想像ではあるが、10か月以上もの間、祭司ザカリヤは口がきけなかった。
その間、あの聖所で御使いから言われた言葉を思いめぐらしていたと思われる。
その後、口が開かれ、聖霊に満たされ、預言を始めている。
どうしてそんなことがありましょうか、と言っていた彼がである。
わたしたちも主から語られたみ言葉を思いめぐらし、黙想することからどういう経験をするだろうか。
ルカ1:67-79のザカリヤの預言の言葉から学んでいる。
ここには「あわれみ」という言葉が何度か出てくる。
人から憐れんでもらうというのは、あまりよい感じがしない。
わたしは現役の時、自分の教会のことを「大津あわれみバプテスト教会です」と言っていたことがある。
今、この教会がこうあるのは主のあわれみによるのだと思っていたからである。
「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより・・・」とザカリヤは言っている。
イエスが来られることは、それ以前に旧約聖書に預言されていたことであった。
このザカリヤの預言の中のどの言葉からそのことが分かるだろうか。
「主はその御民を顧みて、贖いをなし、
救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」
ザカリヤの預言の中で、「救い」という言葉は何度出てくるか。それぞれ何から救われるのか。
「この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである」
「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」
「罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである」
この預言の中で、幼子ヨハネのことについてどういうことが言われているか。
聖所で現れた御使いガブリエルの言っていたことと共通する点はあるだろうか。
「彼は主のみまえに大いなる者となり」「みまえに先立って行き」と御使いは言っていた。
「主の御前を先立って行き」と、ザカリヤも幼子ヨハネのことを預言している。
・これまでの人生を振り返ってみて、これは自分に対する神の憐れみだったと思えることが何かあるだろうか。書き出してみませんか。





