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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「権威あるひと言」

2023年06月30日 05時30分32秒 | ヨハネ福音書より

 

 ヨハネ1:43-44

その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、

ピリポに出会って言われた、

「わたしに従ってきなさい」。

ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。

 

最初にイエスについて行ったヨハネのふたりの弟子たちは、

ヨハネを通してイエスに出会っています。

そのひとりアンデレを通してその兄弟ペテロがイエスに出会っています。

 

さて次に、ここでは、誰か人を介してではなく、

イエスに出会った人がいます。

ピリポですね。

イエスから直接声をかけられて、イエスに出会っています。

 

他にもあの迫害者だったサウロはダマスコへの道でイエスに声をかけられて、

直接出会っています。

 

誰か人を通してではなく、直接イエスに出会ったという人は、

今日もいると思います。

 

初対面のピリポに、イエスはお互いに自己紹介をすることもなく、

いきなり「わたしに従って来なさい」と言われました。

 

初対面の人にいきなりこんなことを言える人はいるでしょうか。

不親切で、自分勝手な呼びかけのように思えますが、もちろん、

わたしたち主イエスを信じている者にとっては、

そんな風に思うことはありません。

 

今日も主イエスはわたしたちに対して、説明もなく、理由も言わず、

そのような短い言葉で語られることがあります。

気を付けていないと、聞き逃すような短いひと言です。

「よかったら、わたしに従ってきませんか」ではなく、

「わたしに従ってきなさい」

何と権威ある言葉でしょうか。

これはお願いではなく、権威ある命令の言葉です。

一体この方は誰なのか、と思わせるような言葉です。

 

もちろん、イエスは誰かれと区別なく同じような言い方をしておられません。

相手を見て言っておられます。

そのイエスの権威ある呼びかけに応えて従って行く人は、

イエスを主と認め、自分はその主に従うしもべという関係に入ります。

イエスの側の短いひと言で、そういう関係をもつことになります。

何と不思議なことではありませんか。

 

しかし、自分の信仰の歩みを振り返って見ると、

わたしも頭や知識では何も分からないで、納得できたうえでもなく、

気が付けば、イエスに従う人生を歩んでいました。

あなたもわたしもこのようなイエスとの関係に入っている

お互いではないでしょうか。

どう思いますか。




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「3つの出会い」

2023年06月27日 05時30分49秒 | ヨハネ福音書より


ヨハネによる福音書から少しずつ、

イエスとはどういう方かを見て言っています。

 

ヨハネ1:35-42

ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、

シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、

「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。

そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。

イエスは彼に目をとめて言われた、

「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と

呼ぶことにする」。(口語訳)

 

イエスについて行ったバプテスマのヨハネの弟子、ふたりのうちのひとりは

アンデレでした。

ここには、「出会った」という言葉が2度出てきます。

ひとつは、アンデレが自分の兄弟ペテロに出会ったのです。

もうひとつは、アンデレが、自分たちはキリストに出会ったと言っています。

このような人と人との「出会い」から何かが起こっていくことは、

今の時代も同じです。

人生は出会いによって決まるとも言われます。

 

アンデレが自分の兄弟に、最初にあかししています。

そのあかしは、何か難しいことを話していませんね。

とてもシンプルなあかしです。

自分がイエスに出会った、そのことをひと言あかしすること、

それが伝道です。

 

その後、アンデレは兄弟シモン・ペテロをイエスのところに連れて

行きました。

そのシモン・ペテロもイエスに出会ったのです。

 

今日、どのようにすることが人をイエスのところへ

連れて行くことになりますか。

教会に連れて行くことも一つです。

しかし、そこは未信者にとってハードルが高く、

簡単には応じてくれない場合もあります。

 

今日、わたしたちの持っている聖書ほどイエスについての多くの情報を

提供しているものは、他にありません。

 

「この聖書はわたしについてあかししている」(ヨハネ5:39)と

イエスご自身も言っておられますが、

この聖書の中のイエスのところへ人を連れてくることもできます。

更にその人がイエスに出会うために、その場でその人のためにお祈りします。

 

日本人は、教会、キリスト教と言うと、やや引いてしまう人たちです。

しかし、聖書、キリスト教に馴染めない人も、

祈ることについてはそう抵抗がないのだということを、

ある時からわたしは知りました。

 

その後、未信者のペテロをじっと見られたイエスは、

何と初対面のペテロのことを知っておられました。

このキリストはわたしのことをなぜ知っているのだろうか、

という思いでペテロはイエスに出会っています。

 

イエスとの出会いはシンプルです。

特別な霊的なスゴイ体験とも言えません。

わたしやあなたもこの出会いを経験しました。

そのイエスは出会う前からわたしやあなたのことを知っておられました。

どう思いますか。

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「とどまる」

2023年06月23日 05時30分41秒 | ヨハネ福音書より

 

聖書には、短い所で、簡単に書かれているところが

少なくありません。

さっと読めば、ああそういう話かと読み過ごしていくような

ところです。

だからと言って、そういう短い、簡単なお話しには大した意味は

ないとは言えません。


長々と説明をしているところではなくても、

大切な霊的なメッセージがシンプルに語られていることが

少なくありません。

 

前回のヨハネ福音書1章の続きです。

 

1:39 イエスは彼らに言われた、

「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。

そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。

そして、その日はイエスのところに泊まった。

時は午後四時ごろであった。(口語訳)

 

バプテスマのヨハネの所から来たふたりは、

イエスがどこに泊まっておられるのかを知りたかったのです。

ふたりが知りたかったのは、何のためでしたか。

「ああ、イエスの泊まっておられる所はここなのか」と分かって、

その後、ふたりは帰って行ったのではありません。

何と彼らがそれを知りたかったのは、

イエスのおられるところに一緒に泊まるためでした。

そして、さらに不思議なことは、イエスはそのふたりのことを

迷惑な人たちだとも思われなかったようです。

 

ただ、それだけのことで、この話しは特別にドラマチックな、

霊的な体験と言えるものではありません。

午後4時頃の話だったとありますので、

これは本当にあった話ですね。

 

この時、イエスはふたりに何か素晴らしい教えやお話しを

しておられません。

ふたりの方からもイエスに何かの願いを求めたりしていません。

 

ここにシンプルな形で初対面のイエスとの出会いがあります。

出会った後、イエスのいるところに一緒におらせてもらっています。

イエスはそれを許しておられます。

お分かりですね。

そうです。

ふたりが経験していることは、

イエスと出会い、イエスのいる所におらせてもらえるという

特別な関係、つながりが出来たということです。

 

イエスのいるところにとどまる。

このことから思い出されるみ言葉があります。

 

ヨハネ15:5

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、

その人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

(新改訳2017)

 

イエスとのつながり、関係ができて、

イエスのうちにとどまる、その人は豊かに実を結びます。

知識ではなく、いのちが伝わり実という素晴らしい結果を

出すのです。

ただし、結果を出そうとしているからではありません。


イエスにとどまっているからです。

そのような、あなたやわたしとのつながり、

関係を主イエスはとても大切に思っておられます。

 

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「何を求めているのか」

2023年06月20日 05時30分46秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ1:37-38

そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、

イエスについて行った。

イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、

「何か願いがあるのか」。

彼らは言った、

「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。

イエスは彼らに言われた、

「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。

そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。

そして、その日はイエスのところに泊まった。

時は午後四時ごろであった。(口語訳)

 

この個所は短いところですが、

なぜ、福音書の著者ヨハネはこんな短い話を

記しているのでしょうか。

別に大した意味もないように思えるところです。

イエスとバプテスマのヨハネの弟子であったふたりとの

初対面の出会いですが、

このふたりの弟子は、師であったヨハネからイエスのことを

聞いていましたので、ある程度は知っていたはずです。

しかし、イエスはこのふたりとは全くの初対面です。

イエスは自分の後についてくるふたりを何か不審な男たちだ

とは思わなかったようです。

「なぜ、わたしの後についてくるのか」とは言われませんでした。

普通でしたら、こんな時、

ふたりのことを「あなたがたは誰ですか」と聞くと思います。

また、初めて会った人と話しをする場合、

自分の名前や住所、どんな仕事をしているかなどについて

自己紹介をします。

しかし、ヨハネの弟子たちはそんなことを言っていないし、

イエスの方もそんなことを聞いていません。

ヨハネから「見よ、神の子羊」とイエスのことを

紹介されたふたりは、ただイエスについて行きました。

 

イエスは、このふたりを前から知っておられるかのような

対応をしておられます。

イエスはこのふたりに何と言われましたか。

最初にどういう風に声をかけておられますか。

 

イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、

「何か願いがあるのか」(口語訳)

「あなたがたは何を求めているのですか」(新改訳2017)

と言われました。

 

「何を求めているのか」イエスに聞かれたとすれば、

あなたでしたら何と答えますか。

イエスに出会って、あなたが最初に求めることは何でしょうか。

主よ、わたしの願いを聞いてください、ですか。

主よ、わたしを守ってください、ですか。

わたしに必要な大切なことを教えてください、ですか。

 

そういう場合もあると思いますが、このふたりはこの時、

イエスに不思議なことを聞いています。

「どこにお泊りなのですか」

あなたがたは、なぜそんなことを知りたいのか、

とイエスは言われませんでした。

また、その向こうの、そこの角を曲がって20分ほど行ったところに

ある家だよ、とも言われませんでした。

 

イエスの教え方は独特です。

「わたしについてくれば、分かります」と簡単に答えられました。

よくよくこの言葉を思いめぐらしてみると、

不思議な言い方だと思いませんか。

 

イエスは簡単に、誰にでもすぐ分かるようには教えていません。

イエスの先にではなく、後についてくる人は分かるのです。

ヨハネのふたりの弟子はイエスの後について行きました。

今日、わたしたちがイエスの後について行くとすれば、

どうすることでしょうか。

今日、あの聖書の時代のように主イエスは目に見えません。

主イエスの後について行くと言われても、

どうすればよいのでしょうか。

 

先ず言えることがあります。

ヨハネの弟子であったこのふたりのように、

まず誰かにイエスについて知らされ、イエスの後について行く人は、

今日で言えば、イエスのことを(教えだけではなく)追及する人

です。

イエスについての情報は聖書以上に詳しいものはありません。

聖書の中に登場しているイエスとはどういう方か、どんな思い、

どんな考え、どんな生き方をしているかを追究する必要があります。

それは単なる学び、知識のためではありません。

イエスの後について行くためです。


「人の子イエスよ、君の御名を

 御使いたちの ほむるときに、

 めぐみにおい 愛にかおる

 み足のあとを 我はたどらん。」(讃美歌122の3番)

 

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「離れて行ったふたりの弟子」

2023年06月16日 05時30分53秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ1:35~37

その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、

イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、

「見よ、神の小羊」。

そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

(口語訳)

 

ヨハネ1章の35節からの後半ですが、

話題の中心がバプテスマのヨハネからイエスにと変わっています。

どういう仕方で変わっていったでしょうか。

 

ヨハネが、イエスが歩いているのを見て、「見よ、神の子羊」と

言ったことがきっかけで、

ヨハネのふたりの弟子が、イエスについて行ったところからです。

 

ヨハネが育ててきたふたりの弟子ですよ。

このふたりはヨハネから離れて、イエスについて行ったのです。

自分の弟子が自分から離れて、別の人について行くのをヨハネは

どう思ったでしょうか。

 

これまで師である自分を慕い、自分の教えを聞き、

自分に従ってきた弟子たちが離れて行ったのです。

自分が手塩をかけて育ててきた弟子たちであればあるほど、

引きとめて自分のそばに置いていたいと思うのが普通です。

人間的な目から見れば、これは辛く悲しい経験だと言えます。

ヨハネは人間的な思いに死んでいます。

もっと言えば、自分の国よりも神の国を優先しています。

ヨハネは自分の立ち位置、神からの使命、自分の役割を

ハッキリ知っていました。

また、誰よりもイエスのことを知っていました。

自分が育ててきた弟子たちがイエスの弟子となっていくことを

すんなりと認めています。

 

ここにも人の人情や思いを超えた聖霊の働きがあったと思われます。

 

あなたやわたしも最初は誰か身近で、目に見える人を慕い、

頼りとしていたのですが、

いつの間にかイエスを慕い、頼りとする弟子となっていった

と言えないでしょうか。

どう思いますか。

 

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