昨日は「青年能」がありました。

若い20代の塩津圭介君と佐藤寛泰君が能『三輪』と能『兼平』を立派に勤め、私は『兼平』の地頭を勤めてきました。

私は地謡で謡う時はいつも、周りの地謡陣はもちろんのこと、囃子方にも、シテにも自分の謡いのエネルギーがうまく伝えられればいいなあ、と思い謡っています。

昨日は隣で謡ってくれた友枝雄人君と内田成信君ともうまく意識が通い、前列も精一杯協力して謡ってくれて、ほっと一安心、というところです。

番組の最初には10代の、谷友矩君、高林昌司君と、私が指導している息子・尚生と佐藤陽君も仕舞を舞い、みんな日頃の研鑽の成果が発揮され成長が見られたので、私はおおいに喜んでいます。

私は息子と陽君の稽古をつけていますが、いつも「教えること」と「育てること」の二つを意識しています。

この二つ、似ているようで、同じではないと思っています。

能の世界に限らせていただきますが、

教えることは技術的なことで、謡いでも型でも、どんどん身体と頭に叩き込めばいい、そう認識していますが、

育てるとは、それだけではない、もっと精神的な面も考慮しなければいけないものだと思います。
時間がかかるのです。

本当の芸を身につけるという事は短期間では無理です、熟成には時間がかかります。
教える者は、その熟成期間を常に計算して指導すべきです。

「教えてもその通りに出来ない」

と悔しがる指導者がいますが、

私は

「教えた通りに本当に出来るようになるには時間がかかる」

といつも自分に言い聞かせて指導しています。


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『教育』 (どうきゅうせい)
2012-03-25 10:25:41
聞くところによると、『教育』という言葉は、明治期に、西洋思想を一生懸命翻訳した結果できた言葉だそうです、だから、恣意的というか、何と言うか、education の本質が反映されていません。

Education は元を辿ると、e-duco (ラテン語)で、e は、export とか exit に共通する、外へ、です。 Duco は、ducere という動詞で、導く、です。

つまり、元々の考え方は、その人なり子供の中にあるものを、引き出してあげるのが、education だというものです。

おしえはぐくむ、とは、微妙に違いませんか?

個人的には、日本の教育と西洋の教育を両方受けているので、すごく納得なんです。

どちらがいい、悪い、ではないのですが、違いがあるという認識は必要だと思われます。
 
 
 
お返事 (粟谷明生)
2012-03-25 14:32:15
どうきゅうせい様
ご立派なコメントにびっくり
違い認識しますね
 
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