韓国では軍が竹島の周辺海域で防衛訓練を実施した。また、韓国の与野党の国会議員団8の何人か竹島に上陸した。日本に対する嫌がらせの極みである。
日清戦争で日本は清国に勝利し、1895年清と下関条約を結んだ。そのひとつに日本は清の属国であった朝鮮を独立させた(独立後大韓帝国と称した)。繰り返すが日本が朝鮮を清から解放させたということ。
日本が竹島を国の領土に決めたのは1905年である。これは韓国独立の10年後であり、韓国併合(1910年)の5年前である。つまり、独立した韓国からクレームがあったわけでも併合に際して強奪したわけでもないということ。
それからほぼ50年後に、韓国は、1952年に李承晩大統領が公海上に「李承晩ライン」を設けて竹島を取り込んだ。そのとき、日本は太平洋戦争の敗戦で、言わば「貧して鈍していた」うえ軍備力もない。そこに乗じられたのだ。
さて、次は天保7年(1836年)のある儒学者の日記から抜粋したものだ。
「石州の澳(おき)ニ、竹島トイエル地アリ。朝鮮ニ近シ。其地ニ刀剣類ヲ持行、韓人ト八幡ス事覚、家老二名切腹。公儀ノ吟味甚厳ナリ。切腹ニテハ不済、必削地ナルベシト申事ナリ」
この史料の説明は続きとする。
日清戦争で日本は清国に勝利し、1895年清と下関条約を結んだ。そのひとつに日本は清の属国であった朝鮮を独立させた(独立後大韓帝国と称した)。繰り返すが日本が朝鮮を清から解放させたということ。
日本が竹島を国の領土に決めたのは1905年である。これは韓国独立の10年後であり、韓国併合(1910年)の5年前である。つまり、独立した韓国からクレームがあったわけでも併合に際して強奪したわけでもないということ。
それからほぼ50年後に、韓国は、1952年に李承晩大統領が公海上に「李承晩ライン」を設けて竹島を取り込んだ。そのとき、日本は太平洋戦争の敗戦で、言わば「貧して鈍していた」うえ軍備力もない。そこに乗じられたのだ。
さて、次は天保7年(1836年)のある儒学者の日記から抜粋したものだ。
「石州の澳(おき)ニ、竹島トイエル地アリ。朝鮮ニ近シ。其地ニ刀剣類ヲ持行、韓人ト八幡ス事覚、家老二名切腹。公儀ノ吟味甚厳ナリ。切腹ニテハ不済、必削地ナルベシト申事ナリ」
この史料の説明は続きとする。