今天要介紹一篇來自我高中同學的文字記錄,這篇文章裡提到了他爺爺生命中的日本,和他從小是如何對日本的東西耳濡目染的。
今日は高校時代の同級生の綴った文章を紹介する。話はおじいさんのなかで息ついた日本と、同級生が幼少期から知らずにして「日本」に触れたエピソードを織り交ぜて展開する。
其實不只是他,很多現在步入中年的台灣人,都是透過他們的爺爺奶奶間接地感受到日本這個國家的體溫,他們對這個國家有一種似舊又新的感情。
実は、彼のみならず、いま中年期に入った多くの台湾人は、祖父母を通じて、間接的ながら日本という国の体温を感じてきたし、この国に対して懐かしいような新鮮なような感情を抱いている。
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【負責翻譯 美金】
由於日本華僑來訪,遂想到童年往事,爺爺是1911年出生(日本明治44年),去世於1993年,享壽82歲,所以他共歷經日本時代的明治、大正、昭和,及國民政府蔣中正、蔣經國、李登輝6個朝代。他人生的中壯年(1911-1945,34歲以前),經歷過日本時代的美好(約大正年間,1911-1925)及戰爭年代(約1930年代-1945)。
日本の華僑がやってきたせいだろうか、子供のころや昔のことについ想いを馳せてしまう。僕の祖父は1911年(明治44年)生まれ、1993年に享年82歳で人生を全うした。つまり、日本統治時代の明治、大正、昭和と国民政府の蒋介石、蒋経国、李登輝の6つの時代を生きてきたことになる。その青年期まで(1911-1945年、34歳以前)は、日本統治時代の良い時期(ほぼ大正年間、1911-1925年)と戦時中(1930年代~1945年)だったということだ。
爺爺受過6年「公學校」的日文教育小學程度,(今台南安順國小),也教我們這些孫子唱日本兒歌,現今我只知如何哼曲調不知歌詞,後來我哼給神戶華僑聽過,才知道那是「桃太郎」兒歌,
祖父は当時日本統治下で6年間日本語で小学校レベル(通っていたのは現在の台南安順國小)の教育をうけた。孫たちにも日本の童謡を教えてくれたものだった。だから僕は今でも歌詞は知らないけどメロディだけ覚えている曲がある。それを神戸の華僑に口ずさんで聞かせてみたら、「桃太郎」だと分かった。
我鄉下老家寢室是「榻榻米」和室,爺爺有時候也會用開水拌飯(當時覺得奇怪,原來是「茶泡飯」的吃法),或許是日本教育留下的守法習慣吧,每次到了國定假期,爺爺總是慎重的拿著國旗掛在門口,父親也認為爺爺有時候是很嚴肅的,家中父母稱呼爺爺、奶奶也是用「多桑」、「卡將」,而姑姑稱呼兄長也是用「尼桑」的稱呼。
田舎の家の寝室は畳敷きの和室で、祖父は時々ご飯にお湯をかけて食べていた。当時は奇妙に思ったものだが、「お茶漬け」というものだった。もしかすると日本の教育が残した習慣だったのだろうか、祝日になると祖父はいつも神妙な面持ちで国旗を門に掲げた。父も祖父は時によってとても厳格だったと言っている。家では、両親は祖父と祖母を「とうさん(多桑)」、「かあさん(卡將)」と呼び、叔母は父を「にいさん(尼桑)」と呼んでいた。
爺爺曾經在台南和順農場工作(今日國立台灣歷史博物館址),與一位日本同事山本先生非常要好,1945年這位日本人回國,兩人遂斷了音訊,在我小學三年級的時候(1980年),我爺爺叫我爸爸去尋找這位失聯的朋友,父親把日本名字及原和順農場的日文地址寄到「昭日 新聞社」請求協助,結果真的找到這位朋友,
祖父はかつて台南和順農場(現在の国立台湾歴史博物館の辺り)で働き、職場では山本さんという日本人ととても仲が良かった。1945年に山本さんは帰国し、音信が途絶えた。僕が小学3年生の時(1980年)に祖父は父にこの連絡の途絶えた友人を探させた。父は山本さんの名前と和順農場の日本語表記の昔の住所を「朝日新聞社」に送り協力を求めた。そしてついに本人を見つけ出した。
他住在靜岡縣,由於聽說山本先生回到日本後,生活際遇並非很好,爺爺私底下曾贈與山本先生一些禮金,山本先生後來與他的子女到台灣玩,原本在和順農場工作過的同事輪番招待山本先生長達一個月,後來我家也去日本拜訪。
山本さんは静岡県在住で、聞けば日本に帰国後は境遇に恵まれず厳しい生活をしていたそうだ。祖父は昔の厚誼へのお礼として山本さんにこっそりお金を送った。また、山本さんが後に子供と一緒に台湾を訪れた際には、和順農場で昔働いていた同僚たちが1カ月に渡って代わる代わるもてなした。僕たち家族も後に日本を訪れた。
台南和順「中洲寮」舊家現在是鬧區 唯一的郵局,雖然已改建為RC建築,但那斜屋頂長條街屋,及從屋頂小小玻璃灑下的陽光,還烙在我的腦海中。
台南和順の旧「中洲寮」は、今では町で唯一の郵便局になっている。RC建築に改修されてしまったけれども、あの傾斜屋根の長屋と天井の小さなガラス窓から差し込む陽の光は今もまだ僕の脳裏に焼き付いている。
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我這位高中同學還發表了一篇文章,歡迎閱讀!
この高校の同級生が書いたもう一つの文章です。ぜひあわせてご覧ください。
一位台灣朋友對中日差異的觀察(ある台湾友人による日中差異のウォッチング)
台湾華語・台湾中国語は任せて!台湾人による中国語教室・翻訳・通訳サービス T-Chinese
今日は高校時代の同級生の綴った文章を紹介する。話はおじいさんのなかで息ついた日本と、同級生が幼少期から知らずにして「日本」に触れたエピソードを織り交ぜて展開する。
其實不只是他,很多現在步入中年的台灣人,都是透過他們的爺爺奶奶間接地感受到日本這個國家的體溫,他們對這個國家有一種似舊又新的感情。
実は、彼のみならず、いま中年期に入った多くの台湾人は、祖父母を通じて、間接的ながら日本という国の体温を感じてきたし、この国に対して懐かしいような新鮮なような感情を抱いている。
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【負責翻譯 美金】
由於日本華僑來訪,遂想到童年往事,爺爺是1911年出生(日本明治44年),去世於1993年,享壽82歲,所以他共歷經日本時代的明治、大正、昭和,及國民政府蔣中正、蔣經國、李登輝6個朝代。他人生的中壯年(1911-1945,34歲以前),經歷過日本時代的美好(約大正年間,1911-1925)及戰爭年代(約1930年代-1945)。
日本の華僑がやってきたせいだろうか、子供のころや昔のことについ想いを馳せてしまう。僕の祖父は1911年(明治44年)生まれ、1993年に享年82歳で人生を全うした。つまり、日本統治時代の明治、大正、昭和と国民政府の蒋介石、蒋経国、李登輝の6つの時代を生きてきたことになる。その青年期まで(1911-1945年、34歳以前)は、日本統治時代の良い時期(ほぼ大正年間、1911-1925年)と戦時中(1930年代~1945年)だったということだ。
爺爺受過6年「公學校」的日文教育小學程度,(今台南安順國小),也教我們這些孫子唱日本兒歌,現今我只知如何哼曲調不知歌詞,後來我哼給神戶華僑聽過,才知道那是「桃太郎」兒歌,
祖父は当時日本統治下で6年間日本語で小学校レベル(通っていたのは現在の台南安順國小)の教育をうけた。孫たちにも日本の童謡を教えてくれたものだった。だから僕は今でも歌詞は知らないけどメロディだけ覚えている曲がある。それを神戸の華僑に口ずさんで聞かせてみたら、「桃太郎」だと分かった。
我鄉下老家寢室是「榻榻米」和室,爺爺有時候也會用開水拌飯(當時覺得奇怪,原來是「茶泡飯」的吃法),或許是日本教育留下的守法習慣吧,每次到了國定假期,爺爺總是慎重的拿著國旗掛在門口,父親也認為爺爺有時候是很嚴肅的,家中父母稱呼爺爺、奶奶也是用「多桑」、「卡將」,而姑姑稱呼兄長也是用「尼桑」的稱呼。
田舎の家の寝室は畳敷きの和室で、祖父は時々ご飯にお湯をかけて食べていた。当時は奇妙に思ったものだが、「お茶漬け」というものだった。もしかすると日本の教育が残した習慣だったのだろうか、祝日になると祖父はいつも神妙な面持ちで国旗を門に掲げた。父も祖父は時によってとても厳格だったと言っている。家では、両親は祖父と祖母を「とうさん(多桑)」、「かあさん(卡將)」と呼び、叔母は父を「にいさん(尼桑)」と呼んでいた。
爺爺曾經在台南和順農場工作(今日國立台灣歷史博物館址),與一位日本同事山本先生非常要好,1945年這位日本人回國,兩人遂斷了音訊,在我小學三年級的時候(1980年),我爺爺叫我爸爸去尋找這位失聯的朋友,父親把日本名字及原和順農場的日文地址寄到「昭日 新聞社」請求協助,結果真的找到這位朋友,
祖父はかつて台南和順農場(現在の国立台湾歴史博物館の辺り)で働き、職場では山本さんという日本人ととても仲が良かった。1945年に山本さんは帰国し、音信が途絶えた。僕が小学3年生の時(1980年)に祖父は父にこの連絡の途絶えた友人を探させた。父は山本さんの名前と和順農場の日本語表記の昔の住所を「朝日新聞社」に送り協力を求めた。そしてついに本人を見つけ出した。
他住在靜岡縣,由於聽說山本先生回到日本後,生活際遇並非很好,爺爺私底下曾贈與山本先生一些禮金,山本先生後來與他的子女到台灣玩,原本在和順農場工作過的同事輪番招待山本先生長達一個月,後來我家也去日本拜訪。
山本さんは静岡県在住で、聞けば日本に帰国後は境遇に恵まれず厳しい生活をしていたそうだ。祖父は昔の厚誼へのお礼として山本さんにこっそりお金を送った。また、山本さんが後に子供と一緒に台湾を訪れた際には、和順農場で昔働いていた同僚たちが1カ月に渡って代わる代わるもてなした。僕たち家族も後に日本を訪れた。
台南和順「中洲寮」舊家現在是鬧區 唯一的郵局,雖然已改建為RC建築,但那斜屋頂長條街屋,及從屋頂小小玻璃灑下的陽光,還烙在我的腦海中。
台南和順の旧「中洲寮」は、今では町で唯一の郵便局になっている。RC建築に改修されてしまったけれども、あの傾斜屋根の長屋と天井の小さなガラス窓から差し込む陽の光は今もまだ僕の脳裏に焼き付いている。
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我這位高中同學還發表了一篇文章,歡迎閱讀!
この高校の同級生が書いたもう一つの文章です。ぜひあわせてご覧ください。
一位台灣朋友對中日差異的觀察(ある台湾友人による日中差異のウォッチング)
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