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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「自分で聞いて分かった」

2023年12月29日 05時30分58秒 | ヨハネ福音書より

 

サマリアのあの女性の話は、まだ終わっていません。

ヨハネ福音書4章の続きです。覚えていますか。

 

サマリアの町の多くの人たちが、ひとりの女性のことばによって、

イエスを信じました。(39節)

そして、その後、さらに多くの人々が、直接イエスに出会って、

そのことばによって信じたのです。(41節)

更にです。サマリアの人たちの要請に応じて、イエスはその町に2日間ほど

滞在されました。

すごいですね。


サマリアの人たちが次々にイエスを信じています。

その後で、人々は彼女にこう言いました。

これは彼女には少し気になるような言葉です。

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。

自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(42節)

 

やはり人は、誰かに教えてもらってわかるだけでなく、

自分でわかることを求めているのですね。

 

わたしも長年牧師をしている時に、もっとこのことを知っておけばよかった

と思います。

わたしの説明の仕方が不十分なので、人はわかってくれないのだ。

もっとわかりやすい説明をしなければ・・・と思っていました。

その後で、誰かに、「わたしが今わかったのは、あなたの説明ではなく、

主から示されてわかったのです。」と言われると、

内心ショックだったかもしれません。

 

人は誰でも、今でも、自分でわかりたい、自分でわかったという喜びを

経験したいのですね。

ですから、最近になって、わたしは「バイブルトーク」と言われている方法で、

自己発見型の聖書の学びの大切さを強調し、いくつものグループを通して

多くの人との関わりをもっています。

 

しかしです。

サマリアの女性の話に帰ります。

ですから、人から先ほどの41節のように言われれば、

わたしがサマリアの女性であれば、

「あなたがたはそんなふうに言いますが、もし、わたしがあの時、

水がめをもってひとりで家に帰っていれば、

あなたがたはイエスと出会うことはできなかったはずですよ」

言うかもしれません。

しかし、彼女は心にそんなことを思ったとしても、

いや、そんなことは思わなかったでしょう。

わたしが思っただけです。

彼女が最初にそのサマリアの人たちに話しをしていなければ、

イエスは弟子たちと井戸の傍で食事をした後、サマリアの町には行かず、

ガリラヤの方へ帰って行かれたと思います。

どう思いますか。

 

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「ひとつの問いかけ」

2023年12月26日 05時30分02秒 | クリスマス・ストーリー

 

それにしても、あの東の国から来た博士たちは不思議ですね。

「何が? もうクリスマスは終わってますよ。」

ヨセフとマリアのもとで生まれた幼な子イエスのことを、

ユダヤ人の王が生まれたと言って遠くの国から多くの時間をかけ、

長い旅をしてわざわざベツレヘムまでやって来た

あの博士たちのことです。

その知らせを聞いて、エルサレムのユダヤ人たちは不安には

思っても、「じぁー自分たちも一緒に行こう」とは言わず、

誰も博士たちと一緒にベツレヘムへ出掛けていません。

 

ユダヤ人の王が生まれたのに肝心なユダヤ人が

誰も知らないのなら、これはまちがいだったのかなー、と

博士たちは思って考え込んだりしていませんね。

そんなユダヤ人のことなど無視して、星に導かれ

幼な子のいるところへたどり着いています。

そして、大喜びしています。

 

マタイ2:9-11

博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。

すると見よ。

かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、

ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、

ひれ伏して礼拝した。

そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(新改訳2017)

 

このクリスマスのストーリーを思いめぐらしていて、

今年、気づかされたことがあります。

 

この博士たちも不思議な人たちですが、もっと不思議なのは、

ヨセフとマリアを両親として生まれたその赤ちゃんが

神の子キリストであることを、父なる神さまは、

この東から来た博士たちを通してあかししていることです。

星を使って、名前も知らない東の国の博士たちを使って、

幼な子がユダヤ人の王、メシア、キリストであることを

示しておられます。

そのだいぶ前に、マリアには御使いを通して、ヨセフには

夢によって、その幼な子が救い主、キリストであることが

示されていましたね。

しかし、イエスの両親となったこのふたりが、

この幼な子は神の子キリストです、と

人に言ったとすればどうでしょうか。

親がそんなことを言って、誰が信じてくれるでしょうか。

「この親たちは自分たちに初めて生まれた男の子が、いくら

かわいいからと言って、何ということを・・・」

と思われるだけです。

 

名も知れない東から来た人たちが、自分たちに生まれた幼な子を

見て、その前にひざまずき礼拝している姿を見た時、

ふたりの親たちは何を思ったでしょうか。

 

ということで、博士たちが遠くからこのようにやって来たのは、

実はこのマリアとヨセフのふたりのためであったとも言えます。

それ以前にみ言葉で聞いていたことが、もう一度このような形で

再確認されたのです。

 

しかし、それだけではありません。

このようなクリスマスのストーリーを考え、星を用い、

博士たちを用いて、見た目には普通の赤ちゃんと

何ら変わらなかった幼な子イエスを神の子として

あかししておられる、この父なる神さまとは

いったいどういう方だと思いますか。

目には見えない、わたしやあなたが信じている神とは、

どういう方なのか。

そのことが、このクリスマスのストーリーからも

メッセージとして発信されていると思います。

クリスマスはもう終わったのですが、あなたやわたしへの

ひとつの問いかけです。

この問いには、一つの正しい答えがあるというわけではなく、

思いめぐらしていく時、聖霊が各自に教え、

気づかせて下さることだと思います。

 

 

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「教室型ではなく」

2023年12月22日 05時30分54秒 | ヨハネ福音書より

 

このヨハネ福音書4章は、不思議な展開となっています。

最初は「水」が話題でしたね。

次は「食べ物」のことが話題となって、話が広がっています。

水も食べ物も人が生きていくうえで、無くてはならない物です。

最初は未信者のサマリアの女性が相手でした。

今度は、イエスの弟子たちが相手となっています。

最初は未信者への伝道であり、今度は弟子たちへの弟子訓練とも

言えます。

 

買い物に行って帰ってきた弟子たちが、イエスに

「食べてください」と何かを差し出したようです。

それに対して、自然に弟子訓練が始まっています。

教室型ではなく、自然な、生活の中で教えがなされています。

「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」と

イエスは言われました。

この時、「イエスさま、食べる時に、そんなむずかしい話は

しないでください」と思った弟子がいたでしょうか。

イエスは、信仰は信仰、生活は生活と分けておられませんね。

聖書はそう言っている。しかし、現実は現実だと分けていません。

とても自然に、現実の生活の中で、見えない霊的な真理を見せて

おられます。

 

ヤコブの井戸の水から「生ける水」の話になりました。

弟子たちの買ってきた食べ物から「あなたがたの知らない食べ物」

の話になりました。

そして、そこから次は何の話に展開していきましたか。

 

ヨハネ4章31―38節

その間、弟子たちはイエスに

「先生、食事をしてください」と勧めていた。

ところが、イエスは彼らに言われた。

「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」

そこで、弟子たちは互いに言った。

「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」

イエスは彼らに言われた。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、

そのわざを成し遂げることです。

あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と

言ってはいませんか。

しかし、あなたがたに言います。

目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりに

なっています。

すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を

集めています。

それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』という

ことばはまことです。

わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを

刈り入れるために遣わしました。

ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実に

あずかっているのです。」(新改訳2017)

 

イエスとはいったいどういう方だと思いますか。

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、

あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

(ヨハネ17:3新改訳2017)

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「ビフォー アンド アフター」

2023年12月19日 05時30分54秒 | ヨハネ福音書より

 

ここからヨハネ福音書4章の後半に入っていきます。

ニコデモの場合も、サマリアの女性の場合もそうですが、

個人的なイエスとの出会いと対話を通して、

イエスの中にあるものが引き出されている感じです。

その対話を通して、これを読むわたしたちもイエスについて

いろいろと教えられ、気づかされます。

 

4章の後半で、この話しはさらに大きく広がっていきます。

 

4:25 女はイエスに言った。

「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを

知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに

知らせてくださるでしょう。」

4:26 イエスは言われた。

「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と

話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」

「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれも

いなかった。

4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。

4:29 「来て、見てください。私がしたことを、

すべて私に話した人がいます。

もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

 

イエスがご自分のことをキリストだと認めた、

ちょうどそのタイミングで、町に買い物に行っていた弟子たちが

帰ってきました。

弟子たちは、イエスがひとりの女性と何か話し込んでいた様子を

感じ取ったようです。

しかし、その様子に驚きながらも、何の話をしていたのですか、

と聞きたいと思いもありながら、誰もそれを口にしませんでした。

この状況を想像できますか。

 

イエスに忖度(そんたく)してか、何も言わないでいる弟子たちの

雰囲気を察して、当のサマリアの女性は水がめを

そこに残したまま、ひとり町の方に行きました。

そして、町の人たちに、「皆さん、今、わたしはキリストに

出会ったのです」とは言いませんでしたね。

「私のしたことを、すべて話した人がいます」と言いました。

イエスは彼女に「あなたには夫が五人いましたが、

今一緒にいるのは夫ではない」と言っただけでした。

なのに、このイエスの言葉を聞いて、彼女なりに、

この方は自分の過去のことをすべて知っていると思ったようです。


「来て、見てください。私がしたことを、

すべて私に話した人がいます。

もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

彼女は、町の人たちが来て見て、自分で、

この方がキリストかどうかを確かめてください、と言っています。

 

これが伝道であるとすると、彼女の伝道の仕方は素晴らしいと

思いませんか。

押しつけるのではなく、あなたが自分で来て見て、

判断してください、と言っています。

 

普通、人は一般に、他の人から教えられてわかるよりも、

自分でわかりたいと思っているのは、今も昔も同じですね。

 

ところで、思い出してください。

このサマリアの女性は、人があまり来ない時間帯に、

井戸に水を汲みに来た人でしたね。

つまり、人にはできるだけ顔を合わせたくなかったのです。

その人が、わざわざ町に行って、人々にこんなことを

言ったのです。

おわかりですね。

彼女は変わったのです。

イエスにいろいろと説教されて、変わったのですか。

いいえ、イエスに出会って変わったのです。

ビフォー アンド アフターですね。

そう言われれば、わたしもイエスに出会って変わったと思います。

人と比べてではなく、以前の自分と比べてです。

あなたはどうですか。

 

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「神が求めておられる礼拝とは」

2023年12月15日 05時30分39秒 | ヨハネ福音書より

 

過去に5人の男と結婚、離婚を繰り返してきたサマリアの女性の、

人に知られたくないようなプライベートな話題になりましたが、

ここでイエスは、彼女の過去のことをもっと詳しく知ろうと

していません。

その後どうなったでしょうか。

 

ヨハネ福音書4章18節で「あなたは本当のことを言いました。」

と、イエスが言った後、

彼女は、「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」と言い、

その後、話題が変っていきます。

どちらが話題を変えたのですか。

彼女ですか。

イエスの方ですか。

そうです。

彼女の方が話題を変えて、礼拝のことを言い出しました。

 

4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、

礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

4:21 イエスは彼女に言われた。

「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、

エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が

来ます。

4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、

わたしたちは知って礼拝していますが、

あなたがたは知らないで礼拝しています。

4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、

御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。

今がその時です。父はそのような人たちを、

ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、

御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

サマリアの女性は礼拝の場所について、

「この山でする礼拝」か「エルサレムでする礼拝」か、

を話題にしています。

それに対して、イエスは礼拝の場所ではなく、

何を話題にしていますか。

 

そうです。

イエスは礼拝する時について話題にしておられます。

また、礼拝する人のことを問題にしておられます。

知って礼拝する人たちと知らないで礼拝する人たちです。

そして「まことの礼拝者たち」と言っておられます。

ということは、まことでない礼拝もあるということですね。

 

まことの礼拝をする人たちとは、

御霊と真理(霊とまこと)によって礼拝する人たちのことです。

まことでない礼拝とはどういう礼拝でしょうか。

まことでない礼拝とは、御霊と真理によらない礼拝であり、

形式だけの礼拝、口先だけの礼拝、義務的な礼拝とも言えます。

 

ふと気がつけば、習慣的になり、

儀礼的になってしまいやすい礼拝(わたしも)ですので、

この点についてお互いに励まし合う必要はないでしょうか。

 

父なる神が求めておられる礼拝とはどういう礼拝なのか

という点についてです。

「わたしは毎週礼拝を守っています」と言います。

「わたしは今週礼拝を守れなかった」という場合もあります。

礼拝を守った、守らなかったという言い方にはどういう感じが

込められているでしょうか。

「今日の礼拝は、あまり恵まれなかった」と言うのは、

どうでしょうか。

それは父が求めておられる礼拝とどう関係するでしょうか。

 

あっ、わたしは毎週の礼拝を軽視しているのではありませんよ。

わたしたちの毎週の礼拝が、父なる神が求めておられる礼拝へと

心が向けられていくために、クリスチャンがお互いに

裁き合うのではなく、励まし合うにはどうすればよいでしょうか。

 

ひとつは、人の言うこと以上に、聖書に、

主イエスのみ言葉に心を向ける必要がありますね。

「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として

求めておられるのです。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、

御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

最初、礼拝について話題にしたのはサマリアの女性の方でしたね。

イエスはその礼拝についてとても大切なこと、

本質的なことを簡潔に話しておられます。

そしてその後、彼女はまた、自分から話題を変えました。

25節です。

イエスが誰であるかの話題に戻っています。

「あなたはキリストですか」と聞かずに、

彼女は間接的な聞き方をしています。

 

4:25 女はイエスに言った。

「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを

知っています。

その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせて

くださるでしょう。」

 

彼女の間接的な言い方に対して、イエスの応答は

ストレートでした。

「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

こんなにハッキリとイエスがご自身のことを

メシア、キリストであると言われた例は少ないと思います。

多くの場合「人の子」と言っておられます。

お昼過ぎに、のどの渇きを覚えて井戸の傍に座っていた

ユダヤ人の男、そう見ていた彼女は、

個人的な会話のやり取りを通して、イエスのことを

とうとうメシア・キリストではないか、と思ったのです。

 

もっと言えば、彼女はイエスに出会ったのです。

イエスに出会うなら、その人に何らかの変化が起こります。

では、彼女にどういう変化が起こったでしょうか。

次回に続きます。

 

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