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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「しるしとは」

2018年09月28日 06時15分16秒 | 聖書の真理発見

 前回の続き。

5000人の給食の話を続けている。ここからもう少し他にも教えられることがある。

 

人々は、イエスのなさったしるしを見て、

「ほんとうに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

 

少年の持っていた5つのパンと2匹の魚がイエスの手に移された時、奇跡が起こったのだ。青草の上に座った5000人以上の群衆は、後に12のかごにいっぱいのパンを残すほどに食べて満腹した。

 

さて、この信じられないような奇跡のことを聖書は「しるし」と言っている。

なぜ奇跡と言わないのか。

 

「しるし」とはあくまでしるしであり、それは何かを指し示すものだ。

日本の風習とも言えることで、誰かに何かをさしあげる時、「これはほんのおしるしだけですが・・・」という言い方をする。

それがお菓子のセットであったとしても、それは「おしるし」と言われる。

何のおしるしなのか。

あなたのことを思って感謝しているわたしの気持ちを現わすしるしです、ということのようだ。

つまり、見えない心の思いを見える形で表しているしるしである。

いただいたお菓子を口にする時、下さった人の心を感じて食べるわけで、日本の昔からの風習でもある。

 

「しるし」はそれ自体も素晴らしいが、それ以上に指し示しているものが重要である。「しるし」とはそういうものだ。

 

それでは5つのパンと2匹の魚から、5000人以上の人たちがお腹いっぱい食べたという、この奇跡は何を指さし示している「しるし」なのだろうか。

その指さしているものが「しるし」よりも重要なのだ。

 

その「しるし」が指さし示しているもの、それはイエスご自身である。

だから、群衆はこのイエスの奇跡を見て、「本当に、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言っている。

群衆はこの「しるし」の先にあるものを見たのだ。

 

ところで、わたしたちはこうして聖書を読んで、いろいろなことを学んでいるが、聖書研究は何のためにするのだろうか。

聖書にはいろいろな格言や教訓的な教えもあり、歴史的な興味深い話も数多く出てくる。聖書を教養のため、自分の人格向上のために、また歴史書として読む人たちもいると思う。

それはそれでよい。

ただし、イエスがこう言っておられることも知らなければならない。

「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」ヨハネ5:39-40(新共同訳)

 ということは、聖書もまた、イエスご自身を指さしているのだ。

聖書に向き合う時、的外れの読み方をしたくない人は、このイエスのみ言葉を忘れてはならない。

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「ひとり山へ」

2018年09月25日 06時00分11秒 | 聖書の真理発見

前回の続き。

聖書を常識的に理解しようとするのか、それとも書かれているそのままを受取っていくのか、同じ聖書を読んでも、読む人によって違ってくる。

神はどのような方なのか、イエスとはどういう方なのか、その見方も違って来る。

わたしは聖書に書かれた、そのままを受取っていく読み方をしたいと思っている。

 

5000人以上の人が十分に食べたのは、人々が持っているものを出し合って、分け合ったのであれば、その後の下記のような人々の反応も考えられないことになる。

 

ヨハネ6:14,15
人々は、イエスのなさったしるしを見て、

「ほんとうに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました。

人々がきて、自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、イエスはただひとり、また山に退かれました。

 

ここで人々はなぜイエスを王として無理やりに連れて行こうとしたのだろうか。

イエスはなぜ、それを拒み、山へ退かれたのか。

 

パンと魚をお腹いっぱい食べた人たちはイエスのなさった驚くべき奇跡のみわざを目の当たりにして、「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」、つまり旧約時代から預言されてきたメシア・キリストではないかということになった。その方は王としてユダヤの国を支配する方だと彼らは信じていた。

 

食べ物の恨みは大きいと言われるが、ここでの話はその逆だ。

いつの時代も人間は食べ物による影響は少なからず強いものがある。

わたしの家内なども、結構何年も前のことなのに、あそこで何を食べたとか、かなり正確に覚えているのには驚くことがよくある。

 

イエスの弟子たちも、イエスが王となってユダヤの国を支配する時が来ることを期待していたのだ。お腹を満たされた群衆もこの人が王となってくれれば、食料問題は解決すると思ったのではないか。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるのである」と言われたイエスはパンのことをどうでもよいと思っておられたのではない。

 

上に立とうとする人は、国民一般からの支持を必要としているし、支持率が何パーセントなのかを気にしないことはないと思う。

しかしながら、イエスは自分を熱烈に支持してくれる人々の申し出を断り、ひとり山へ退かれた。

時は進んで、十字架につけられた時、イエスの頭上には「これはユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられていた。

 

イエスが王として支配される時は確かに来る。が、しかし、その前に十字架と復活の道を通らなければならなかった。イエスは自らそのことを事前に何度も予告しておられた。

人々も弟子たちもイエスの語られるみ言葉や驚くべき奇跡の御業を身近に見ていただけに、この点を理解し、受け入れることはなかなか出来なかったようだ。

(このブログは毎週、火曜日と金曜日に新しいものが加えられるようにします)

 

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「常識的な聖書解釈」

2018年09月21日 05時55分12秒 | 聖書の真理発見

前回の続き。

5つのパンと2匹の小さい魚をもった子どもがいる。

しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。

と弟子のアンデレは言った。

その言葉を聞いた後、イエスは言われた。

「人々を座らせなさい」

その場所には草が多かった。そこで男たちは座ったが、その数はおよそ5000人ほどだった。

 

5つのパンと2匹の魚が少年の手からアンデレの手に、そしてイエスの手に渡された。

イエスはそれを取り、父なる神に感謝を捧げられた。

 

「あっ、ぼくの持ってきたパンと魚がイエスさまの手の中にある」

少年はこの光景をどんな目で見ていただろうか。

主の大きな働きのために、自分の持っていた小さなものを、無心に差し出した少年がいた。

この少年は大人の弟子たちのように人の人数やお金のことなどの現実には弱かったかもしれないが、イエスにしっかりと期待と信頼の目を向けていた。

(現実に弱い人の方が信仰的だと言っているのではありません)

 

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげ、すわっている人々に分けて与えられた。

また、小さい魚も同じようにして、人々にほしいだけ与えられた。

 

5000人もの群衆であったので、もちろん、イエスひとりで配ったのではなく、弟子たちも手伝ったに違いない。不思議なことに、配っても配ってもパンも魚もなくならないのだ。

 

この聖書の箇所について、このような解釈をする人たちもいる。

イエスがパンと魚を配り始めると、群衆の中からも自分の持っているものを出し始めて、それがどんどん広がっていき、このように皆のお腹が一杯になった、という説明だ。

どう思いますか。

誰でも分かりやすい、納得しやすい説明ではある。

けれども、この説明だと、その後の話とつじつまが合わなくなる。

その後のお話の残りのところはこうだ。

 

ヨハネ6:12-13

 人々が十分食べたあと、イエスは弟子たちに言われました。

「余ったパン切れを、一つもむだにしないように集めなさい」

 彼らが集めてみると、大麦のパン5つから出てきたパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので12のかごがいっぱいになりました。(混合訳)

 

裂いて配ったパン切れの残りが12のかごに一杯になったのだから、これは信じられないような話だ。

この話を最後まで読んでみると、群衆の中からも皆が持っているものを出し合ってこうなったというのは、常識的には納得できても、聖書の解釈に無理があるようだ。

更に、こんな人里離れたところで、お腹いっぱい食べて満腹した人たちはその後、どういう反応をしたのかが、興味あるところである。

次回に続く。

(このブログは毎週、火曜日と金曜日に新しいものが加えられるようにします)

 

 

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「言いだしっぺは」

2018年09月18日 05時15分15秒 | 聖書の真理発見

イエスから相談をもちかけられた時、ピリポは大勢の群衆の人数、調達するパンの量などに目と思いを向け、そんなことを言い出した方イエスに目と思いを向けなかったのだ。

けれども、そうは言ったものの、何で急に大勢の群衆を前に、イエスさまはこんなことを言い出されたのかと、ピリポも思ったはずだ。

ピリポがけげんな顔をしてイエスさまの方を見ている様子が想像できるだろうか。

 

その時だ。

もうひとりの弟子、アンデレがこう言った。

「ここに大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っている少年がいます。

しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」

 

それまではピリポとイエスの会話だったのだが、そこに別の弟子が口をはさんできたのだ。

この場面を想像できるだろうか。

このアンデレはピリポとイエスの会話をそばで聞いていたようだ。

 

では、5つのパンと2匹の魚をもっていた少年のことは、アンデレにどうして分かったのだろうか。

わたしの勝手な想像はこうだ。

その少年も近くにいて、イエスとピリポの話しが聞こえていたのではないか。

それで自分の持っているパンと魚をそばにいたアンデレに差し出した。

最初、アンデレはその少年の申し出を断ったが、その子がなおも真面目な顔で言ってくるので、一応イエスに取り次ぐことになった。
というのはどうだろうか。

 

ということで、アンデレは

「ここに大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っている少年がいます。

しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」

と、自分としてはやや気の乗らない消極的な言い方になったのだ。

 

このアンデレも非常識な人間ではない。

大勢の群衆の人数に比べれば、ほとんど役に立たないと思われる5つのパンと2匹の魚。当然のことではあるが、このアンデレもまた、多い少ないの数を気にしていた。

「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言いだされたイエスご自身に目を向けることは後になっている。

 

ところが、

アンデレのその申し出にイエスは反応されたのだ。

イエスは言われた。

「人々を座らせなさい」

 

これから何かが始まるのだ。

お話の最初にかえって、5000人の人たちに食べさせるということは、群衆からの求めによるものではなかった。

また、弟子たちの方から、

「イエスさま、この群衆がお腹を空かしていて、かわいそうです。何か食べるものを与えることは出来ないでしょうか」と申し出たことでもない。

 

このアイデア、発想はイエスから出たことであった。

イエスさまが言いだしっぺなのだ。イエスさまが言いだされたことは、イエスさまが最後まで責任を取られる。

わたしやあなたが思いつき、言い出したことに、イエスさまが責任を取られるとは限らない。

 

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「目の向けどころ」

2018年09月14日 05時10分35秒 | 聖書の真理発見

前回の続き。

「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」

これは、5000人の群衆を前に、イエスがピリポを試して言われた言葉だった。

ご自分ではしようとしていることを知っておられたのに、イエスはなぜこんな言い方で、ピリポに相談されたのだろうか。

あまりにも非常識なことなので、相談されたピリポは何と答えてよいか分からなかったはずだ。

「イエスさま、それ本気で言っておられるのですか」と心の中で思ったかもしれない。

 

そうだ。イエスさまは本気だった。

ご自分がしようとしていることを知っておられたのだから。

それではなぜ、最初から

「わたしはこの5000人の人に食べさせようと思っている。

だれかわずかでもパンや魚をもっている人はいないか」

という言い方をされなかったのだろうか。

 

ピリポはどういうことで試されたのか。

ピリポという人は現実的な判断が出来る人だったようだ。

群衆をざっと見渡して、おそらくは200デナリのパンがあっても足りないでしょう、と即座に答えている。

その答えには、それだけのパンを一度に買える店があるはずはありません。それに、今すぐ、それだけのパンを買うだけのお金も手元にはありません。

という意味が込められていたと思われる。

はっきり言えば、あなたの言われていることはとうてい無理ですよ、と現実を分かっていない人に分からせようとしているようだ。

 

世の中には現実を分かっている人と分かっていない人がいる。

現実に強い人と現実のことをあまりしっかり考えられない人がいる。

家内とわたしの例で言えば、本人はどう思っているかは別として、家内は現実に強いところがあり、わたしは現実に弱いところがある。

 

弟子のピリポは200デナリのパンという数字をさっとはじき出している。

すごい。そういう面でさっと計算が出来る現実に強い人のようだ。

その弟子のピリポが試されたのだ。

他にも弟子たちがいたのに、イエスさまは現実に強いピリポに個人的に声をかけておられる。

これは、わたしの想像である。

イエスに相談をもちかけられた時、ピリポはごく自然に大勢の群衆の人数や調達するパンの量などに目と思いを向けたようだ。

この群衆にパンを食べさせよう、とそんなことを言い出したイエスに目と思いを向けなかったのだ。

 

次回に続く。

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