イエスのことで失望していたふたりの弟子たち。
そのふたりに寄り添って一緒に歩き始められた
復活のイエスの話の続きです。
この話から更に気づかされることがあります。
4月5日のところでも話しましたが、
どこまでもこのふたりとの会話の中で、
イエスご自身が主導権を取っておられます。
イエスが主導権を取られるところ、
そこで事が新しい展開を見せるのです。
ですから、今日も一日、
いろいろやることが多い中で、
あなたもわたしも先ずは、
主イエスに一日の主導権をお渡しすることから
始めたいものですね。
主は周りの状況に働かれる前に、
わたしやあなたの内側、
心や思いの領域に働きかけてくださると、
わたしは信じています。
あなたやわたしを愛しておられる主ご自身は、
わたしたちの日々の歩みのことについても、
関心をもっておられ、
お考えをもっておられるからです。
ヨハネ福音書24章の続きです。
24:30 そして彼らと食卓に着くと、
イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、
その姿は見えなくなった。
24:32 二人は話し合った。
「道々お話しくださる間、
私たちに聖書を説き明かしてくださる間、
私たちの心は内で燃えていたではないか。」
ここでも、食卓について食事をするという
ごく普通の日常茶飯事のことですが、
ふたりから言われたのではなく、
イエスが主導権を取って、
自分からパンを取って神をほめたたえ、
それを裂いてふたりに与えておられます。
その時、そうです。その時です。
ふたりの目が開き、イエスだとやっと分かったのです。
「あっ、あなたはイエスさまですね」と分かった瞬間、
イエスの姿は見えなくなりました。
不思議ですね。
「やっと分かったのか。
では、ゆっくり一緒に食事をしよう。」とは
言われませんでした。
しかし、イエスが目の前から姿を消された後、
ふたりはまた失望の状態に戻ったのではありません。
心がまったく変わっています。
「道々お話しくださる間、
私たちに聖書を説き明かしてくださる間、
私たちの心は内で燃えていたではないか。」
心が内に燃えていたと言っています。
ひとりだけではなく、ふたりともそうだったのです。
少し前までは失望落胆していたその心が、です。
これは目が開かれて、
復活のイエスのことが分かる前のことですね。
聖書を解き明かされて、
心が内に燃えるという体験をしていた、そのふたりが、
その後で復活のイエスに気づいたのでした。
前からおられたイエスに気づいたのであって、
その時、イエスが現れたのではありません。
こじつけるわけではありませんが、
あなたやわたしも同じような経験はありませんか。
聖書のみ言葉を通して、何かの感動を覚える経験をします。
このふたりの弟子たちと似ているところは、
その感動を覚えながらも、
そばにおられるイエスに気づいていないということです。
逆に言えば、聖書からの何かの感動を経験するのは、
そばにおられるイエスに出会っているからではないでしょうか。
これは少し言いすぎだと思われますか。
聖書から何かの感動を経験するのは聖霊の働きです。
そして、その聖霊は人をイエスに導き、
出合わせてくださる方です。
イエスに出会ったと言っても、
そのイエスをあなたもわたしもいつまでも
自分のものとして握りしめていることは出来ません。
1ペテロ1:8、9
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、
彼を愛している。
現在、見てはいないけれども、
信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。
それは、
信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(口語訳)





