もない(笑)ものも含めて数々の指摘が、「人と人」、「組織と人」、「言葉と人」、「本と人」、「国家と人」といったカテゴリーにおいて滔々と紡がれています。こうした著者の指摘自体は個人的には頷けるものも多く、一方で全ての日本人に当てはまるとまでは言えないだろう、と感じられるものも少なからず、いわば「まだら模様」なわけですが、従って、読者各人が納得できる指摘をピックアップして自分の戒めにしていく、というのがあるべき読み方のように思えます。

ちなみに筆者は本書において「これからは政治家も経営者も藝能人も、およそ世に顕れる程の人は、性的奔放に対する集中砲火を避け得ないであろう」と指摘していますが、昨今の一連の「ゲス不倫」騒動にかんがみれば、誠にお見事な予言であると思えます(とはいえ、08年時点ならあながち予期できないことでもなかったかな)。ただ個人的には、SNSの台頭により誰もが手軽に公の場で全世界に向けて発言したり情報を発信できるようになった今日にから見てみれば、08年の時点で「(自己)承認欲求」という言葉で人間のひとつのあり様を表現しておられた点は誠にお見事という他ない、と感じます。

なお、巻末の「人間通になるための百冊」にもなかなか面白そうな本がいくつかありましたが、絶版になってるっぽいものもありどうしたものかなと。

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今季ポストシーズンでの躍進も記憶に新しいNPBの横浜DeNAベイスターズですが、2011年から15年にかけ観客動員が110万人から181万人に、売上高が51億円から93億円まで大きく成長したことに象徴されるように、ここ数年で一躍人気球団として台頭してきた印象があります。本作はまさにその球団にとっての「高度成長」ともいえる時期に同球団の経営トップを務めた池田純さんの著作(16年7月上梓)です。表題の「空気のつくり方」について、本作では「企業を、商品を、自身の成し遂げた仕事を、世の中に『成功』と認識してもらうための秘訣」と定義づけていますが、ベイスターズを経営していた時の具体的なエピソードも交えながら、どのように「空気」をつくることにより、結果としてチームが低迷している中でも観衆を増やし、グッズの売り上げを伸ばし、やがてチームを強化し、そして困難と言われた本拠地ハマスタのTOB(本拠地のスタジアムを買収し、チームと、そしてハコとしてのスタジアムを一体的に経営を可能とした)を実現していったかについて、経営者としての「あるべき論」の持論やマーケティングの方策も含めて文字に落としてくれています。私はとあるPR専門家の方に勧められて読んだのですが、一職業人としては勿論のこと、私の場合は一浦和レッズファンとしてチームの運営について(勝手に(笑))考える上での一定の指針を得られたように思います。

そして筆者はいわゆるB to C(対消費者)商品のマーケティングについて、「万人共通の定義はない」とした上で本書では10のプロセスを提示しています。詳細はネタバレなので控えますが、必要なデータを各種ツールを活用して収集し、自社の組織/市場/顧客について分析を行い、戦略ターゲットを決める。そしてそのターゲットが「実は」求めていた商品を想像し、その商品と顧客がリンクする「ストーリー」を創造する。そのストーリーが伝わる広告及びPRを創造する。そして商品を通して自社まで魅力的に映るようなブランディング戦略を行うといったものです。この「ストーリー」づくりというのは不肖私ごときが仕事をする上でも常に心がけていることであったりすることからもわかるとおり、こうして文字に落とすとさほど目新しいことでもないのかもしれません。ただ、これら10のプロセスは筆者の中ではいずれも重要で優劣はなく、1つでも欠けると全体最適に至らないといいます。本書では、まずこの10のプロセスを提示した上で、ではベイスターズを押し上げるためにそれぞれのプロセスにおいて何をしたのか、より具体的な取組みも描かれており、そのあたりはなかなか興味深いものでした。

実のところ本書では、マーケティングにしても、商品開発にしても何にしても、終始「最後にモノを言うのはセンスだ」としています。正直なところ私は「その一言で片付けられたらたまらねーなー」と思いながら読み進めていたのですが、筆者は終盤でその私の疑問に対して一定程度の回答をくれています。曰く「センスは後天的に身につけられる」ものである。そしてそれを磨くにはどうしたらよいかと言うと、様々な仕事の「経験の中で得た気づきは無意識のうちに脳のどこかに蓄積されていく」。それによりセンスを培うことが可能であり、そしてそれらが瞬間瞬間に引き出しから出てくるといったイメージのようです。一見すると直観やひらめきのように見えるものであっても、それは過去の経験からしみ出すように直観的に表れてくるのだというようなことなのだと思います。更に、とにかく何でもかんでもいろいろな「かっこいい」「かわいい」と言われるものに興味を持って触れてみることで、その世界で「かっこいい」「かわいい」などと思われるものは果たして何か、そう思わせる要素なのか、そうしたことを感じ取る経験と訓練を積み上げることでもセンスを養うことが可能だ、というのが筆者の見解のようです。

経営のあり方、経営者かくあるべしという点についてもご自身の考えを述べておられますが、そのあたりは十人十色だと私には思われ、そもそも私がこの本を読んだ目的は「空気のつくり方」の部分で何か得るものがあるのではないか、というもの何か得るものがあるのではないかと思ったからなので、ここでは割愛させていただきます。なお、筆者の池田さんは商社や広告マンなどを経てDeNAに入社され、その関係でベイスターズの経営を任されたそうですが、その筆者が在任時に横浜の経済界の重鎮(それがどなたなのかも興味深いところです)から「人間の心の本質、性が描かれている」ということで、夏目漱石の「こころ」を読むよう勧められたとのこと。実は私の学生時代に一番印象に残った授業のひとつが、漱石作品を読んで分析する故・江藤淳先生のものだったこともあり、これを縁にまた「こころ」その他の漱石作品をを実家の本棚から引っ張り出して再読してみたいと思いを新たにしました。

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先々週TOHOシネマズシャンテさんにて観てきました。米国の首都ワシントンDCの魑魅魍魎渦巻く政治の世界、その舞台裏で暗躍する女性ロビイストが主人公で、原題はその主人公のラストネームから"Miss Sloane"です。クライアントの意を受けて、手段を選ばずに上下院議員はじめ各方面にアプローチをしてミッションを遂行していく生々しい姿が描かれており、ネタバレになるので申しませんが、プライベートの弱みを握って恫喝するような、かなりエグい活動にまで手を染めて敵サイドをじりじりと追い詰めて落としていきます。観劇中は「まあ映画だしねー」などと思っていたのですが、実際に米国のローファームでロビー活動に従事していた方に後日聞いたところでは「米国のロビイストならあのくらいやってもおかしくない」とのことで、背筋が寒くなるような思いがしました。

劇中のロビーのテーマが今まさにホットイシューと言える米国の銃規制ということもあり、そういう意味でも興味深い作品でした。ただ、監督は英国人のジョン・マッデン(John Madden)で製作会社はフランスのEuropaCorpということで、米国を舞台にしながら「欧州の作品」ということになります。道理で見終った後にハリウッド作品のようなスカっと感が全くなく、何となくもやもやした感覚が残るのも無理はないというかなんというか。そして最後に余談ですが、今回映画を観たTOHOシネマズシャンテさんは来年2月に閉鎖してしまうということで、昔からそこそこマニアックな作品を見るときにお世話になってきましたので、少々寂しい気持ちがします。近くに立つ新しいビルに映画館が入るようですから、そちらに統合するのでしょうかね。

映画『女神の見えざる手』|10月20日(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー

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 1955年の保守合同(自由党及び民主党の合併)により誕生した自由民主党のその後の歴史を振り返りつつ、「安倍一強」などと言われる現状まで、定量的なデータは勿論のこと、自民党議員、同党職員、地方組織、派閥関係者、友好団体、そして友党である公明党関係者まで含めた幅広いインタビュー証言をもとにして、選挙制度の変更といった外部環境の変化もふまえた上で、政治学者の中北浩爾先生がごくごく学問的なスタンスで、我が国に長年君臨し続けている自民党について分析・記述した良書です。自民党について、「なんとなくわかった気になっている」ことを具体的に分析してしっかり文字に落とし、また細かな制度運用や組織運営についてもしっかり説明が施されており、政治や自民党に関心のある方、また政治に近いところで仕事をしている方には強くお勧めしたい一書で、選挙中に読むと一層面白いかもしれません。

本書の概要は以下のとおりです。


 かつての自民党は「派閥連合体」の政党として、派閥が基本的な単位として、それに基づいて党運営がなされていた。その派閥は保守合同以降に党内における地位を確立していったが、その背景には(1)党総裁選挙における派閥による激しい多数派工作、(2)かつての中選挙区制度(中選挙区制の下での自民党候補の同士討ちが存在し、候補者(議員)は政治資金、選挙応援(公認ゲット、応援演説等)、や党/政府におけるポスト配分における派閥からの支援をインセンティブとして派閥に加入)が主な2点があり、これにより、非イデオロギー的な性格で、高度に制度化された「党中党」とも言うべき派閥が自民党内部で定着していった。

 派閥は、金権/密室政治の温床として、また首相(官邸)のリーダーシップ発揮を阻害するといった批判を浴びた一方で、派閥の存在を通じて自民党議員の「多様性」が確保され、それにより党として様々な人材や利益を包摂することが可能だった。また党内の「疑似政権交代」を経ることで長期政権が続いたという評価もある。この自民党の派閥政治の全盛期は、各派閥の領袖がずっと総理を務めていた70~80年代とされる。

しかし、88年のリクルート事件をきっかけに風向きが変わる。自民党議員は、党の組織や政策に頼った選挙運動を展開できないため、個人後援会を作り、派閥に庇護を求め、利益誘導政治に走る。こうした流れが金権腐敗の根源である以上、政治家の倫理を問うよりも、いっそのこと中選挙区制を廃止して小選挙区制を導入すればよい、という認識が自民党内外で広まった。

 なかでも小沢一郎は、腐敗防止にとどまらず、政治的リーダーシップの強化という観点から政治改革の必要性を説いた。中選挙区制であるがゆえに自民党は派閥連合政党にとどまっており、総裁(首相)の権力が制約されている。そして派閥の寡占化が進み派閥間競争さえ失われようとしていた。従って、小選挙区制導入により政権交代の可能性を高め、競争を取り戻すとともに、党首を中心とする執行部の権力を強化し、政党/政策本位の政治を実現しなければならない。こうしたことを志向する政治改革はその小沢が自民党を離れ細川護煕を担いだ非自民党連立政権によって94年に実現した。

 また、この中選挙区⇒小選挙区の選挙制度改革とともに、(1)政党助成金制度の導入、(2)政党以外への企業・団体献金の禁止、(3)政治資金の透明化(政治献金及び政治資金パーティ券購入の公開基準額を下げる)を柱とする政治資金制度改革も実施された。

 この一連の政治改革が派閥にどのように作用したか。中選挙区制の廃止により派閥が求心力を失い分裂等して派閥数が増加し、無派閥議員も増加したのである。当選者が各選挙区1名となったことにより、党として擁立する候補も原則1名となったため党の公認を取り付ける上での派閥の果たす役割が低下し、また選挙運動のおける派閥の活動量も同じく低下した。そして何より政治資金改革の影響が大きく、派閥の集金力は急激に減少した。

 ただ、それで派閥が存在意義を失い、消え去ろうとしているかというとそのようなことはない。外形的に見る限り派閥のあり様はほぼ変わっておらず、現在の自民党のいわゆる「魔の2回生」といわれるグループは当選直後こそ47%もの無派閥議員がいたが、17年2月なるとそれが12%ほどまで低下しており、急激に派閥に吸収されていっている。派閥の機能は著しく低下し、無派閥議員が昔に比べて多いのは事実だが、過去の遺産(長年蓄積してきた人材その他の資産)と人的ネットワークという機能の支えられながら派閥の衰退しつつ生き延びているということ。

 ともあれ、自民党内の派閥の力に陰りが出た。そして、小選挙区制導入により二大政党の一角を占めるべく94年に新進党が、98年には民主党が結成されたことにより、自民党としてもその対抗上「選挙の顔」となる総裁の役割が重要化していった。こうした変化を一気に可視化したのが01年党総裁選挙における小泉純一郎の勝利だった。総裁選の過程で「古い自民党をぶっ壊す」と叫び、党内の派閥(特に旧経生会(田中派))を抵抗勢力と位置づけ仮想敵とすることで国民の喝采を浴びた。

こうして高い支持率を背景に派閥を軽く扱い、強力な政治リーダーシップを発揮した小泉政権以降総裁選の戦われ方が変化した。資金提供とポスト配分をインセンティブとする派閥による多数派工作の世界から、有権者の間で人気があり、選挙の顔になりうる候補者に雪崩を打つという現象が起きるようになった。事実、清和会(現細田派)、平成研(現額賀派)、宏池会(現岸田派)という3大派閥の領袖は森喜朗以降党総裁に就任していない。そればかりか総裁選立候補さえ難しくなってきている。また、派閥がイデオロギー色が薄かったのに対し、民主党に対抗する形で自民党の「右傾化」を促進したとされる「創生日本」に代表されるような「理念グループ」が党内に台頭し、麻生政権や安倍政権の成立に一役買った。

 よく比較される小泉政権と安倍政権のあり様について比較では、田中派との激しい派閥抗争が政治家としての原点にある小泉と、野党議員として政治家人生を歩み始めた安倍とでは自ずとスタンスも異なるとする。後者は自民党が政権の座にあり続けられるよう改革していくことを自らの政治的課題の中心に据えた。つまり、安倍にとっての主要敵は民主党/民進党(ほぼなくなってしまいましたが)であり、小泉のように党内に仮想敵を作り出すのではなく、党内結束に重きを置いている。よく指摘される、現在の安倍自民党で「異論が出にくい」一因は、党内融和的な政治手法(政敵を閣内に取り込んだり党要職に起用する等)を執っていることにある。つまり「内なる結束」と「外への対抗」という点にこそ、安倍自民党の特徴が存在する。

 また、一般的なイメージとは異なり、小泉政権は国政選挙で常に勝利を収めたわけではない。振れ幅が大きかったのは小泉政権が移ろいやすい無党派層の支持に依拠しようとしたからで、ポビュリスト的な政治手法は不安定さを免れないということ。その小泉と異なり安倍はポピュリストとは言い難い。安倍の主要敵はリベラル色の強い民主党(民進党)であり、既得権を持つエリートではない(その点は小泉の徹底した郵政民営化と、上澄みに終わった安倍政権のJA改革を比較すれば明白)。移り気な無党派層を掴もうとした小泉政権とは異なり、固定票を重視する安倍政権は国政選挙において安定的に勝利を収めている。

 つまり、現在の自民党は政治改革への対応というステップを経た上で、民主党という外的に対抗する中で形成されてきたということができる。ただ、その支持基盤である固定票(友好団体、地方組織)はそれでも徐々に弱体化してきている点には留意が必要。


 以上の他、自民党の組織運営や意思決定やポスト配分のあり様、選挙活動や友党公明党との関係、経団連など利益団体をはじめとした友好団体との関係、地方組織や議員の個人後援会についても詳細な説明が施されておりかなりの読み応えがあります。

 ちなみに、上記55年保守合同の立役者のひとり、三木武吉氏が自由党と民主党(それぞれ当時)が合併して誕生した当時の自民党の前途について「10年ももてばよいほうだ」と自嘲的に語ったといい、その自民党が結党70年を過ぎなお我が国の統治のど真ん中に鎮座し続けているというのは、現在になって振り返ってみると味わい深いことなのかもしれません。


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作家であり元東京都知事でもある猪瀬直樹さんの著作で既に巷ではかなり有名な小説ですが、まさに我が国政府が先の対英米蘭の「負け戦」に臨むことを決断しようという中で、開戦決定の前年に「日米戦争日本必敗」をかなり正確にシミュレートしていた国家機関が存在した、という事実に焦点を当てています。そしてそのシミュレーションについて、当時の関係者に対する丹念な取材をベースにした具体的内容を、同じ頃に進んでいた近衛文麿、東条英機両内閣の下での実際の日米開戦の最終決定までのプロセスと同時並行的に描くことで、ファクトベースのシミュレーションと実際の国家としての政策決定という両者の間のコントラストを強調しています。

その「コントラスト」とは何かと言えば、まず上記「国家機関」とは戦前の1940年に内閣総理大臣直下に設置された「総力戦研究所」のことであり、各省、陸海軍、そして民間大企業の30代の若手エリートを「研究生」として選抜して集めた研究機関で、文字どおり「総力戦運営の中枢人物」たるエリート養成を目的にしていました。ここでいう国家の「総力戦」と言うのは、戦争にあたって「武力戦」にとどまらず、「経済戦」「思想戦」まで含めた概念で、「他の国家との戦争に当り、または戦争を予想し、これらを屈服しあるいはその敵性を放棄せしむる事、換言すれば国防の為の高度の国家活動」と規定されています。

この総力戦研究所は英国やフランスの「国防大学」をモデルに勅令(現在の政令)により設置され華々しくスタートしました。しかし、走り出したはいいものの、実際にそのエリート研究生たちに提供するコンテンツには苦慮したようです。結果1期生に対しては、現実の我が国の置かれた状況とその推移をふまえた「机上演習」を行い、国策を検討し、総力戦方略を算定し、情勢判断を行い、そして対英米開戦準備の万全を期す、そうしたことが課題として与えられました。そしてこの演習にあたり研究員で構成される「模擬内閣」を組織し、各自が親元から取り寄せたデータやファクトをベースに「閣議」で議論を行う。

そしてそれを元に「統帥部」と協議しながら具体的な国策を分析・検討していくというスタイルを取っていました。というのも、この頃の大日本帝国政府の意思決定は「大本営・政府連絡会議」で行われていました。同会議は議長である内閣総理大臣、そして政府から外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣と企画院総裁、統帥部(軍部)からは陸軍参謀総長と海軍軍令部総長等をメンバーとし、内閣書記官長(現官房長官)と陸軍、海軍両省の軍務局長が幹事として出席していたものだそうです。総力戦研究所の演習でのそれに沿った形で、研究員の模擬内閣に対し、主に軍人で構成されていた研究所員(スタッフ)側が統帥部役を演じる形で演習を進めていたようです。

そしてこの模擬内閣が客観的なデータやファクトをもとに開戦決定の前に断じた結論が「対米戦争日本必敗」であり、米国に供給を止められたことを受けて石確保のためにインドネシア(南部仏印)に侵攻するも、肝心の石油を積んだタンカーが悉く米国側に沈められシーレーン(輸送路)が確保できず、結果として戦争遂行のためのエネルギーを確保できなかった点をはじめ、敗戦までの成り行き含めて相当正確な予想がなされていまいた。更に驚くべきことに、この模擬内閣の結論は実際の内閣はじめ時の最高責任者たちにも報告・共有され、実際当時陸軍大臣だった東条英機もそれなりに関心を寄せていたものの、結局一顧だにされなかったということです。

これに対して実際の大日本帝国政府の意思決定はどうであったかというと、総力戦研究所のファクトベースの議論とは全く対照的で、勿論先述の石油供給を含めたデータも議論の材料として提示はされたものの、その実、関東軍の独走による対中侵攻といった既成事実や、そして既得権益を捨ててまで「戦争回避」という選択肢は取れない、そして今思えば頭が痛くなるのは大真面目に「我が国には大和魂がある」といった精神論までその勝機ありとする根拠として飛び出す有様でした。そうした空気の中で本来は客観的であるべき石油供給のデータも「これならなんとか戦争をやれそうだ、ということをみなが納得し合うために数字を並べたようなものだった」ようで、結論ありきの中でも開戦決定だったようです。

この時代に生きこの様子を見ていた研究員たちは元々エリートですから、戦後の混乱に翻弄されながらも立身出世を果たしていく者がやはり多かったものの、誰ひとり政治家にならなかったというのが印象的でした。ただ、「政治は妥協の産物」と言うのはよく言われることで、民主主義体制における政治や行政では純粋ファクトベースで検討され、決定される政策などというものはほとんどなく、それこそ「机上」のものだとは思います。ただ、それでも当時の政府が、「対米開戦」というこの国の行く末を大きく左右することが明明白白な重要事項と対峙した際、余りに「空気」に支配され、結論ありきで下した決定が、結果として300万人という大きな犠牲者を出し、その他戦後の我が国に諸々の大きな負の遺産を残し現在に至るまで我が国がその十字架を背負い続けていることは重い事実として受け止め、しっかりと後世に引き継いでいく必要がありそうです。

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 最近巷では一定のブームになっている感さえある地政学ですが、当方もご多分に漏れず流行りに乗って手に取ってみました。本書ではその地政学について「地理的な条件が国家の政治・経済・軍事に与える影響を研究する学問」と定義づけています。そして地政学を学ぶための第一歩は世界の歴史を知ることとした上で、日本、中国、ロシア、米国、英国、欧州な各国・地域を、主要な歴史的フェーズごとにそれぞれ地図を解説して参照させばがら解説していく内容になっています。ですので、本書の冒頭でも宣言されているとおり地政学の教科書というよりは「地政学の勉強のために必要な歴史を概観するテキスト」になっていると言えそうです。

 ただ、とは言いながらも、「ランドパワー」(露独仏中などの大陸国家)、「シーパワー」(英米西蘭日などの海洋国家)、「ハートランド」(ユーラシア大陸でシーパワーの影響が及ばないエリアのことで、英国の地理学者マッキンダーがこのハートランドを制する国家が世界を制するとしたエリア)、「リムランド」(ハートランド外縁で直接海洋にアクセスできるエリア)、「チョークポイント」、「シーレーン」、「不凍港」などいわゆる「地政学用語」とされているワードの解説も散りばめられていますので、少なくとも地政学の基本用語くらいは勉強できる内容にはなっています。

 本書のコンテンツのうち、以下の2点についてそれなりに消化できたことが個人的な収穫でした。

(1)戦前の満州国をめぐる日本、中国、ロシアと列強各国との間の地理を中心にした相互関係。1931年の満州事変以降日本が南へ南へと戦線を拡大していき、最終的に大国アメリカと対立して開戦にまで至ったその理由について、例えばいわゆる援蒋ルートがどこにあったから日本はそれを断ち切るためにどこに侵攻したとか、そういう地理的な側面でのみた当時の状況や関係各国間の関係

(2)パレスチナ問題について、第1次世界大戦時の英国の三枚舌外交、いわゆる「アラビアのロレンス」に端を発した中東の混乱の象徴としての戦後のイスラエル建国と、それ以降の歴史的経緯、そして4次にわたる中東戦争等のたびに変化したユダヤ人とパレスチナ人それぞれの勢力地図(占領地や居住地)の推移、これまでニュースでは耳目にしてきた地域名の正確な位置(「ヨルダン川西岸」、「ガザ地区」、「ゴラン高原」など)といったもの

 そもそも、この「地政学」と呼ばれるものそれ自体が本当に独立した学問として確立しているものなのか、といった議論はあるのだろうとは思いますが、いずれにしても本書は中高生や歴史を苦手にしている方を想定してかかれたものですので、非常に読みやすくてサクサクと読み進められると思います。ただ、1点だけ苦言を呈するなら、やや誤字脱字が多いのがちと気になりました。

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