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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「正しい裁きをされる方」

2019年01月25日 06時15分32秒 | 神の義とは

 宮に上って、祈ったパリサイ人と取税人がいたが、神に義とされて、家に帰ったのはあの取税人だった。

もちろん、この取税人のやっていたことが良しとされたのではない。

神はふたりの人の心を見ておられた。

人のことではなく、自分の罪と間違いをはっきりと認めて神の前に出ていたのは取税人の方だった。

イエスは神の義についてハッキリ分かっておられた。

だから、神に義とされたのは、この取税人の方だと断言されている。

 

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(ローマ3:23-25新共同訳)

 

しかし、わたしやあなたは多くの場合、自分の義と神の義とを混同してしまいかねないものである。

 

もうひとつ、神の義はまた、キリストの十字架を通して現わされた。

 
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(1ペテロ2:23口語訳)

 

イエスは誰にののしられ、苦しめられたのか。

イエスはパリサイ人を代表とする、自分たちを正しいとする人間の義によってののしられ、苦しめられ、十字架に追いやられていったのだ。

しかし、その中で、イエスは正しい裁きをされる方にいっさいをゆだねておられた。これはイエスが神の義を求めておられる姿勢であるとも言える。

そして、そのイエスは、復活の後、天においても地においてもいっさいの権威を与えられたのである。(マタイ28:18)

 

この神の義を求めていく人のところに神の国が現わされていく。

また神の国を求めていく人のところに、神の義と人間の義の対立も起こってくる。

その神の国の主権と支配は、罪赦され、神に義とされたあなたやわたしを通して、またエクレシアという信仰共同体である教会を通して現わされていく。

どう思いますか。

 

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