goo blog サービス終了のお知らせ 

浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「いつも思っていなさい」

2017年10月30日 07時19分45秒 | 「神のいのちーシリーズ」

 クリスマスやイースターは年に一度のイベントして覚えられています。

それはそれで大切な行事でもあると思います。

記念行事というのは、過去に起こった出来事を思い起こすためのものです。

イースターとして年に一度、イエスが復活されたことを記念することはよいとしても、それは過去のことを思い出すための単なる記念行事となってはいけません。

聖書にはイエスの復活について別のことが言われています。

2テモテ2:8 
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさ
い。これがわたしの福音である。(口語訳)

 「いつも思っていなさい」と言われています。

年に1回のイースターだけのことではありません。

死人の中からよみがえられたイエス・キリストをいつも思うのです。

それは過去の出来事として記念されることで終わりません。

今も生きておられる方であり、今もいろいろな人たちに働きかけ、出会ってくださる方です。

その方は死人の中からよみがえられたのです。

ハレルヤ

わたしたちは復活を単なる事実として信じるだけではありません。

死から復活された方と今も出会い、力や励ましや知恵や導きを頂くのです。

この方が共におられる時、そこに平安があります。

自分に平安がある時、主イエスは今、わたしと共におられるのだと意識してよいのです。

ですから、いつもこの方のことを思っている必要があります。

どう思いますか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「肉の働き」

2017年10月27日 07時38分04秒 | 「神のいのちーシリーズ」

主イエスを信じている人たちは新しく生まれた人たちです。
新しく生まれた人たちのうちには神のいのちが与えられています。
生まれながらの人間には、本来ない神のいのちです。
このことを認めて、信じていますか。

ところが、時として、主イエスを信じていながら、自分は本当に救われているのかと疑問がわいてくる経験したことはありませんか。

わたしはありました。
新しく生まれたはずなのに、自分の情けない姿を見させられると、救いの確信がなくなったのです。
信仰を失ったのか、信仰が弱いのか、何が問題なのかが分からないまま、救いの確信もなくなっていったのだと思います。

 神のいのちから人を引き離すもの、それは肉の働きであり、それが問題であることにわたしは気づいてきました。

これは信仰のない人たちの問題ではなく、主イエスを信じている人たちの問題であることを見てきました。

 ガラテヤ5:16、17 
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。
そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。
こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、
することができないようになる。(口語訳)

 ここで注意してください。
このみ言葉は、「肉の欲を満たしてはいけません」とは言っていませんね。
そうではなく、何と命じられていますか。

御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない、と言われています。

どう思いますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「嫉妬」

2017年10月24日 07時28分37秒 | 「神のいのちーシリーズ」

 神のいのちの表れである御霊の実と対比して、肉の働きを見ています。

前回の肉の働きの中に、「そねみ」と「ねたみ」という言葉がありました。
覚えていますか。

「そねみ」は、漢字では「嫉み」です。
「ねたみ」は漢字では「妬み」です。
似たような言葉ですが、意味はどう違うのでしょうか。
辞書によれば、「そねみ」とは、人のことをうらやましく思い、自分に劣等感を抱くことだそうです。
また、「ねたみ」とは、人のことをうらやましく思い、相手に悪意を抱くことだそうです。
二つの言葉を合わせると、嫉妬(しっと)となります。

すごいことですね。
2000年前の聖書の時代の人たちは、どれだけ学歴があったか分かりませんが、これらの言葉の意味と、その違いを知っていたのです。
その言葉の違いを知っていたということは、人のことを「そねみ」「ねたむ」経験もしており、その経験を特定の言葉で表現していたわけです。

当時の宗教家たちがイエスを十字架につけようとしていたのは、「ねたみ」のためであったことを、裁判の席にいたローマの総督ピラトには分かっていました。

「そねみ」と「ねたみ」
あなたはこのどちらの経験がありますか。
わたしはですか。
どちらかと言えば、「そねみ」の方です。

 この肉の働きのことをよく知っていたので、パウロはイエス・キリストを信じているクリスチャンたちに対して、神のいのちから遠く離れてしまうことを警告しています。

エペソ4:17-19
そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。
あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。(口語訳)

これは2000前の聖書の時代の人たちだけの問題でしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「反対から見ると」

2017年10月21日 07時29分31秒 | 「神のいのちーシリーズ」

 神のいのちを意識することの大切さを学んできました。

また、反対側からこれを見ることもできます。
神のいのちではないものは何かということです。

神のいのちの表れとして、9つの御霊の実について見てきましたね。
覚えておられますか。
愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制でした。

それに対比するかのように、聖書にはその少し前に、「肉の働き」が記されています。

 ガラテヤ5:19‐21
肉の働きは明白である。
すなわち、不品行(姦淫)、汚れ(わいせつ)、好色、偶像礼拝、まじない(魔術)、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽(遊興、酒宴)、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。
このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。(口語訳)

 沢山出てきました。
日頃の生活の中で、自分の中に、この全部ではなくても、この中のいくつかの肉の思いが起こってくることがありますか。

わたしはあります。
いつもではないのですが、何かの時に起こってくる思いがあります。
ここに挙げられている一つや二つであっても、それは肉の思いですから、神のいのちとは全く違うものです。

このような思いを心にもった時、「ああ、今、わたしの中にある、この思いは肉の思いであって、神のいのちではない」と意識できますか。
そのように意識しないまま、それを普通のことだとしてほっておくこともできます。
その肉の思いを意識できれば、対処の仕方も分かりますね。

十字架です。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いはいのちと平安である。」(ローマ8:6)

次回に続きます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愛のうちにとどまる」

2017年10月18日 07時10分52秒 | 「神のいのちーシリーズ」

 神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている者。
誰のことですか。

主イエスを信じているあなたやわたしのことです。そ
の人たちに対して、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、と言われています。
これらは御霊の実とも言えます。
神のいのちが聖霊によって、信じる者に表される実です。

イエスは言われました。

ヨハネ15:5 
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。(口語訳)

ここで「つながる」とは、どういうことでしょうか。
新改訳では、「とどまる」とも訳されている箇所です。
英語の訳では、remainです。

その少し先には、「わたしの愛のうちにとどまりなさい」(9節)と言われています。
主イエスの愛のうちにとどまる人、その人は実を結びます。
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容の実を結びます。
そこに神のいのちが働いているからです。

いろいろな飾りが人の手でつけられた、いのちのないクリスマス・ツリーがどんなに素晴らしくても、りんごやミカンの実を沢山つけた、いのちある木とは大違いです。

当時のパリサイ人、律法学者と言われる宗教指導者たちは人目によく見られることを好み、一方で人をさばきの目で見ていました。

イエスはザアカイをさばきの目ではなく、赦しの目で見ていました。
イエスのうちにあったいのちは、人をそのような目で見るいのち、慈愛と寛容な心でした。
主イエスを信じ、神に愛されている人の内に、そのイエスのいのちがあります。
そのいのちをもっている人は、人を赦し、赦されることを経験する人たちです。

どう思いますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする