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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「職場に神の国が来た」(後半)

2021年10月29日 05時26分53秒 | 資料紹介

 

前回の続きです。

大喜多先生は、神の国が職場に来た、と言っておられます。

このあかしを読むと、本当にそう思います。ハレルヤ

このような経緯に至った理由は何かについて、

第一に、放蕩していた人のリバイバル

第二に、変化がメッセージ

が前回でした。

 

第三に、教会の温かさ

私が言うのも何なのですが、私がいる教会の一つの特徴は温かさです。

その温かさに触れて、Aさん、Bさん、Cさんの心が開かれていった

と思います。

職場のチームリーダーであるCさんは十代の時、教会につまづき、

教会に対してかなり懐疑的な人となっていました。

しかし、誘われ仕方なく来て、そして教会の温かい雰囲気に触れ、

教会に対する否定的な思いが取り除かれました。

 

また、今回バプテスマを受けたAさんは、対人関係がとても苦手のようでした

が、教会の皆さんから温かく迎えられて、心が開かれていきました。

温かい雰囲気は教会のいのちと感じました。

 

第三に、セルグループの交わりと学び合い

私の教会に主に仕えることを願っている兄弟がいます。

Dさんと言います。

彼に奥さんとともにセルグループを立ち上げるように促がしました。

その結果、新しいセルグループが生まれ、

そこにB夫妻やAさんが加わりました。

Aさんが信仰を告白すると、B夫妻が最近受けたバプテスマの学びを

セルの中でAさんのためにするようになりました。

セルの中で新しいたましいを育てていくことができました。

導かれた者が今度は導く者になるという現場はAさんを励ましたと思います。

彼は自分のバプテスマ式の時に気にかけていた職場の同僚を誘うことと

なったのです。

Aさんはすでに会社の同僚を導く者とされているのです。

 

第四に、核となる人との学び、コーチング

私はB夫妻ととともにZoomで学びとコーチングをしています。

またDさんともZoomで学びとコーチングをしています。

この方たちはこの交わりと学びで学んだことを職場やセルに適用しています。

最近Bさんが職場に適用したこととして、下記のようなことがありました。

私は教会の在り方として「気の合った者たちが協力すると、足し算になる。

気の合わない者たちが協力すると、掛け算になる。」と伝えました。

 

Bさんはそのことを受け止め、気の合わない同僚と協力し、

掛け算にしようと決心しました。

その結果、Aさんに対する受け止めが変化しました。

その結果、Aさんの才能が発掘され、開花し始めたとのことでした。

会社で必要な人とされていったのです。

 

以前のAさんは何かあると感情が爆発してしまい、同僚たちは

腫れ物に触るように付き合っていたのこと。

しかし、今や彼の才能が職場で必要とされることとなりました。

 

このようなことが起きています。

神の国が職場に来たと感じます。

福音は職場のなかに確実に浸透していっていると感じています。

神様の御業を賛美致します。

・・・・・・・・・・・・・・・

日本の企業の中で、このような主の御業が表されていることは、

本当に驚きです。

この時代、この日本の社会においても、人を変えるものは何であるか、

とても分かりやすいあかしでした。

 

「主のみわざは偉大である。

すべてそのみわざを喜ぶ者によって尋ね窮められる。」(詩111:2 口語訳)

 

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 「職場に神の国が来た」

2021年10月26日 05時27分41秒 | 資料紹介

 

前回、今年の6月頃に「いのちの感染」と題して、

大喜多正洋牧師のあかしを紹介させていただきましたが、

覚えておられますか。

今回は、以下のような、その後、教会と職場に起こっている感動のあかしを

大喜多先生が送ってくださいました。

 

10月17日(日)、私が牧会している教会でバプテスマ式がありました。

バプテスマを受けたのは三十代前半の男性で、Aさんといいます。

この方のバプテスマ式では今まで見たことのない光景が広がりました。

というのは、この日彼の勤務している会社の同僚たちが礼拝に集い、

バプテスマを祝ったからです。Aさんを含め職場の五名が喜び合い、

記念写真を撮っている光景は感動的でした。

 

そのうちの一人は今回誘われて初めて礼拝に出席されました。

今やこの部署はセルグループのような雰囲気とのこと。

以前職場には神棚が置かれ、安全祈願祭が執り行われていたそうです。

勇気を奮って直訴し、本社はその直訴を受け入れ、

安全祈願祭が強制されることが無くなったとのこと。

神の国が職場に臨んだと言えます。

このような経緯に至った理由は一言で説明できないのですが、

いくつかの点を挙げることができると思います。

 

第一に、放蕩していた人のリバイバル

おととしB夫妻がゴスペルコンサートをきっかけに教会につながり、

夫が放蕩を悔い改めリバイバルされました。そして奥さんが信仰に

導かれました。

夫であるBさんは神の愛に打たれ、同僚を教会に誘うようになりました。

誘われた一人がBさんの上司である職場のチームリーダーCさんでした。

彼は子供の時にバプテスマを受けた人でしたが、教会につまずき、

Bさんと同じように放蕩をしていた人でした。

Bさんに熱心に誘われるのでついに重い腰を上げ奥さんと

礼拝に来るようになりました。

そして、Bさんに続いてリバイバルされたのです。

礼拝に定着し、そして、Cさんは奥さんに伝道するようになりました。

このように、放蕩をしていた人がリバイバルすることを通して、

福音が広がり始めるということを見ることとなりました。

 

第二に、変化がメッセージ

放蕩していたBさんが愛の人に生まれ変わったという変化は

強いメッセージとなり、いのちの感染となっていると感じます。

職場のチームリーダーのCさんは職場でよく怒鳴る人だったと聞きました。

その結果職場の雰囲気がとても悪かったとのこと。

しかしリバイバルされていくなかで彼が穏やかになり、

職場の雰囲気が変わったそうです。

 

今回バプテスマを受けたAさんや今回初めて礼拝に来てくれた方にとって、

この変化はとてもインパクトがあったようです。

そのAさんも信仰を持つようになってから穏やかになり、

職場では一体彼に何が起きたのかと問い合わせが来るとのことでした。

 

Cさんの奥さんも夫の変化に気づき、夫に対して心を開くようになって

いきました。

実は奥さんは占いにはまっていました。

しかし、夫の促がしとセルの方たちの背後の祈りで、占いから離れました。

ところが、スピリチュアルからはなかなか離れることができなかったのです。

Cさんの奥さんはスピリチュアルのインストラクターになろうとして、

試験を受けました。そして、不合格になりました。

かなりお金をつぎ込んでいたそうですが、不合格となり、

その瞬間にスピリチュアルに幻滅したそうです。

不思議な神様のお取り扱いでした。

 

後半は次回に続きます。

 

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「父の神の真実は」

2021年10月22日 05時30分31秒 | 詩篇より

詩篇26篇の続きです。

前回では、目に見えない自分の心や思いを主の前にもっていく

ダビデの祈りを学びました。

しかし、いつまでもそこに目を留めているだけでは

救いはありません。

ダビデは、その後、別のところへ目を向けています。

 

 26:3 あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、

わたしはあなたのまことによって歩みました。

 

「あなたのいつくしみ」と「あなたのまこと」という言葉が

出てきました。

「いつくしみ」とは、漢字では「慈しみ」ですが、恵み、愛、

憐れみに近い言葉ですね。

「まこと」とは、漢字では、真、誠ですが、嘘のない真実とも

言えます。

今の時代は、愛や恵みという価値あるものが見失われ、何がまこと、

真実であるかが分かりにくくなっていると思いませんか。

このような時代に生きているわたしたちは、どこに目を向けて、

この人生を生きていけばよいのでしょうか。

 

数年前のことです。山口県山口市に行った時、ビジネスホテルから

歩いてコンビニに朝食を買いに行くため、道を歩いていると、

正福寺というお寺の前に書かれていた言葉に目を留められたことを

思い出します。

「偽りの中に生きていると、本物が分からなくなる」という言葉でした。

(この話、前にもしましたね。年寄りは昔ばなし、同じ話をしたがる

のです)

ダビデは、祈りの中で、主のいつくしみ、主のまことに

目を向けています。

 

めぐみとまことに満ちていた方は誰でしたか。

そうですね。

主イエスでした。

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

わたしたちはその栄光を見た。

それは父のひとり子としての栄光であって、

めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:14口語訳)

 

ダビデは、自分は主のいつくしみを目の前に見て、

主のまことによって歩んだ、と言っています。

主イエスは、そのいつくしみ(恵み)とまことに満ちて

おられたのです。

ですから、神のいつくしみとまこととは、どういうものであるかは、

主イエスを見ると目に見えるように具体的に分かるのです。

わたしはバイブル・トークをグループでやっていく時、

そのことに気づかされてきました。

そういう視点で、福音書を読んでみると、

どういう経験をするでしょうか。

 

「父の神の真実は朝ごとに新しい」というさんびを知っていますか。

原曲の英語では、Great Is Thy Faithfulnessという賛美です。

 

 

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「わたしを裁いてください」

2021年10月19日 05時30分47秒 | 詩篇より

 

詩篇にだいぶ親しみを覚えてこられたでしょうか。

さっと読んでしまえば、それまでですが、よくよく読んでみると、

スゴイことが書かれていますね。

しかし、この詩篇のほとんどは主に対する祈りです。

詩や歌となっていますが、内容は祈りです。

ですから、ここからわたしたちも詩の書き方を学ぶのではなく、

祈りを学ぶことができます。

わたしは信仰歴も長く、祈りについては自信がある、

と思っている人がいるでしょうか。

 

詩篇26篇(口語訳)に入ります。

ダビデの歌

 26:1 主よ、わたしをさばいてください。

わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。

 

わたしは「主よ、わたしをさばいてください」と祈ることは

あまりありません。

なんだか、怖い感じですね。

わたしたちは自分のことを主に裁いてほしいと

思っているでしょうか。

この言葉はピンとこない感じがしませんか。

なぜかというと、多くの場合、わたしたちは自分で自分を裁いている

ことが多いからです。

真面目な人ほどそういう傾向があると思います。

 

自分で自分を裁く人は主に裁きを求めるでしょうか。

人を裁く傾向のある人は、また自分自身を裁いていることが

多いかもしれません。

自責の念とか、過ぎたことを後悔するというのも

ややそれに近いでしょう。

ある時、わたしはそのことに気づきました。

もっと言えば、自分を裁く人は、聖書のみ言葉の視点から言えば、

自分を神の座に置いていることになります。

サタンもまた、責め訴える霊です。

 

「主よ、わたしをさばいてください」と主に裁きを求める人は、

自責の念や後悔していることなど、すべて主の前に

もっていく人です。

一方、自分で自分を裁く人は、自分ひとりでそれを抱え込んで

後悔の思い、自責の念に縛られていく人です。

似ているようで、だいぶ道が違いますね。

 

26:2 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを

練りきよめてください。

 

他の訳では、「主よ、わたしを調べ、試み、はらわたと心を

火をもって試してください。」

自分の行いや口の言葉をもう少し改める必要があるというのは、

分かりやすいのですが、心と思いを清めてくださいと

ダビデは祈っています。

わたしたちは普通、自分は太っているとか、痩せているとか、

からだのことに気を取られることが多いのですが、

聖書のみ言葉は、人の目に見えない心や思いを問題とするのですね。

どう思いますか。

 

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「ひとりわびしく」

2021年10月15日 05時30分04秒 | 詩篇より

 

詩篇25篇の続きです。

 

16節では、ダビデは、なおも「ひとりわびしく苦しんでいる」ようです。

その辛い現実を何かによってまぎらわせ、忘れようとしていません。

そして不思議なことに、この苦しい思いから自由にされるために、

自分はどうすればよいのですか、と主に問うてはいません。

そのために、どういう努力をすべきなのかを主に聞いてはいません。

 

では、このような状況で、どういう対応をしているのでしょうか。

その苦しい現実をそのまま正直に主の前にもってきています。

そして、主がどういう方であるかを告白しています。

この点がスゴイと思いませんか。

これがダビデの祈りであり、信仰ですね。

以上のことを以下の25篇の終わりまでのところから確認してください。

 

 25:11 主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。

わたしの罪は大きいのです。

 25:12 主を恐れる人はだれか。

主はその選ぶべき道をその人に教えられる。

 25:13 彼はみずからさいわいに住まい、そのすえは地を継ぐであろう。

 25:14 主の親しみは主をおそれる者のためにあり、主はその契約を

彼らに知らせられる。

 25:15 わたしの目は常に主に向かっている。

主はわたしの足を網から取り出されるからである。

 25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。

わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。

 25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。

 25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪を

おゆるしください。

 25:19 わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもって、

わたしを憎んでいるかをごらんください。

 25:20 わたしの魂を守り、わたしをお助けください。

わたしをはずかしめないでください。

わたしはあなたに寄り頼んでいます。

 25:21 どうか、誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。

わたしはあなたを待ち望んでいます。

 25:22 神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。

 

このような「わびしい苦しみ」の中で、

主がどういう方であるとダビデは告白していますか。

このダビデの祈りから、主はあなたに何を語っておられますか。

 

 

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