能楽・喜多流能楽師 粟谷明生 AWAYA AKIO のブログ

能楽師・粟谷明生の自由気儘な日記です。
能の世界も個人の生活もご紹介しています!

駄菓子から能へ  粟谷能の会の装束が最後に見られます

2013-03-02 00:02:49 | 能はこうなの、と明生風に能の紹介
「粟谷さん、昔私たちガキの頃、よくエイジビスケット食べたね」

「ええ、よく食べましたよ。子ども心にも、なにかエイジはハイカラな高いものを食べている優越感みたいなものを持ってね・・・」

「でしょ。今日はAとYを食べよう。ついでにDも食べちゃおうってね」

それを聞いていた若い衆が、

「あれ? それって、エイジビスケットじゃなくて、アルファベットビスケットって言っていましたよ、僕らは・・・。あ! 嬰児じゃなくて、英字なんですね」
と若い衆が付け加えて、笑えた。

今は少なくなった駄菓子屋。

「なにが入っているか判らないから、あんなものは口にしてはだめですよ!」
と母親に注意されながらも、一枚1円の烏賊煎餅や、一粒5円のひも飴を食べたり、なめていたのは小学1~3年生の頃、もう50年も前のことだ。
「食べてない!」
とウソを付いても、口を開けたら食べたことがすぐに判るほど、私の舌は真っ赤な着色料で染まっていた。
おこづかいを一ヶ月いくらもらっていたか覚えてはいないが、渡された金額を子どもながら、何回かに分けて、
「今日はこれだけにしておいて、次回は贅沢して高いのを買おう!」
と考えたものだ。そこには子ども心にもしっかりした計画があった。
今はどうなのだろう? 駄菓子屋を見なくなったが、子どもは計画して現金をいじっているのだろうか。

能の公演は、演じる場所取り、演目を決め、演者を募り、番組やチラシを作成、チケット販売に汗をかき、稽古に集中する。二日前の申合というリハーサルがあるといよいよ本番間近となる。粟谷能の会では当日の面や装束を自分で選び、組み合わせを考えるコーディネーター役も自分だ。そして落ち度がないかを確認して、楽屋弁当の手配もする。


さて当日は、もちろん一所懸命舞台を勤めながら、舞台の合間にシテ方や三役に謝礼をお渡しして、無事公演が終われば、面・装束を蔵に片付け、〆は経費の計算をして・・・と、やっとひとつの興行が終わる。こんな流れで能は行われる仕組みだ。

57歳の私が今、すべてをしている訳ではないが、大半のことには携わっている。
「芸だけを考えて」とか「舞台だけに集中して」
と、私のことをご心配してご指摘して下さる方もおられるが・・・。もちろん能以外のお遊びに興じてはいけませんよ、ということだろうが、どうもそこは自信もなく、素直に受け取れない性格(たち)もあり、「芸だけ考えて」がどうしても引っかかって、気に入らない。

観阿弥や世阿弥も、『船弁慶』の作者観世小次郎信光も、当時の猿楽師の第一の仕事は戯曲作りで、シテだけやっていた訳ではない。戯曲して、尚いま挙げたことをやって来たはずだ。能の戯曲創作の原点は世の中を見てのことだっただろう。
能楽師が舞台に集中するのは当たり前。
いま能楽師が忘れかけているのは、能の公演すべてを把握し、計算した上でやりとげることだろう。なにをどれだけ、どうやって、なにを優先するか、シテ方の能楽師は特にこの作業力を鍛えていかなければいけない。自分さえ良ければ、自分の芸だけ光れば、ではダメだ。確かに自分もそのように思った時期もあって、今反省している。

あの駄菓子屋で買い食いをしていた時、おこづかいをどのように使おうかと、頭を使っていた。そしていざ口に入れようとしたとき、隣から
「それもほしいなあ」
とねだられ、少し考えて
「いいよ。あげるよ」
と言った自分がいた。世の中なかなか自分の思うようにはいかない、と知った事件だった。いろいろと昔を思い出す今日この頃だが、思い出したことを今に活かさなければいけない! と思う。これまた今日この頃だ。

『俊成忠度』使用するシテの装束

『俊成忠度』のシテに使用する「中将」


『船弁慶』のシテの装束


写真撮影 文責 粟谷明生

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