中野遼太郎氏のスポーツコラム、前回の続きです。
外しても、外しても「俺に寄越せ」
僕があるクラブで一緒にプレーしたブラジル人は、
どんなビッグチャンスでシュートを外しても、
それが僕のアシスト未遂だったとしても、決して、断じて、頑なに、
こちらに謝らず、まずは空を見上げて神様と対話をし、十字を切り、
それが終わると思い出したようにこちらを向いて、
ゴールを決めたのかと勘違いするほどのドヤ顔でグーサイン(+拍手)を
送ってくるのでした。
「いや、決めろよ」と毎回も思うのですが、僕が気づいたのは、
「だから毎回同じテンションでパスを要求できるのではないか?」
ということでした。
おそらく、彼は場に裁かれていません。
つまり自己評価や自己記述が、ほとんど「自分と神様の間」で
行われるので、自信のボリュームは周囲から影響を受けず、
ミスによって大きく変動しません。
「俺に寄越せ」「俺が試合を決めてやる」という決意は、
調整せずとも常駐していて、その思考態度は(一見すると傲慢に映ることも
ありますが)「揺らぎのなさ」に繋がります。
外しても、外しても「俺に寄越せ」の温度が変動しないのです。
もちろん、その後に本当に結果を出すかは個人の実力ですが、
結果を導くまでの内省の過程として、この「揺らがない」ことと
「信仰がある」ことには相関があるように思えてなりません。
信仰する神様を持たない僕にとっては、彼らにとっての
「神様」がいるべき場所を埋めるのは、周囲の評価(と少しの自己記述)で
あり、それは時と場合によって大きく変動していきます。
ついさっきのナイスパスや、直近のミスが、周囲の評価を(空気に乗せて)
跳ね返ってきて、次の僕の精神状態を作り上げます。
周囲から影響を与えられること、奪えるものの範囲が、
信仰の不在分(適切な表現ではないかもしれないけれど)
大きく残されているのです。
メンタルの器が違う
僕はヨーロッパ生活の長年の疑問として
「そもそも、この人たちは、なんでこんなに堂々としているんだろう?」
と思っていました。
自分でも「そもそも」な疑問だと思いますが、
まだ言葉を理解できなかった期間は余計に、強く怒鳴られても
萎縮しない振る舞いが「大人びて」見えることがあったのです。
この「全然謝ったりしない」態度も代表的で、批判されても
へっちゃらだし、すぐにチームのルールを破るし、監督に楯突くし、
「これはつまりメンタルの器がちがう」と、感嘆したり
腹を立てたりしていました。
けれどいつからか、宗教と信仰を持つことが、この、僕が感じるところの
「堂々としている」ことの一端にあるのではないかと考えるように
なりました。
意見をぶつけあうことは推奨されるけれど、自身の内的な部分に審判を
下すことは、神様にしかできない。
これは、討論において意見と人格を混ぜない(「誰が言ったか」と
「何を言ったか」を切り離して考える)習慣にも相関があるように思います。
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その人の言ったことと、その人格を混ぜてしまうのは、
日本では普通のことです。
自分に対して、こちらと違った意見を言った人は、
しばしば「この人は自分のことを良く思っていない人だ」と
思ってしまうことです。
ですから、「もっとよく議論していく必要がある」という話を
よく聞きますが、日本では政治をはじめとして、いろいろな分野で
議論というものがなかなか難しいわけです。
そういう意味で、自分の内面的な部分を裁くのは、人ではなく、
神であるという信仰を持っている人は強いですね。
このスポーツ・コラムの著者が言うような海外の選手と似た人が
聖書にも出てきます。
「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、
なんら意に介しない。
いや、わたしは自分をさばくこともしない。
わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、
それで義とされているわけではない。
わたしをさばくかたは、主である」(1コリント4:3-4口語訳)
次回に続きます。





