
「問題の根」
今日は多くの人が生きる指針となるようなものを求めているようです。
それを簡単に手に入れさえすれば、もっと楽な人生が生きられるという感じです。
その分、目に見えない「いのち」にも、目に見えない人間の不幸の問題の根といったところにも、
あまり関心を持てないのかもしれません。
主イエスを信じる人には、神の新しいいのちが与えられています。そのいのちを生きることを妨げているものは、
わたしの中の「古い人」「肉の人」でした。その問題の根について、もう少し、さらに突っ込んで学んでいきます。
え、まだ問題があるのですか。
そうです、まだ問題があるのです。
少し前の聖書のみ言葉の中に、「罪の奴隷」という言葉があったことを覚えていますか。
ローマ6:6 のみ言葉です。
罪が人を奴隷とするのです。つまり、人間は罪に縛られて、本来しようとすることができない、
自由を失った奴隷とされるというわけです。
聖書を読んでいて、「罪」という言葉がよく出てきますね。
この言葉の意味がハッキリしていないと、聖書は分からなくなります。
第1に、聖書の言う罪とは、ただ、法律上の犯罪のことだけではありません。
人を憎むこと、人を赦せない思い、妬むこと、怒りなどなども罪です。
第2に、聖書が罪という時、それは個々のそういう罪の行為、
また外に現れていない罪の思いのことだけを言っていません。
「わたしの内に宿っている罪」とパウロは言っています。
主を信じる人の内に聖霊が宿っている。主を信じる人の内にキリストが内住しておられる。
これは分かりますが、同じように罪も宿っているのです。
ローマ7:18-20
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。
なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、
わたしの内に宿っている罪である。(口語訳)
人の内に宿っている、その罪に力があり、その罪が人に大きな影響を与えます。
その罪の出所はどこでしょうか。アダムはただ罪を犯したというだけではありません。
その時、人の中に入って来たのが、この罪です。
その罪が人を死に追いやる力をもっています。
善をしたいという意志や願いはあっても、自分の願わない悪を行ってしまうのは、
うちに宿っている罪の力によるものです。
ここに聖書の教えている人間理解があります。
人間とはそういう者であるという理解です。
罪とは、嫌なものですね。
あたかも人格をもっているかのように、罪がそういう力をもって働くのです。
「しかるに、罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた」(ローマ7:8口語訳)
3つの動詞が出てきます。
罪は機会を捕らえます。
罪はわたしの内に働きます。
罪はむさぼりを起こさせます。
この罪の問題の解決はどこにあるのでしょうか。
これこそ、福音の神髄とも言えるテーマです。
最新の画像[もっと見る]
-
出版のお知らせ
5年前
-
「イエスのいのちが」
8年前
-
「神のいのちの表れ」(14)
8年前
-
「神のいのち」(27)
8年前
-
「神のいのち」(24)
8年前
-
「神のいのち」(22)
8年前
-
「神のいのち」(19)
8年前
-
「神のいのち」(12)
8年前
-
神のいのち(4)
8年前
-
神のいのちとは・・・(3)
8年前






※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます