昨日の読売新聞の夕刊に
「追悼 粟谷菊生さん」の記事が記載された。
今年の夏、国立能楽堂の会議室で10月の粟谷能の会について取材を
して下さり記事にしていただいた。
父の謡う『江口』を楽しみだと、書いて下さった記者の方だが、
その思いが成し遂げられなかった無念をまた記事にして下さった。
この記事、父が亡くなったあとすぐにお話が伺いたいと
電話で30分ほどのやりとりをもとに書かれたものだ。
「私の思いを中心に父を語ってくれ!」
というのでお答えした内容がうまくまとまっていて、
とてもいい記事になっている、写真も父らしい笑顔がとてもいい。
ただし、一つ引っかかる。
父は「重要無形文化財各個指定保持者(人間国宝)と芸術院会員」である。
どちらが上?下なのかは私は判らない。
ただ、父は両方の資格を持っている。
それならば、人間国宝だけの記載は肩手落ちになる。
父が亡くなったときに、この両方を報道したのは朝日新聞のみ。
他社全部(毎日新聞以外)は芸術院会員を失念されたのか~
わざと落としたのか~~
こちらとしては芸術院に顔向けが出来ないような状況でいる。
このような事情から、「今後はこのような事がないように!」
と強く最後に念を押したが~
読むと、また人間国宝だけだ。
「あ~~~~~あ~」
皆さん!どう思われるか?
昨日はお通夜、本日はこれから告別式だ。
心を落ち着かせ、今日も無事に執り行いたい。
あ~~今日は喪主の挨拶がある~~
緊張する。
昨日今日は密葬のため親族のみで行い、
本葬は11月7日(火曜日)増上寺 光摂殿。
葬儀は13時からだが、一般の告別式は14時から。
14時からお焼香となるので、どうぞ一般の皆様は14時に
いらしていただければ、お待ちいただくことはないと思う。
それにしても、忙しい毎日が続く。
11月の自主公演は『千寿』だが、葬儀準備で稽古時間がまったく無くて困っている。
本当に舞えるのだろうか~~
誰か代わりは~~~
どなたかに~~
お返事が遅くなり、失礼お許し下さい。
両説いずれも謂われ有り、ですね。
なかなか双方内容あるご意見参考になります。
よくよく考えて自分なりの意見をまとめていこうと
思いました。
皆様、有難うございました。
このような場合のクレームは本当は、菊生先生が所属されていた「喜多流」の事務局の方から新聞社に厳重に抗議した方がよいことなのかもしれません。
明生先生もお一人でいろいろと大変なこと、ご苦労をお察ししますが、全てのご経験が今後のお舞台に何かの形で反映されるかもしれません。
御遺族としては、身内のことでの片手落ちの報道は耐え難くお感じになることとは思いますが、菊生先生の残された肩書き以上のものを、喜多流の財産として舞台に残していただけるよう、多くの人は願ってやまないことと思います。
皆様のコメントを拝読いたしまして、全く同感です。
ただ、ちょっと次元の異なることを論じている面もあり、恐縮ですが投稿させていただきました。
能楽師も社長、経理財務、総務、営業、広報、マネジャーから、色々と一人でやらねばならず大変だなと感じました。
例えば企業であれば、広報辺りで報道対応をして適切な形にしているところでしょうけれど、今この時に明生先生ご自身で気をもまねばならず、大変ご苦労を感じました。
菊生先生の、人間国宝、芸術院会員の実のところは、何らかの形で先生に触れられた方にとっては、言わずもがなで良いわけですが、新聞はいわば万人が読むものです。形の部分も必要ですし、菊生先生の肩書きの部分も全人格の一部であるわけです。
不特定多数の目に触れ、記録としても残る新聞の使命としては、事実を片手落ちにするのはまずいと思います。
菊生さんは素晴らしい能楽師でした。
その事実だけで十分なのではないでしょうか?
差し出がましい事を言って申し訳ありません。
でも、能でなくてもライブの舞台には目の前で起こる
<本当の>ことしか、ありません。
マスコミから情報を得るより、能楽堂に足を運ぶことの方がずっと、人を豊かにしてくれるのでしょう。
まずは、「千寿」頑張ってくださいね。
御本人自身が、どれほどそういうものにこだわっていらしたのか、は今はもう知る由もなく、またはこだわっていらしたがゆえに御遺族が、敏感になられるのかもしれないのですが、菊生先生の、一番一番のお舞台を、丁寧に、真剣に、しかも情熱的に演じられた、お能に奉げた一生を思うと、今、私達観る者は、ひとりの「人間国宝」や「芸術院会員」を失ったことが寂しいのではなく、「能楽師」粟谷菊生さんを失ったことが本当にやりきれないほど、残念で、悲しいのです。
一方で、明生先生のこのブログを拝見して感じるのは、私達は「~保持者」のような肩書きやマスコミによる他者からの情報によってものごとを判断するのではなく、ひとりひとりが自分自身の「感性」を磨いて行き、自分の目や耳で判断していくことが、観る側の責任であり、菊生先生や先人の方々が残してくれた大切なものを受け継いで行くために必要なことなのだろう、ということです。新聞や雑誌の記事なんて、今回のことでもわかるように、100%真実を伝えているわけでも何でもない、のですものね。
本当はもっと複雑で、深い思いがおありだろう、と承知の上で、観る側としての遠慮のない意見、書かせて頂きました。