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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「姿を消された」

2024年04月16日 05時30分34秒 | イエスの復活

 

イエスのことで失望していたふたりの弟子たち。

そのふたりに寄り添って一緒に歩き始められた

復活のイエスの話の続きです。

この話から更に気づかされることがあります。

 

4月5日のところでも話しましたが、

どこまでもこのふたりとの会話の中で、

イエスご自身が主導権を取っておられます。

イエスが主導権を取られるところ、

そこで事が新しい展開を見せるのです。

 

ですから、今日も一日、

いろいろやることが多い中で、

あなたもわたしも先ずは、

主イエスに一日の主導権をお渡しすることから

始めたいものですね。

 

主は周りの状況に働かれる前に、

わたしやあなたの内側、

心や思いの領域に働きかけてくださると、

わたしは信じています。

あなたやわたしを愛しておられる主ご自身は、

わたしたちの日々の歩みのことについても、

関心をもっておられ、

お考えをもっておられるからです。

 

ヨハネ福音書24章の続きです。

24:30 そして彼らと食卓に着くと、

イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。

24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、

その姿は見えなくなった。

24:32 二人は話し合った。

「道々お話しくださる間、

私たちに聖書を説き明かしてくださる間、

私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 

ここでも、食卓について食事をするという

ごく普通の日常茶飯事のことですが、

ふたりから言われたのではなく、

イエスが主導権を取って、

自分からパンを取って神をほめたたえ、

それを裂いてふたりに与えておられます。

 

その時、そうです。その時です。

ふたりの目が開き、イエスだとやっと分かったのです。

「あっ、あなたはイエスさまですね」と分かった瞬間、

イエスの姿は見えなくなりました。

 

不思議ですね。

「やっと分かったのか。

では、ゆっくり一緒に食事をしよう。」とは

言われませんでした。

 

しかし、イエスが目の前から姿を消された後、

ふたりはまた失望の状態に戻ったのではありません。

心がまったく変わっています。

「道々お話しくださる間、

私たちに聖書を説き明かしてくださる間、

私たちの心は内で燃えていたではないか。」

心が内に燃えていたと言っています。

ひとりだけではなく、ふたりともそうだったのです。

少し前までは失望落胆していたその心が、です。

これは目が開かれて、

復活のイエスのことが分かる前のことですね。

聖書を解き明かされて、

心が内に燃えるという体験をしていた、そのふたりが、

その後で復活のイエスに気づいたのでした。

前からおられたイエスに気づいたのであって、

その時、イエスが現れたのではありません。

 

こじつけるわけではありませんが、

あなたやわたしも同じような経験はありませんか。

聖書のみ言葉を通して、何かの感動を覚える経験をします。

このふたりの弟子たちと似ているところは、

その感動を覚えながらも、

そばにおられるイエスに気づいていないということです。

逆に言えば、聖書からの何かの感動を経験するのは、

そばにおられるイエスに出会っているからではないでしょうか。


これは少し言いすぎだと思われますか。

聖書から何かの感動を経験するのは聖霊の働きです。

そして、その聖霊は人をイエスに導き、

出合わせてくださる方です。

 

イエスに出会ったと言っても、

そのイエスをあなたもわたしもいつまでも

自分のものとして握りしめていることは出来ません。


1ペテロ1:8、9

あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、

彼を愛している。

現在、見てはいないけれども、

信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。

それは、

信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(口語訳)

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「失望から希望へ」

2024年04月12日 05時30分40秒 | イエスの復活

 

ルカ福音書24章13~35節のお話の続きです。

 

あのふたりの弟子たちがイエスに対して持っていた

イスラエルの解放という希望は、

裏切られる結果となりました。

 

ところが、ところがです。

人間の抱いていた希望や期待をはるかに超えた、

それ以上に素晴らしい神が用意しておられた

「希望」が与えられたのです。

そうです。復活の希望です。

 

ところが、

その復活されたイエスが目の前にいるのに、

ふたりの弟子たちはその人をどこかの見知らぬ人だ

と思っていたようです。

 

「ほら、わたしだよ。わからないのか。」と

イエスは言っていませんね。

そう言われる代わりに、

イエスは聖書の話を始められました。

 

どうしてここで、聖書、

それも旧約聖書の話になったのでしょうか。

 

ここで、イエスとはどういう方でしょうか。

「ほら、わたしだよ。」と言わずに、

聖書の話をされる方です。

 

ルカ24:27

それからイエスは、

モーセやすべての預言者たちから始めて、

ご自分について聖書全体に書いてあることを

彼らに説き明かされた。(新改訳2017)

 

ここで復活のイエスはただ、

漠然と旧約聖書の話をされたのではありません。

ただ、モーセやダビデについて、

人が興味を持ってくれそうな話をされたのでもありませんでした。

では、何のために聖書の話をされたのでしょうか。

 

そうです。

「聖書全体にご自身について書いてあること」を

解き明かされたのです。

 

この時のイエスの話を、

録音しておいてほしかったと思いませんか。

それがユーチューブにアップされて、

いつでも誰でも見聞きできるようになればよかった

とは思いませんか。

 

その録音がなくても大丈夫ですね。

なぜですか。

イエスが解き明かされた、

その同じ聖書をあなたもわたしも身近に持っているからです。

 

あなたは、聖書とはどういう本だと思っていますか。

聖書の中心テーマは、

イエス・キリストなのだということを、

ある時から、わたしは気づかされるようになりました。

 

しかし、

その中心テーマであるイエスに出会うための情報は、

インターネットやAIなどから簡単に

手に入れることはできません。

ひとりひとりが、

自分で聖書に求め、探すことで、

与えられ、見出すからです。

 

マタイ7:7-8

求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見出します。

たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、

求める者は受け、

探す者は見出し、

たたく者には開かれます。(新改訳2017)

 

復活のイエスご自身が、

希望を失ったふたりの弟子たちに対して、

聖書からご自身について記してあるところを

解き明かされました。

イエスについての情報、そこに新しい希望があるからでした。

 

このことは、

今日も大いに注目すべきことだと、

わたし自身は思わされています。

「主イエスさま、

聖書を通してあなたと出会わせてください。

聖霊さまによってあなたと出会う時、

今のわたしにも新たな希望が、感動が

与えられると信じます。

それは私にとって今日を生き、明日を生きる

いのちであり、力です。アーメン」

 

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「愚かな者たち」

2024年04月09日 05時30分24秒 | イエスの復活

 

わたしはある時から復活のイエスを信じる者となりました。

どこでどの時点から信じられるようになったのか、よくわかりません。

しかし、わたしの周りには

「そんなこと別に信じていない、信じる必要もない」という人たちが

圧倒的に多いのです。

日本では、イエスの復活を信じている人たちは少数者です。

ということは、わたしやあなたは特別なのでしょうか。

 

前回のルカ福音書24章の続きです。

復活のイエスは、

エマオへ向かう2人の弟子たちに寄り添って歩いて行かれました。

そしてイエスの方から2人に声をかけておられます。

2度も問いかけておられます。

「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」

「どんなことですか」

イエスは、

2人の話していることがわからなかったから聞いておられるはずは

ありません。

十字架にかけられる前の晩、

ペテロが、鶏が泣く前にイエスのことを3度知らないと言うことを、

前もって分かっておられたイエスです。

そのイエスが、

このふたりの弟子たちがすぐ近くで声を出して話している

その内容が分からないはずはありません。

では、分かっておられるのに聞いておられるとすれば、

それはどういうことでしょうか。

 

復活のイエスは、

この2人の、その時の心の思い、気持ち、感情を

引き出しておられ、ハッキリさせておられるようです。


イエスとはどういう方かについて、ここから教えられます。

主イエスはいつでもわたしたちのただ口の言葉だけではなく、

心に思っていること、気持ち、感情などの本当のところで

わたしやあなたと出会おうとしておられます。

だとすると、わたしやあなたの祈り方も少し変わってくるでしょうか。

 

ルカ24:22-27

仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。

彼女たちは朝早く墓に行きましたが、

イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。

そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、

彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。

それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、

まさしく彼女たちの言ったとおりで、

あの方は見当たりませんでした。」

そこでイエスは彼らに言われた。

「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、

預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

キリストは必ずそのような苦しみを受け、

それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、

ご自分について聖書全体に書いてあることを

彼らに説き明かされた。(新改訳2017)

 

「愚かな者たち」、心が鈍い者たちとは誰のことでしょうか。

み言葉を聞くのは聞いていながら、信じていなかった人のことですね。

次回に続きます。

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「話の主導権」

2024年04月05日 05時30分36秒 | イエスの復活

 

前回の続きです。

 

ルカ24:14-19

24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。

24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、

イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、

イエスであることが分からなかった。

24:17 イエスは彼らに言われた。

「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」

すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。

24:18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。

「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、

あなただけがご存じないのですか。」

24:19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。

「ナザレ人イエス様のことです。

この方は、神と民全体の前で、

行いにもことばにも力のある預言者でした。・・・(新改訳2017)

 

面白い話ですね。

復活されたイエスが、ふたりの弟子たちに2度、質問しておられます。

まずは、イエスの方がそのふたりに近づいてこられ、

一緒に歩き始めていますね。

「ほら、わたしだよ。わかりませんか。」とは言っておられません。

ふたりの目がさえぎられていて、イエスとは分からなかったようです。

 

目がさえぎられていたために、見るものを見ても見えていないのです。

「えっ、あなた、そこにいたの。全然気がつかなかった」と

いう経験はありませんか。

このふたりの弟子たちの場合は、

それとはだいぶ違うかもしれません。

 

わたしたちにも、イエスの方はすべて分かっていて、

見えていて、

こちらの方がまったく分かっていない、

見えていないという場合があるのですね。

 

ふたりの弟子たちは、

ある話題に心と頭をすべて使っていて、

そばに近づいてきた人のことにあまり関心を示していません。

それほど話の話題に集中していたわけですね。

「その話は何のことですか」と声をかけてきたのは、

復活のイエスの方でした。

ふたりがどういう話をしているのかを知りたかったので、

このように聞かれたのでしょうか。

どうも、そうではなさそうですね。

 

イエスが質問をされる時、

多くの場合、それによって話の主導権を取られることが多いです。

ふたりの真剣な話の中に割り込んできて、

その後、「どんなことですか」と更に質問しておられます。

そしてその後、25節から、

この場のリーダーシップをとられたイエスの話が始まっています。

 

希望を失い、問題に直面している人たちに対して、

イエスはそんな風に対応していかれるのだということを、

ここに絵のように見ることができます。

 

わたしたちの主導権の枠内でイエスは働いてくださるとは

限らないとすれば、

今のわたしたちの問題に主が介入してくださるのは、

主導権を主に渡さなければなりません。

 

「すべては主の御手にある。明日も生きよう。主がおられる。」

の讃美、知っていますか。

ここに単純にわたしの人生の主導権をイエスに明け渡す、

簡単な讃美と祈りがあります。

どう思いますか。

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「裏切られた希望的観測」

2024年04月02日 05時30分48秒 | イエスの復活

 

あなたはどう思いますか。

聖書の時代のイエスの弟子たちは、

復活のイエスを目の前に見たことで、

復活の信仰が強められたと言えるのではないか。

その点、今の時代の日本人のわたしたちが

復活のイエスを信じるのはやや不利な立場だ

と思ったことはないでしょうか。

 

最初から変な質問ですね。

多くのクリスチャンの皆さんは、

今回の、この聖書の話をよく知っておられると思いますので、

少しずつ進めていきます。

 

ルカ24:13-16

24:13 ところで、ちょうどこの日、

弟子たちのうちの二人が、

エルサレムから六十スタディオン余り(11キロあまり)離れた、

エマオという村に向かっていた。

 

24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。

24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、

イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、

イエスであることが分からなかった。(新改訳2017)

 

イエスの弟子であったふたりの人がエルサレムを後にして、

エマオという村に向かっていました。

ふたりは何かの用事があって、

エルサレムを離れて行ったのでしょうか。

 

また、このふたりは話し合ったり、論じ合ったりして

歩いていましたが、

何の話をしていたのでしょうか。

 

そのふたりのそばに近づいてきて、

一緒に歩き始めた人がいました。

復活されたイエスでした。

このふたりの弟子は、

「あっ、イエスさまだ」と驚いた様子はまったくありません。

目がさえぎられていて、

それが復活のイエスだと分からなかったというのです。

不思議ですね。

 

ここには詳しいことが書かれていませんので、

以下はあくまでもわたしの勝手な想像です。

このふたりは特別な用事があってエマオに向かっていた

というのではなく、

取り敢えずエルサレムから離れたかったのです。

それはなぜか。

ひとつはイエスが十字架上で悲惨な死を遂げられたこと、

墓に葬られたことです。

彼らの期待していたことがすべて無に帰したのです。

自分たちの口でも言っていますが、

イスラエルという国がローマ帝国の手から解放され、

新しい歴史のドアが開かれることを、

彼らはメシア・イエスに期待していたようです。

 

十字架の死によって、その期待が見事に裏切られました。

期待が大きかっただけに、

裏切られた失望感も大きかったと思われます。

 

希望的観測という言葉があります。

これから時代は良くなっていくのだ、という希望的観測です。

早く戦争が終わって平和な時代が来てほしい、

いや来る違いないというような思いです。

 

ふたりの弟子たちの、

この希望的観測は見事に裏切られた結果となりました。

こんな状態で、いつまでもエルサレムにいても仕方がない

というわけです。

 

もう一つ、

ふたりがエルサレムを離れていくことで、

想像できることがあります。

墓からイエスの死体が無くなっているという知らせです。

この時の彼らにとってこれは良い知らせだったか、

悪い知らせだったか。

 

彼らはすぐに復活されたのだとは思っていません。

誰かが死体を盗んだのではないかと思ったようです。

他にもそう思った人たちが何人もいたからです。

弟子たちの間に不穏な空気が漂っていました。

ですから、部屋にはかぎをかけて閉じこもっていたようです。

イエス復活のイースターのお祝いなどしていません。

 

これは大変なことだ、自分たちも疑われるかもしれない。

エルサレムにはこれ以上とどまっていることはない、と。

そういう思いで、このふたりはエマオの村に向かっていたのです。

 

これは、あくまでもわたしの勝手な想像です。

そのふたりのことを、復活のイエスはほっておかれませんでした。

このふたりに寄り添って歩き始めました。

その時、どちらが先に声をかけていますか。

次回に続きます。

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