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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「御国が来ますように」

2021年03月30日 05時27分12秒 | 詩篇より

 

詩篇9:7~10

しかし主はとこしえに、み位に座し、さばきのために、

みくらを設けられました。

主は正義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれます。

主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。

み名を知る者はあなたに寄り頼みます。

主よ、あなたを尋ね求める者を、あなたは捨てられたことがないからです。

(口語訳)

 

神の御座は裁きの御座です。

主はとこしえにその御座に着いておられ、世界を正しく治め、

公平な裁きをされるのです。

しかし、現実はどうでしょうか。

不正がはびこり、国々の指導者が勝手なことをしています。

絶えず、不安定な政治がなされ、事件の後には裁判が行われています。

国連でも裁ききれない国と国との争い、解決困難な様々な問題が

世界中の人たちを不安にしています。

 

けれども、このみ言葉によれば、主なる神はとこしえに裁きの御座に

着いておられるのであって、決して、今は開店休業の状態ではありません。

 

この詩篇9篇はダビデの祈りです。

これは神の国と神の義を求める信仰であり、祈りでもあります。

新約の光に照らして、主イエスのみ言葉によれば、そのように言えます。

このように神の国と神の義を求める人たちが必要です。

神の裁きがなされるためです。

神の国であっても王がひとりいるだけであれば、

それは神の国とは言えません。

王がいて、その国の民がいて、支配領域があってこそ神の国です。

目に見える現実がどうであれ、神などいるはずはないと思えるような

現実であっても、この神の主権と裁きが現わされる神の国を信じ、

それを求める人たち、つまり御国の民がいてこそ、王なる方の正しい裁きが

なされ、神の義が現されます。

ここに「御名を知る者」、「主に寄り頼む者」、「主を尋ね求める人」が

出てきますが、この人たちこそ御国の民と言える人たちです。

世界で不法がはびこり、何が善で何が悪なのか分からないような時代の中で、

マスメディアから聞かされる情報だけで何かを判断し、批判的な思い、

裁きの思いに心を支配されるのではなく、この現実の中でも、主に寄り頼み、

主を尋ね求める人たちです。

その神の国とその義とが現わされる時、この後の9篇10~19節の御業が

起こされるのではないでしょうか。

 

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「正当な判決」

2021年03月26日 05時30分33秒 | 詩篇より

 

詩篇9:4~6

9:4 あなたがわたしの正しい訴えを/助け守られたからです。

あなたはみくらに座して、正しいさばきをされました。

 9:5 あなたはもろもろの国民を責め、悪しき者を滅ぼし、

永久に彼らの名を消し去られました。

 9:6 敵は絶えはてて、とこしえに滅び、あなたが滅ぼされたもろもろの町は

その記憶さえ消えうせました。

 

ダビデは、現実に起こっていることを見て、それを神の裁きと見ています。

正しい裁きがなされたと見ています。

敵がいて、自分たちを苦しめる者たちがいます。

そこで主の裁きのことを言っています。

主が裁きの座に着いて、正しい裁きをしてくださると言っているのは、

自分が裁き、自分が何とかしなければという思いがない人、そういう人の言って

いる言葉です。

正しい裁きをする方にいっさいをゆだねる、これは信仰の大きな勇気を

必要とします。

自分の訴えが聞かれ、裁きがなされ、敵、悪しき者が滅ぼされるのです。

 

主なる神が公正な裁きをされる方であると言っているのは、当時、

今日のような裁判制度はなかったからでしょうか。

今日は、「不当判決」と言われることもあります。

現職の裁判官も神ではなく、人間が法廷で裁くのですから、

間違うこともあります。

ここで、この詩篇の著者ダビデは、主なる神の裁きを全面的に信頼し、

その神に訴えています。

自分が自分の判断で裁くのではなく、自分の中にある裁きの思いを

最高の裁判官である主に訴えているわけです。

このような祈りを今もしてもよいのでしょうか。

どう思いますか。

 

 

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「心をつくしての感謝」

2021年03月23日 05時37分02秒 | 詩篇より

 

詩篇9篇です。

この個所は節ごとに読んでいくと、回数が多くなりますが、今回はそうしてみます。

 

詩篇9:1~3

わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざを

ことごとく宣べ伝えます。

いと高き者よ、あなたによって、わたしは喜びかつ楽しみ、

あなたの名をほめ歌います。

わたしの敵は退くとき、つまずき倒れてあなたの前に滅びました。(口語訳)

 

いきなり主に感謝し、と言っています。

それもただ感謝するのではなく、「心をつくして」です。

それも皆と一緒にではなく、「わたしは・・・」と、ひとりで感謝するのです。

心からの感謝をすると言っているのですから、

それだけの何かがあったからでしょうか。

この9篇を最後まで読んでみると、著者の置かれている状況はどうも

感謝できる状況だけではなさそうです。

 

この後、「あなたのくすしきみわざ」と言っています。

「あなたの驚くべき御業」(別訳)です。

驚くような主のみわざというのは、そんなことがあるはずはない

と思っていたことが起こったからです。

それにしても、そのことが、どうして目に見えない主のみわざと

分かったのでしょうか。

たまたまそうなったのだ、と見る人もいたかもしれません。

しかし、ダビデは、それは主のみわざであり、

驚くようなみわざであると言っています。

これは普通にはそう見えなくても、ダビデが信仰の目で見ているからです。

それを人々に宣べ伝えると言っていますから、その使命が彼にはあったのです。

そこから主に感謝をささげるという心からの思いも起こされてきます。

そして、その感謝の思いは喜び、賛美へと変わっています。

 

これは新約のクリスチャンたちにも受け継がれている信仰の姿です。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられる

ことである」(Ⅰテサロニケ5:16~18口語訳)

 

よく知られた有名なみ言葉ですが、しかし、すべての事について感謝することは

忘れやすいことですね。

 

3節には、敵の敗北、滅びのことが言われています。

敵が敗北したから感謝しているのか、それとも敵の敗北の前に

感謝しているのか。

どちらでしょうか。

別訳では、3節のここは「滅び去るであろう」となっています。

 

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「創造主の視点から」

2021年03月19日 05時30分50秒 | 詩篇より

 

詩篇8篇の続きです。

 

詩篇8:3~6

わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て

思います。

人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、

人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。

ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、

これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。

(口語訳)

 

詩篇の時代の人たちが見ていた月や星、それは今日わたしたちが夜空に見る

月や星と違いはないはずです。

もっとも昔の方が視界もよく、星はもっと数多く、きれいに見えたと思います。

夜空に広がる美しい星空を見て、この人は思ったのです。

何をですか。

明日も天気かなぁ、と思ったのではありません。

人間とは何者なのかと思ったのです。

そう言われれば、分かるような気がします。

美しい星空を仰ぎながら、この大宇宙の中の一つの星である地球上に生きている

自分とは、人間とは…と思うと不思議な思いがします。

 

しかし、この詩篇の著者ダビデが思ったことは少し違います。

この天と月や星などの天体を創造された方が、自分たち人間のことを

心に留めてくださるとは、人間とは一体に何者なのかと思ったのです。

時代は大きく違っても、ダビデのこの思いはわたしたち現代人にも

共感できるものがあります。

そしてダビデは、更に月や星を創造された方が人を創造されたと言っています。

そして、更に同じ主によって創造された羊や牛などの動物、そして鳥、

魚などに目を向けています。

これは、主なる神⇒月、星 ⇒人間⇒ 動物、鳥、魚という順番です。

つまり、ダビデは、これらすべて目に見える被造物を、

目に見えない神の視点から見ているのです。

人の視点からではありません。

 

そして、最後の8篇9節に1節と同じ言葉が繰り返されています。

目に見える世界のすべてが、目に見えない主なる神の「御名」で

ひとくくりにされています。

これはスゴイ御名です。力強い御名です。

 

「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、

いかに尊いことでしょう」(詩篇8:9)

「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、

全地に満ちていることでしょう」(新共同訳)

 

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「主とはどういう方なのか」

2021年03月16日 05時30分16秒 | 詩篇より

 

詩篇8篇に入ります。

9節までの短いところです。

 

新共同訳で見ると、「御名」「御心」「御手」という言葉が出てきます。

8篇はこの3つの言葉でまとめられます。

言い換えると、主なる神がどういう方であり、どういう心をもっておられ、

その御手でどういうことをされたかということです。

そういう観点から読めば、分かりやすいと思いますが、どうですか。

 

はじめの1節と終わりの9節で「御名」についての同じ言葉が繰り返されて

います。

 

詩 8:1、9

主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

(口語訳)

 

主と言って、「われらの主」と言い換えています。

主を信じる者たちの信仰共同体「われら、わたしたち」を意識していますね。

 

「あなたの名」とあります。主の御名がいかにと尊いか、と言っていますが、

これは分かりにくいですね。

御名と言われていますが、それはどういう名前なのでしょうか。

それが分かりません。

 

「名は体を表す」と言われます。

名前はその人の人柄、性格やその人自身を表しています。

誰々さんという名前を聞いて、「あぁ、その人のこと、知っている」

と言うことがあります。

つまり、名前はただの名前ではなく、その人のすべて、

その人自身を表しています。

ということは、主なる神の御名は主がどういう方であるかを表している総称

とも言えます。

 

しかし、その主の御名はハッキリされていません。

「主」が名前なのか、どうなのか、と。

その辺で、このことは置いておきます。

分からないところは飛ばし、取りあえず分かるところを見ていくのが

わたしの聖書の読み方です。

 

主がどういう方であるかが、その後に記されています。

主の御心はどういう心なのか、そして主の御手のわざについて語ることは、

主がどういう方であるかを表しています。

 

「あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、

ほめたたえられています」詩篇8:1b、2

 

まだ何も分かっていないはずの乳飲み子、つまりお乳を飲んでいる赤ちゃんが

主の栄光をほめたたえています。

そんな赤ちゃん、見たことがありますか。

あっ、この子、主をほめたたえている、と。

 

これが本当であれば、主の御名、主の栄光をほめたたえるのは、

知識があるかないか、頭が良いか悪いかの問題ではありません。

 

にこにこ笑っている赤ちゃんに、「今、主をほめたたえているの?」と

聞くと、「うんうん」とうなずいてくれる、と。

もちろん、そういう答えは返ってこないと思います。

そういうことですね。主をほめたたえるとは。

 

主イエスさまも詩篇を読んでおられたようです。

実は、主がこの個所のこのみ言葉を引用しておられます。(マタイ21:16)

どういう時だったか覚えていますか。

 

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