前回の続き。
5000人の給食の話を続けている。ここからもう少し他にも教えられることがある。
人々は、イエスのなさったしるしを見て、
「ほんとうに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
少年の持っていた5つのパンと2匹の魚がイエスの手に移された時、奇跡が起こったのだ。青草の上に座った5000人以上の群衆は、後に12のかごにいっぱいのパンを残すほどに食べて満腹した。
さて、この信じられないような奇跡のことを聖書は「しるし」と言っている。
なぜ奇跡と言わないのか。
「しるし」とはあくまでしるしであり、それは何かを指し示すものだ。
日本の風習とも言えることで、誰かに何かをさしあげる時、「これはほんのおしるしだけですが・・・」という言い方をする。
それがお菓子のセットであったとしても、それは「おしるし」と言われる。
何のおしるしなのか。
あなたのことを思って感謝しているわたしの気持ちを現わすしるしです、ということのようだ。
つまり、見えない心の思いを見える形で表しているしるしである。
いただいたお菓子を口にする時、下さった人の心を感じて食べるわけで、日本の昔からの風習でもある。
「しるし」はそれ自体も素晴らしいが、それ以上に指し示しているものが重要である。「しるし」とはそういうものだ。
それでは5つのパンと2匹の魚から、5000人以上の人たちがお腹いっぱい食べたという、この奇跡は何を指さし示している「しるし」なのだろうか。
その指さしているものが「しるし」よりも重要なのだ。
その「しるし」が指さし示しているもの、それはイエスご自身である。
だから、群衆はこのイエスの奇跡を見て、「本当に、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言っている。
群衆はこの「しるし」の先にあるものを見たのだ。
ところで、わたしたちはこうして聖書を読んで、いろいろなことを学んでいるが、聖書研究は何のためにするのだろうか。
聖書にはいろいろな格言や教訓的な教えもあり、歴史的な興味深い話も数多く出てくる。聖書を教養のため、自分の人格向上のために、また歴史書として読む人たちもいると思う。
それはそれでよい。
ただし、イエスがこう言っておられることも知らなければならない。
「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」ヨハネ5:39-40(新共同訳)
ということは、聖書もまた、イエスご自身を指さしているのだ。
聖書に向き合う時、的外れの読み方をしたくない人は、このイエスのみ言葉を忘れてはならない。





