演者・粟谷明生の考える白拍子の女
『道成寺』の前シテは限りなく美しく魅力的で、しかも不思議な雰囲気が漂う女、そのように観て感じていただきたい、と思っています。
「稽古をしっかり積めさえすればそれでいい、余計なことは考えるな」そう教えられた時代がありました。確かに間違いではありませんが、それがすべて、ではないように思えます。能を演じるには、まず自分の思う役作りを考え、それに似合う面と装束を選び、その面と装束を生かすための稽古を積む、そうあるべきではないでしょうか。
喜多流は本来、前シテの面は「曲見」、装束は「紅無鶴菱模様唐織」を坪折とするのが決まりです。しかし近年、初演で老け役の「曲見」では、むずかし過ぎるだろうという配慮なのでしょうか、「増女」で勤める方が増えて、私も「増女」で披きました。装束は何故か父の拘りか、個人的な希望だったのでしょうか、「紅入蝶柄模様唐織」で勤めました。今回もやはり面は「増女」系で唐織も紅入りを考えています。
では、より不思議な女の魅力を出すためにはどうしたらよいか、いろいろと考えて、梅若玄祥先生にお願いして「逆髪」の写し、「白露」臥牛氏郷打を拝借することで不思議な女の艶をお見せする。唐織は『道成寺』に相応しい貴重な色入唐織「赤地鱗地紋花笠に獨楽糸(こまいと)」を観世銕之丞先生から拝借させていただくこととなり、両先生には感謝の気持ちで一杯です。
さて、美しく魅力的で不思議な女、その身体から立ちのぼる独特の艶、それはなんであろうか・・・。
稽古を重ね、また『道成寺』についていろいろと書いていくうちに、ふと見えて来たキーワードがあります。それは「妖気」です。「美」と「妖」の交錯、相克。「美」の静、と「妖」の動が、常にこの不思議な白拍子の女を動かしているのです。そして乱拍子という舞にも「美と妖」は現れます。冷静で平静を装う気持ちと次第に抑えきれずに興奮する、気持ちの昂ぶり。その相克の繰り返しが乱拍子の摺り足と足拍子で表現されているとも言えます。
蛇体となるまでの女の執心、執念、拘り、その怒りの対象は・・・。
昔恋した熊野参詣の僧でも、目の前で祈る僧でもありません。男を隠した鐘と鐘があるその土地、このふたつへの恨みです。「鐘がいけないのよ」「鐘さえなければ」という逆恨みともいえる、鐘への恨み。怒り発散ギリギリの精神状態は危険な女でもあるのです。
今回はアイのふれ、「道成寺で撞き鐘が再興され、その鐘供養が行われます」の言葉が響き渡ると、すぐにシテが姿を現す演出となります。それはアイの言葉を聞いた途端に女の恨みの心のスイッチはオンとなり、白拍子になりすまし、突然どこからともなく現れる、そのように想像してご覧いただきたい、と思っています。
女は最後、日高川に消えますが、死んだとは謡いません。また現れるかもしれないのです。実に悲しい、終わりのない女の怒りと恨みは深い川の中にあり続けるのです。死んだ、成仏したとは終わらない救いのない終曲に、恐ろしい女の、しかしなにか悲しい、可哀想なところもある、そのようにもご覧いただけたら、とも思っています。
作者の観世小次郎信光はお囃子事が達者だった能役者だったようです。
『道成寺』は信光らしい囃子方のパフォーマンスが遺憾なく発揮される構成です。初めから終わりまでおもしろ尽くしで、観る者を飽きさせることがない演出満載の『道成寺』。披きであろうと再演であろうと、必ず気迫と情熱がみなぎる舞台になります。
シテを演じることを決め、それがNHKの公開録画と決まった今、いろいろなプレッシャーが襲って来ます。しかしどうにかその重圧をうまくかわし、プレッシャーとうまくお付き合いして、無事よい舞台を成功させたいと強く思っています。まさに平成26年の、いや私の人生の、ここ一番の試練の能である、そう覚悟しています。
写真
「揚羽蝶柄唐織」 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
「逆髪」朝日新聞(能の華より)
「赤地鱗模様唐織」観世銕之丞家、銕仙会蔵 (ようこそ能の世界へより」
文責 粟谷明生
『道成寺』の前シテは限りなく美しく魅力的で、しかも不思議な雰囲気が漂う女、そのように観て感じていただきたい、と思っています。
「稽古をしっかり積めさえすればそれでいい、余計なことは考えるな」そう教えられた時代がありました。確かに間違いではありませんが、それがすべて、ではないように思えます。能を演じるには、まず自分の思う役作りを考え、それに似合う面と装束を選び、その面と装束を生かすための稽古を積む、そうあるべきではないでしょうか。
喜多流は本来、前シテの面は「曲見」、装束は「紅無鶴菱模様唐織」を坪折とするのが決まりです。しかし近年、初演で老け役の「曲見」では、むずかし過ぎるだろうという配慮なのでしょうか、「増女」で勤める方が増えて、私も「増女」で披きました。装束は何故か父の拘りか、個人的な希望だったのでしょうか、「紅入蝶柄模様唐織」で勤めました。今回もやはり面は「増女」系で唐織も紅入りを考えています。
では、より不思議な女の魅力を出すためにはどうしたらよいか、いろいろと考えて、梅若玄祥先生にお願いして「逆髪」の写し、「白露」臥牛氏郷打を拝借することで不思議な女の艶をお見せする。唐織は『道成寺』に相応しい貴重な色入唐織「赤地鱗地紋花笠に獨楽糸(こまいと)」を観世銕之丞先生から拝借させていただくこととなり、両先生には感謝の気持ちで一杯です。
さて、美しく魅力的で不思議な女、その身体から立ちのぼる独特の艶、それはなんであろうか・・・。
稽古を重ね、また『道成寺』についていろいろと書いていくうちに、ふと見えて来たキーワードがあります。それは「妖気」です。「美」と「妖」の交錯、相克。「美」の静、と「妖」の動が、常にこの不思議な白拍子の女を動かしているのです。そして乱拍子という舞にも「美と妖」は現れます。冷静で平静を装う気持ちと次第に抑えきれずに興奮する、気持ちの昂ぶり。その相克の繰り返しが乱拍子の摺り足と足拍子で表現されているとも言えます。
蛇体となるまでの女の執心、執念、拘り、その怒りの対象は・・・。
昔恋した熊野参詣の僧でも、目の前で祈る僧でもありません。男を隠した鐘と鐘があるその土地、このふたつへの恨みです。「鐘がいけないのよ」「鐘さえなければ」という逆恨みともいえる、鐘への恨み。怒り発散ギリギリの精神状態は危険な女でもあるのです。
今回はアイのふれ、「道成寺で撞き鐘が再興され、その鐘供養が行われます」の言葉が響き渡ると、すぐにシテが姿を現す演出となります。それはアイの言葉を聞いた途端に女の恨みの心のスイッチはオンとなり、白拍子になりすまし、突然どこからともなく現れる、そのように想像してご覧いただきたい、と思っています。
女は最後、日高川に消えますが、死んだとは謡いません。また現れるかもしれないのです。実に悲しい、終わりのない女の怒りと恨みは深い川の中にあり続けるのです。死んだ、成仏したとは終わらない救いのない終曲に、恐ろしい女の、しかしなにか悲しい、可哀想なところもある、そのようにもご覧いただけたら、とも思っています。
作者の観世小次郎信光はお囃子事が達者だった能役者だったようです。
『道成寺』は信光らしい囃子方のパフォーマンスが遺憾なく発揮される構成です。初めから終わりまでおもしろ尽くしで、観る者を飽きさせることがない演出満載の『道成寺』。披きであろうと再演であろうと、必ず気迫と情熱がみなぎる舞台になります。
シテを演じることを決め、それがNHKの公開録画と決まった今、いろいろなプレッシャーが襲って来ます。しかしどうにかその重圧をうまくかわし、プレッシャーとうまくお付き合いして、無事よい舞台を成功させたいと強く思っています。まさに平成26年の、いや私の人生の、ここ一番の試練の能である、そう覚悟しています。
写真
「揚羽蝶柄唐織」 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
「逆髪」朝日新聞(能の華より)
「赤地鱗模様唐織」観世銕之丞家、銕仙会蔵 (ようこそ能の世界へより」
文責 粟谷明生