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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「愛して離れない」

2020年09月29日 05時40分33秒 | 詩篇より

詩篇91:14~16

彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。

彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。

彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。

わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。

わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。(口語訳)

 

素晴らしい詩篇のみ言葉です。

メモしておいて、時々目に留めたいみ言葉です。

このみ言葉から判断して、主なる神とはどういう方でしょうか。

わたしやあなたに求めておられることが何かありますか。

わたしやあなたのために何をしてくださるのですか。

主はご自身を愛して離れない人のことを見ておられ、必要な助けを与えられる方です。

主の名を知り、主との信頼の関係を大切にしている人、その人をいろいろなことから守られる方です。

そのように主を愛し、主との関係をもっている人が、「主よ」と主を呼ぶ時、答えてくださる方です。

日々生きていくこの人生で直面するいろいろな悩みの時、共にいてくださる方です。

いるだけではなく、必要な助け、救いを与えてくださる方です。

長寿をもって満ちたらせ、主の救いとはどういうものであるかを示してくださる方です。

 

「主よ、あなたがこの詩篇で言われている方であることを信じ、受け入れます。

わたしはまたまだいい加減なところもありますが、

しかし、わたしなりにあなたを愛し、あなたから離れない者です。

この人生、いろいろなことがありますが、そのような中で、目には見えませんが、

あなたがこのようなわたしと共にいてくださり、必要な助けや救いを与えてくださることを本当に感謝します。

年々、年を取っていきます。いろいろと心細い思いをすることもあります。

が、その年の数だけ、あなたの救いがどういうものであるかを示してくださることを本当に感謝します」

 

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「65年前の今日」

2020年09月25日 05時05分09秒 | 資料紹介

 

実は、今日はわたしのバプテスマ記念日です。

1955年(昭和30年)のこの日、17歳の高校2年の時、北九州は小倉のシオン山教会で、

秋月牧師から洗礼を受けました。

今も覚えていることが二つあります。

一つは、当時は教会備え付けのバプテスマ用の服などなかった時代ですので、

わたしは家にあった簡単な着物風のものを身につけて、水に入りました。

その濡れた着物を家に帰って、庭の物干し竿に干している時、まぶしい太陽の日差しが目に入ったことを覚えています。

もう一つ覚えていることは、次の日の月曜日に学校に行った時、

クラスの皆がわたしの方を振り返って見るのではないかと思っていたのですが、

誰も振り返って見る人はいませんでした。

彼らの目から見れば、わたしは何も変わっていなかったからです。

その日から今日までの信仰の歩みの中では覚えていることは書ききれません。

わたしは信仰歴が長いか短いかで、その人の信仰をはかることはできないと思っていますが、

この長い年月、主の憐れみと守りと導きの中に置かれてきたことだけは確かだと思っています。

主にただ感謝です。

もう一つ、

昨日の朝、まだ目が覚めているか覚めていないかの時、不思議なことにある賛美がどこかから湧いてきました。

こんなことはめったにないことです。

最近歌ったことのない古い讃美歌の一曲でした。

ここに紹介させてください。

あめにたから つめるものは

  げにもさちなるかな

主にまかせし そのよろこび

  いかにしてかは述べん。

すくいぬしの いさおにより

  うれしき身となりぬ、

なやみおおき 世もさながら

  みくにのここちして。

主はわがうた わがよろこび、

  ただひとつのすくい、

いざや伝えん 世にあまねく

  このよきおとずれを。

 

心に湧いてきたのは、この3番だったと思いますが、この讃美歌の中で意味不明で分かりにくいところは、

近くにいる年配の方に教えてもらってください。

ハレルヤ

 

 

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「絶望的な祈り」

2020年09月18日 04時51分09秒 | 詩篇より

 

詩篇88篇は、信じられないような祈りです。

こんな祈りをしてもよいのかと思えるような祈りです。

この人は若い時からずっと苦しい人生を生きてきた人のようです。

しかし、それをただ思い返しているのではなく、今なお悲惨な苦しみの中におかれているようです。

その人が主に向かって祈っています。

祈れる状況ではない、苦しみの中でかろうじて生き続けている人なのに祈っています。

朝ごとに祈っているのです。

からだが病んでいるだけではなく、心も霊も絶望的な中にありながら、昼も夜も主のみ前に出て、祈っています。

どういう祈りかというと、自分の苦しみと悲惨な状況をそのまま祈っています。

なぜ、わたしの魂を突き放し、なぜ御顔を隠しておられるのですか、と祈っています。

すべての希望が断たれた中で、なお神に祈っています。

こんな状況に追い込まれたのはあなたです、と言い、

その神に「あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています」と祈っています。

最後は、親しい、愛する人たちも自分から遠く離され、親しくしているのは暗闇だけです、

という言葉で終わっています。

こんな絶望的な祈りがなぜ、この詩篇の中に入れられているのでしょうか。

これを読んで恵まれる人はいるでしょうか。

暗い気持ちにするだけの祈りの詩編です。

しかし、わずかに「あなたのいつくしみ」「あなたのまこと」という言葉が出てきます。

そうですね。

ここに主イエスの十字架上の祈りに通じるものがあります。

イエスは人の悲しく悲惨で絶望的な人生の現実をそのまま、その身に負われました。

聖書は単に人間を理想化していません。

人間のどうしようもない、救いようのない現実を見せています。

しかし、ただこの十字架と復活を通られたイエス・キリストによってだけ、

つまり神のいつくしみとまこと、真実によってだけ、救いの道があることを教えています。

どう思いますか。

 

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「わたしの出どころ」

2020年09月15日 06時07分26秒 | 詩篇より

詩篇87:1~7

 87:1 【コラの子の詩。賛歌。歌。】聖なる山に基を置き

 87:2 主がヤコブのすべての住まいにまさって愛されるシオンの城門よ。

 87:3 神の都よ、あなたの栄光について人々は語る。

 87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を、わたしを知る者の名と共に挙げよう。

見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをもこの都で生まれた、と書こう。

 87:5 シオンについて、人々は言うであろう、この人もかの人もこの都で生まれた、と。」

いと高き神御自身がこれを固く定められる。

 87:6 主は諸国の民を数え、書き記される、この都で生まれた者、と。

 87:7 歌う者も踊る者も共に言う「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。(新共同訳)

 

この個所に「聖なる山」「シオン」「神の都」

という言葉が出てきます。

そして更に「この都で生まれた」という言葉が3回も出てきます。

この地上で主が愛されるところがあったのです。

主の栄光が現わされるところがあったのです。

その都で生まれた者たちがいて、それもいろいろな国の中にいたのです。

そして、主はこのところを固く建てられます。

そして、歌を歌う者も踊る者も「わたしの源(泉)はすべてあなたの中にある」と言うのです。

この聖なる山、シオン、神の都とは何なのかお分かりですね。

詩篇の中には驚くことに、イエス・キリストを預言している箇所が少なくありません。

主イエスも詩篇からよく引用しておられ、この詩篇を読んでおられたようです。

このイエスこそ、地上にあって神に愛され、栄光が現わされたところであり、

そしてまた、そこで生まれる人たちがいたのです。

その生まれた人たちにはいろいろな国の人たちがいたのです。

この地上において神が住まわれたところ、その所から人々は湧き出る泉を知り、

喜び歌い、踊る人たちがいました。

その泉の水は、人の魂の渇きをいやし、うるおし、人を生かし元気にする水だからです。

すごいですね。

旧約の時代の詩篇の中にイエス・キリストがこのように預言的に啓示されているとは、すごいことだと思います。

どう思いますか。

 

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「天地創造」

2020年09月11日 04時01分34秒 | 詩篇より

詩 86:15

「しかし主よ、あなたはあわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに豊かな神でいらせられます」(口語訳)

「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる」(新共同訳)

But You, O Lord, are a God full of compassion, and gracious, Longsuffering and abundant in mercy and truth. (NKJV)

 

目に見えない神のことをどのように思っているか。どのようなイメージを持っているか。

それによって、その人の生き方、物の見方にも変わってくると思います。

この詩篇で、ダビデはこの神をどのような方と見ていますか。

少し前、「天地創造」の映画をテレビで観ましたが、観られた方も多いと思います。

天地の創造、アダムとエバ、ノアの洪水、バベルの塔、アブラハムがイサクを犠牲として捧げようとしたところまでの

壮大な映画でした。

しかし、わたしの見方かもしれませんが、全体として画面の印象は暗かったと思います。

もう一つは、神のイメージが厳しい裁きの神という印象が強かったように思います。

もし、ダビデがこのような映画を製作したとすると、神のイメージは全く変わり、もっと明るい映画となったかもしれません。

なぜなら、天地を創造されたこの神はあわれみ深く、怒るに遅く、愛と真実に満ちておられる方であるからです。

人間の罪深いイメージは暗く描かれるとしても、神のイメージは温かく、明るいイメージであってほしいと、

わたしは思いました。

 

しかしです。

愛と憐れみと真実をイメージした神、それは誰にも分かる自明のことではありません。

イエス・キリストを通して見ることのできる神ですから、主イエスを信じ信頼している人が分かる神なのです。

そして、「天地創造」の神をそのような神として描いた映画となれば、

それは一般向きの映画としては通用しないものとなるかもしれません。

どう思いますか。

 

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