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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

日本人元サッカー選手から見た「神を信仰する」海外選手(3)

2021年08月31日 05時30分44秒 | 資料紹介

 

中野遼太郎氏のスポーツコラム、前回の続きです。

 

外しても、外しても「俺に寄越せ」

 僕があるクラブで一緒にプレーしたブラジル人は、

どんなビッグチャンスでシュートを外しても、

それが僕のアシスト未遂だったとしても、決して、断じて、頑なに、

こちらに謝らず、まずは空を見上げて神様と対話をし、十字を切り、

それが終わると思い出したようにこちらを向いて、

ゴールを決めたのかと勘違いするほどのドヤ顔でグーサイン(+拍手)を

送ってくるのでした。

「いや、決めろよ」と毎回も思うのですが、僕が気づいたのは、

「だから毎回同じテンションでパスを要求できるのではないか?」

ということでした。

 おそらく、彼は場に裁かれていません。

つまり自己評価や自己記述が、ほとんど「自分と神様の間」で

行われるので、自信のボリュームは周囲から影響を受けず、

ミスによって大きく変動しません。

「俺に寄越せ」「俺が試合を決めてやる」という決意は、

調整せずとも常駐していて、その思考態度は(一見すると傲慢に映ることも

ありますが)「揺らぎのなさ」に繋がります。

外しても、外しても「俺に寄越せ」の温度が変動しないのです。

 もちろん、その後に本当に結果を出すかは個人の実力ですが、

結果を導くまでの内省の過程として、この「揺らがない」ことと

「信仰がある」ことには相関があるように思えてなりません。

 信仰する神様を持たない僕にとっては、彼らにとっての

「神様」がいるべき場所を埋めるのは、周囲の評価(と少しの自己記述)で

あり、それは時と場合によって大きく変動していきます。

ついさっきのナイスパスや、直近のミスが、周囲の評価を(空気に乗せて)

跳ね返ってきて、次の僕の精神状態を作り上げます。

周囲から影響を与えられること、奪えるものの範囲が、

信仰の不在分(適切な表現ではないかもしれないけれど)

大きく残されているのです。

 

メンタルの器が違う

 僕はヨーロッパ生活の長年の疑問として

「そもそも、この人たちは、なんでこんなに堂々としているんだろう?」

と思っていました。

自分でも「そもそも」な疑問だと思いますが、

まだ言葉を理解できなかった期間は余計に、強く怒鳴られても

萎縮しない振る舞いが「大人びて」見えることがあったのです。

 この「全然謝ったりしない」態度も代表的で、批判されても

へっちゃらだし、すぐにチームのルールを破るし、監督に楯突くし、

「これはつまりメンタルの器がちがう」と、感嘆したり

腹を立てたりしていました。

 けれどいつからか、宗教と信仰を持つことが、この、僕が感じるところの

「堂々としている」ことの一端にあるのではないかと考えるように

なりました。

意見をぶつけあうことは推奨されるけれど、自身の内的な部分に審判を

下すことは、神様にしかできない。

これは、討論において意見と人格を混ぜない(「誰が言ったか」と

「何を言ったか」を切り離して考える)習慣にも相関があるように思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その人の言ったことと、その人格を混ぜてしまうのは、

日本では普通のことです。

自分に対して、こちらと違った意見を言った人は、

しばしば「この人は自分のことを良く思っていない人だ」と

思ってしまうことです。

ですから、「もっとよく議論していく必要がある」という話を

よく聞きますが、日本では政治をはじめとして、いろいろな分野で

議論というものがなかなか難しいわけです。

そういう意味で、自分の内面的な部分を裁くのは、人ではなく、

神であるという信仰を持っている人は強いですね。

このスポーツ・コラムの著者が言うような海外の選手と似た人が

聖書にも出てきます。

「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、

なんら意に介しない。

いや、わたしは自分をさばくこともしない。

わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、

それで義とされているわけではない。

わたしをさばくかたは、主である」(1コリント4:3-4口語訳)

次回に続きます。

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日本人元サッカー選手から見た「神を信仰する」海外選手(2)

2021年08月27日 05時30分41秒 | 資料紹介

前回の続きです。

=========

僕たちの多くは“味方”に謝る

たとえば、決定的なシュートを外したとき、パスミスをしたとき。

 僕たち日本人の多くは「味方に謝る」ことを選択します。

そうした日本人選手の姿は、すぐに思い浮かぶ

のではないでしょうか(反対に外国籍選手が即座に謝っている姿は

想像がつきにくいのではないでしょうか)。

ほぼ無意識に、周囲に対して、自分の失敗であることを表明します

(小学生から社会人まで、試合中に「ごめん」とか「わりぃ」が

これほど頻回に往来するのは、日本サッカーの特徴的な光景の

ように思います)。

 ここで考えたいのは、この時に僕たちを裁いているのが

「場」である、という点です。

周囲に対して謝る、の周囲とは監督でありチームメイトですが、

実は日本人的な「場」を形成するのは個人ではなく「空気」です。

僕たちのミスを裁くのは、名前を持つ個人ではなく、

その総体である「場の空気」であることが多い。

対比して、一人の神を信仰する「一神教徒(キリスト教、

イスラム教、ユダヤ教)」の人たちを観察していると、

彼らは決定的なミスの直後でも、すぐに味方に謝ったり、

自分の失敗であることをすすんで表明したりはしません。

 では、どうするのか。

彼らはまず、神様と対話します。

キリスト教徒であれば、十字を切る。

自分の第一感情が向かうのは、周囲や、場ではありません。

もちろん空気でもありません。

そこにはまず、自分と神様がいて、他者が入る余地はありません

(僕自身が信仰を持つわけではないので正確な心象描写は

できませんが)。

 聖書でいう「最後の審判」に代表されるように、

彼らには「自分を裁くことができるのは神様だけ」という

前提があります。

空気はもちろん、チームメイトにも、監督にも、メディアにも、

本質的に自分を裁く権利はないのです。

起きたこと(この場合は決定的なミス)は「神様と自分」の

あいだで定義されていくものであって、周りにジャッジされる

ものではない。

赤の他人となれば尚更で、批判に対して異様に堂々として見える

その態度は、「お前に言われる筋合いは『本当に』ない

(本質的には自分を裁くことができるのは神しかいない)」

という思考と関係があるように思えます。

=========

・・・日本人の場合、裁くのは場の空気と彼は言っています。

それに対して、海外の選手は、裁くのは神だとはっきりしている、

というのです。

人はどう思うか、周りの目を気にするわたしたち日本人、

これはわたしにはよく分かります。

一方で、人を恐れず、神の裁き(ジャッジ)を意識しているという

海外の選手たち、これは本当に対照的ですね。

次回に続きます。

 

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日本人元サッカー選手から見た「神を信仰する」海外選手(1)

2021年08月24日 05時30分31秒 | 資料紹介

バイブルトークのグループに入っているある牧師から送られてきた

情報をここに紹介します。

日本人未信者のサッカー選手だった人が、自分の目から見た

海外選手の「神」を信じている人たちの姿を興味深く

紹介しています。

わたしはこれを読んで、神を信じている海外の選手と

日本人選手を比較しているところがとても面白いと思いました。

そして、わたしたちの信仰について考えさせるところもありました。

日本人クリスチャンとして皆さんはこの記事をどう思いますか。

少し長いですので、4回くらいに分けます。

「中野遼太郎スポーツコラムNumber Web」より

このコラムの著者、中野遼太郎氏は元サッカー選手でしたが、

現在は、ラトビアの一次リーグのあるチームのコーチをしている人です。

=========

なぜ「ミスしても味方に謝らない」のか…「神」と海外選手の

真の関係性とは

2020年シーズン、Jリーグベストイレブンの表彰式。

 日本人選手が軒並み「チームメイトとスタッフ」に感謝の意を

述べる中、オルンガ選手だけは、まず「神」に感謝を伝えて

いました。

 神に感謝――僕たちは、外国籍選手が神に感謝している姿や

言動を、すでに「サッカーでよく見る光景」の一部として受け入れ

ていて、そこに改めて違和感を持つ人は少ないのではない

でしょうか。

たとえばモハメド・サラーが得点後に地面に額をつける姿を

見ても「そういうゴールパフォーマンス」くらいの認識が

定着しているように思います。

けれど、サラーが祈りを捧げることと、(たとえば)日本人が

「かめはめ波」のゴールパフォーマンスをすることでは、

持つ意味合いが全く異なります(鳥山明さんが「神」かという

議論は他に譲ります)。

 

「神を信仰する」がサッカーに与える影響

 僕たちは普段、宗教とサッカーを切り離して考えています。

少なくとも、積極的に関連づけようとはしていません。

しかし、サッカーが西洋・南米を中心に発展してきたスポーツ

である以上、必然的に両者は、容易には切り離せないほど

深く結びついています。

 大多数の日本人は(僕自身も含めて)、特定の宗教信仰を

持ちません。

自分の宗教観、何をどれくらい信仰し、それがどう日常生活と

リンクしているのか、説明できる人は多くないはずです。

それが良いとか悪いとか、そんなことを述べるつもりは寸分も

ありません。

しかし僕が海外で生活を送ってきた中で、

例えば試合前に膝をつき、肩を震わせながら祈りを捧げる選手や、

眠る前に必ず聖書を読む同部屋の選手、

オフの日に教会の枯葉を掃きに行く選手たちを見てきて、

その挙動が一過性のパフォーマンスではないことは断言できます。

 

今回は、神を信仰する、ということが、サッカーに与える

影響について、少しだけ紐解いてみたいと思います。

毛嫌いしないで一読してみてください。

=========

・・・自分は特定の宗教、信仰をもたないと言っているこの人は、

今日の多くの日本人の代表とも言える人ですね。

この視点から、同じサッカーをしていて、神を信じている海外選手

の様子をとても興味をもって見ていることが分かります。

次回に続きます

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「み顔を隠すことなく」

2021年08月20日 05時30分20秒 | 詩篇より

 

詩篇22篇の続きです。

この22篇は本当に不思議な詩篇です。

22:22節にあるように、あなたやわたしも、その新約の光を受けて、

その主イエスを信じる「兄弟たち」、主イエスの兄弟とされた者です。

そしてまた、あなたやわたしも、この後の23節にある「ヤコブのすえ」で

あり、「イスラエルのもろもろのすえ」と言われている人たちの中に

入れられている者です。

そうわたしは信じています。

 

 22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。

ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。

イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。

 22:24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、

またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。

 

わたしたちは神を見ることはできません。感じることもできません。

ここに「み顔を隠すことなく」とあります。

また12節には「あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ・・・」と

ありました。

主の御名という言葉もよく出てきます。

誰々さんという人の名前はよく分かりますが、神の名前と言われても

よく分かりません。

神さまにも呼んでよい名前があるのでしょうか。

名は体を表すと言いますが、胸に名札を付けるのは、やはりその人を

知るうえで大切です。

また、聖書には、主の御顔を仰ぐという言葉がよく出てきます。

特別に霊的な人たちであっても、いつも神の御顔を見ていたとは思えません。

わたしたちは誰かのことを思い出す時、その人の顔を思い出します。

亡くなった両親の写真の顔を見て、わたしは両親を思い出します。

神の御顔は見えませんが、その顔を求めることはできます。

それはもちろん、写真で見るような顔ではありません。

お母さんが、赤ちゃんに「いないいないバー」をする時、

お母さんが両手で顔を隠すと、赤ちゃんは不安になりますが、

また、手を広げて笑顔を見せると、とても喜びます。

そんな経験、覚えていますか。

 

主とわたしたちの愛と信頼、人格的な関係も同じです。

主なる神は、今、わたしから顔を隠しておられるのか、それとも

しっかりこちらを見ておられるのか。

その顔は怒っているのか、その顔は柔和で慈しみに満ちているのか。

苦しみの中にある時、主はその御顔を隠しておられると思えることもあります。

次回に続きます。

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「新約の光で」

2021年08月17日 05時30分20秒 | 詩篇より

 

詩篇22篇の続きです。

 

22:19 しかし主よ、遠く離れないでください。

わが力よ、速く来てわたしをお助けください。

22:20 わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から

助け出してください。

22:21 わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から

救い出してください。(口語訳)

22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。

あなたは私に答えてくださいました。(新改訳2017)

 

口語訳、新共同訳にはないのですが、別の訳、新改訳2017や英語訳NKJV

には、この21節の後に、「あなたはわたしに答えてくださいました」という

言葉が入っています。

状況が何も変わっていない中で、ダビデは信仰によってそのように告白して

いるのでしょうか。

それとも、祈りが答えられたと言える何かの展開があったのか、

それははっきりしませんが、その後に続く22節からは、

まさに解放と勝利の讃美となっています。

そして、24節には、主が苦しむ者の叫びを聞かれたとあります。

 

 22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたを

ほめたたえるでしょう。

 

この22節の言葉に注目してください。

この言葉が、新約聖書ヘブル2:12に引用されています。

何と、この言葉はダビデではなく、イエスが言われた言葉として引用されて

います。

 

それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、

「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、

集会の中であなたを賛美します」と言い・・・(ヘブル2:11b,12 

新共同訳)

 

不思議ですね。これはどういうことでしょうか。

ダビデの詩篇の言葉ですが、新約聖書のクリスチャンたちは、

それをイエスの言葉として読んでいるのです。

単なるダビデの書いた詩篇として、終わりとしていないのです。

 

この詩篇22篇には、イエスの十字架の苦難の預言があり、

また、イエスの十字架上での叫びが記されており、

また、イエスの言われた言葉が一部引用されています。

そしてまた、主イエスご自身、この詩篇を読んでおられたようです。

もっと言えば、新約時代のクリスチャンたちは、新約の光、

主イエスの視点から旧約聖書の詩篇を読んでいるのです。

ですから、これは旧約聖書を単に旧約の時代の聖書として読んでいる人たち

とは、読み方がだいぶ違います。

 

わたしはヨハネ5:39,40の主イエスのみ言葉を絶えず心に留めるように

しています。

そこに聖書の読み方の秘訣があるからです。

聖書を、知識を得るため、聖書研究という仕方で学ぶこともできますが、

それとは、だいぶ違った聖書の読み方があることに、

わたしはある時から気づかされました。

 

そのヨハネ5章のイエスの言葉によれば、この聖書(旧約聖書のこと)は

イエスについて証をしているのです。

ところが、多くの人はいのちを得るためにイエスのもとに来ようとして

いません。

そうです。いのちを得るためではなく、知識を得るために聖書を読んでいて、

イエスのもとに来ようとしていない人たち人たちが多いのです。

確かに知識も必要ですが、人を生かすのは霊であり、命です。(ヨハネ6:63)

ですから、新約のクリスチャンたちは詩篇を読む場合も、

そこにイエスを求めて読んでいます。

いのちを得るとはどういうことかを知っていたからです。

次回に続きます。

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