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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「助けてくださる方」

2024年08月30日 05時30分53秒 | ヨハネ福音書より

 

互いに愛し合い、互いに受け入れ合うとは素晴らしい教えです。

イエスはその弟子たちとの関係の大切さを

分かりやすく解説し、教えていません。

より良い人間関係を築くための4つのポイントを提供しているのでもありません。

 

自ら、弟子たちの前にひざまずいて、タオルを腰に巻き、

たらいに水を入れ、彼らの足を洗い、

そのタオルでひとりひとりのぬれた足を拭いていかれたのです。

 

人との関係の大切さを教えることはできても、

これは誰にでも出来そうで、そう簡単なことではありません。

 

実際のところ、十字架以前のイエスの弟子たちはそのことが出来ませんでした。

出来ないだけではなく、イエスを裏切り、その関係を切ったのです。

それはこの弟子たちが十分に教えられていなかったからでしょうか。

 

クリスチャンは互いに愛し合わなければならないのですが、

その教えだけで現実にわたしたち主イエスを信じる者たちは

互いに愛し合う関係を築いているでしょうか。

 

ところが、ところがです。

イエスがいなくなった後の弟子たちは、

互いに愛し合う愛の共同体を形成していきました。

あの弟子たちがそのように変えられていったのは、なぜでしょうか。

 

ご存じのように、その間にペンテコステの時の聖霊の働きがありました。

ペテロをはじめ弟子たちがあのように変えられていったのは、

彼らの心掛けが変わり、努力した結果からではなく、

聖霊の働きを受け入れたからでした。

 

「使徒の働き」の中では、

聖霊の働きによっていろいろな奇跡も起こっていますが、

互いに愛し合う愛の共同体もまた、聖霊の働きであったとわたしは信じています。

これは、人には出来ないことも神には出来ないことはない(マルコ10:27)、

そのみ言葉のあかしでもあります。

 

次のみ言葉を聞いたことがありますか。

2コリント13:13

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、

あなたがたすべてとともにありますように。(新改訳2017)

 

このみ言葉で何か思い出しませんか。

わたしは現役の牧師の時、長年、礼拝の終わりにこのみ言葉を祝祷として捧げていました。

ですから、おそらくどこの教会でも、礼拝に参加しておられる方々は

このみ言葉をよく知っておられるはずです。

 

ここで、3つ目の「聖霊の交わり」とはどういうことでしょうか。

キリストの恵みは、主イエスが与えてくださる恵みです。

神の愛は、父なる神が与えてくださる愛です。

そこから判断すると、

聖霊の交わりとは、聖霊が与えてくださる交わりです。

人の努力だけではなく、教えを実行するだけではなく、

わたしたちが経験する、時として難しい人との関係や交わりも

聖霊によって与えられるものです。

そうなんですね。

イエス・キリストもいつまでも変わらない方ですが、

聖霊も初代教会以来、今現在も変わらない方です。

 

この聖霊さまを認めますか。

頼りにしておられますか。

今、スマホを置いて、人との難しい関係について祈って、

「助け主」なるこの聖霊さまの助けを求めませんか。

 

ローマ 8:26

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、

御霊ご自身が、

ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。(新改訳2017)

 

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「愛の共同体」

2024年08月27日 05時30分37秒 | ヨハネ福音書より

 

今日、日本の社会では、

知識や技術の面での目覚ましい発展を見ることはできますが、

家庭で、学校で、職場でも人間関係で悩んでいる人たちは少なくありません。

様々な犯罪、いじめや自殺などの不幸な事件の多くは、

子どもの頃から受けた傷、痛みからくるもの、

人間関係からくるものであるとも言えます。

この人間関係とはある意味、面倒くさいもの、

先送りにしておきたいことであっても、

しかし、これは人間の本質的な問題です。

では、この問題の答えはどこにあるのでしょうか。

 

ヨハネ13章に出てくる話の続きをしています。

イエスが弟子たちの足を洗った理由は、

弟子たちを最後まで愛し通されたことでした。

もう一つの理由は、弟子たちとの関係が切れてしまわないためでした。

「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、

あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と、

ペテロに言われました。

ここから想像できることがあります。

イエスはこの時、

ペテロが自分を三度も知らないと言う時が

来ることを知っておられました。

ペテロ本人はもちろん、

そんなことはまったく予想もしていませんでした。

そしてまた、ペテロ以外の他の弟子たちも、

自分たちはイエスとは関係ないと意思表示する時が本当に来たのです。

事が起こる前に、イエスはそのことを知っておられた上で、

弟子たちひとりひとりの足を洗ったのでした。

ということはどういうことでしょうか。

 

捕らえられ、十字架への道を行くことになるイエスとの関係を

弟子たちは切ることになりますが、

イエスは彼らとの関係を切ることはしないということです。

 

相手が裏切り関係を切ったとしても、

こちらはその人との変わらない関係を持ち続けるということは、

普通の人にも可能でしょうか。

 

変な意味では可能ですね。

たとえば、ストーカー行為のように、

相手は関係を切り逃げて姿を隠していても、

諦めずに執拗に追い回し、自分勝手な歪んだ願望によって

その関係を切ろうとしない人たちがいます。

 

もちろん、イエスの場合はこれとは全く違いますね。

相手の弟子たちが関係を切ることを先に分かっていながら、

その弟子たちに対して恨みがましいことを何一つ言っていません。

だから、この福音書の著者ヨハネは、

イエスが弟子たちの足を洗われたこの行為は、

最後の最後まで弟子たちのことを愛し通されたことのあかしとして見ています。

ヨハネはイエスが足を洗われたその行動だけではなく、

その行動に現わされたイエスの心を見ています。

 

ということで、イエスとはどういう方でしょうか。

ひと言で簡単には言い切れないものがここにあります。

 

「キリストは、神の御姿であられるのに、

神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、

死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」

(ピリピ人への手紙2章6~8節 新改訳2017)

 

そしてそのイエスの模範に従って、

弟子たちも互いに足を洗い合うことが勧められています。

それは互いに仕え合うことであり、弟子たち同士、

何があってもお互いに赦し合い、受け入れ合い、

愛と信頼の関係を持ち続けるためでした。

そして、イエスがいなくなった後、

実際にエルサレムから始まった初代教会は、

キリストを中心とする愛の共同体であったのです。

次回に続きます。

 

 

 

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「イエスとはどういう方か」

2024年08月23日 05時30分17秒 | ヨハネ福音書より

 

弟子たちの足をひとりひとり黙って洗われたこの話から、

イエスとはどういう方でしょうか。

イエスがどういう方であるかを求めていくことは、

今のわたしたちの信仰とも無関係ではありません。

 

3年間、手塩にかけて育てた弟子たちのひとりが、

自分を裏切って去っていくことになると、

イエスはこの時、分かっていたのです。

ですが、それは師としての自分に足りないところがあり、

弟子の育て方が悪かったからだという自責の念をもってはおられません。

自分はそんな弟子を育てたつもりはないし、

自分を裏切るような男であれば、

もう二度と顔も見たくない、

とイエスがそのような反応をするのであれば、

これは誰にも分かりやすい話です。

 

ところが、イエスがここで何も言わず説明もせず、

ユダを含めた弟子たちひとりひとりの足を洗っているのは

何とも理解し難いことです。

 

「足を洗って出直す」という言い方が日本にもありますが、

これは自分で自分の足を洗うのであって、

人から洗ってもらうのではありません。

心機一転するような場合の言い方ですね。

 

聖書のこの時代、足を洗うのは、奴隷、しもべのすることでした。

当時は舗装もしていない道路で、

靴下もなくサンダルのようなものを履いて歩いていたようです。

その足は汚れることが多く、主人の足をしもべが洗っていたと思われます。

 

イエスは、

弟子たちには分かっていないこの先のことが分かっていました。

その上で弟子たちの足を洗ったのですね。

そのイエスのしていることを弟子たちはその時は理解できなくても、

後で分かるようになるという確信が、イエスにはあったのです。

 

わたしたちの場合も、聖書の言葉もイエスのことも、

今は分からなくても後になれば分かるようになります。

霊的な真理が分かるということは、そういう場合が少なくありません。

 

この状況でイエスには、今現在のことしかわからず、

この先、何が起こるかを分からないでいる弟子たちに伝えたいことがあり、

そのために弟子たちひとりひとりの足を洗われました。

事前にそのことについて何の説明もせず、

主人の足を洗うしもべのように、

イエスがひざまずいて黙って弟子たちひとりひとりの足を洗ったのには、

二つの理由があったと思われます。

 

一つは、イエスは最後まで弟子たちを愛し通されたことです。

それはイエス自身が言っているのではなく、

この福音書を書いたヨハネが後で分かったこととして言っている言葉です。

最後までと言っていますが、弟子たちに裏切られても、

変わらない愛を持ち続けたイエスのことをヨハネは後で知ったのです。

それはちょうど勝手なことをして財産を使い果たして帰って来た

放蕩息子を喜んで迎えた、

あの父親の愛にも共通する愛ですね。

 

あなたやわたしの先のこと、

失敗や不信仰のことも分かっておられる上で、

なおも黙って愛を表してくださる、イエスとはそういう方です。

 

祈りのうちにこのイエスのことを思いめぐらす時をもちませんか。

もう一つの理由は次回に続きます。

 

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「思い出す2つの話」

2024年08月20日 05時30分31秒 | ヨハネ福音書より

 

イエスが過ぎ越しの食事の時に、

つまり最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗った話を見てきました。

ヨハネ13章に出てくる話でした。

 

足を洗うことについて思い出す話が2つあります。

バイブルトークのあるグループで聞いた話というか、あかしです。

ある兄弟が話してくれた証です。

 

彼は自分の両親やおばあちゃんの足を毎日洗ったそうです。

信じられますか。

その結果、何が起こったでしょうか。

この家族の皆さんがイエスさまを信じたそうです。

彼は、その話をあまり詳しくではなく、淡々と話してくれました。

わたしは家族によくそんなことを続けて出来たものだと感心しました。

その結果が素晴らしいですね。

 

もう一つの話ですが、これはわたしの体験したことです。

何年も前のことですが、

中国に行っていたある日本人宣教師に中国の地下教会に連れて行ってもらった時のことです。

目的は地下教会のクリスチャンたちに聖書を届けにいくことでしたが、

大津の教会から何人かの(5人だったか)兄弟姉妹と一緒に行きました。

 

そこは外国人は入ってはいけない地域だったことを後で知ったのですが、

ある集会に連れて行ってもらい、わたしが聖書の話をしました。

もちろん、その日本人宣教師の通訳によってでした。

 

前もって言われていたことがありました。

わたしのことを日本から来た者とか、

そういう個人的な話は一切してはいけないこと、

また、中国には沢山の方言があって、

集会で聞いている人はわたしが中国人で、

どこかの方言で話しているのだと思っている、と言われていました。

 

その集会の終わりではなく、わたしの聖書の話が終わるや否や、

わたしたち日本から来ていた全員が

すぐにその場を立ち去って宿舎となっていた家に戻ったのです。

集会後、残って集まっている人たちに挨拶したり、

交わることも全くできませんでした。

 

その日、それからしばらくしてからのこと、

夜になってひとりの人がわたしたちのいる所に尋ねて来られました。

その人は、わたしよりも年上で、背の低い小柄な方でしたが、

何百人もの家の教会のリーダーでした。

10年以上、自分の家に帰ることもできないと言われていた人でした。

 

その人がですよ。

たらいに水を汲んできて、わたしの足を洗うというのです。

突然でしたので、とても驚き、

そんな人に足を洗ってもらうなど、とんでもないと思いました。

ですから「わたしの足を決して洗わないでください」と

ハッキリ言ったペテロの気持ちはよく分かります。

 

わたしは、それをジェスチャーでその人に伝えました。

そして逆に、わたしの方があなたの足を洗わせて下さいと、

同じようにジェスチャーで主張しました。

ところが、彼も頑として後に引かないのです。

わたしはわたしでこんな迫害下にあって

主に仕えている主のしもべに足を洗ってもらうなど、

とてもできないことでしたので、断り続け、

わたしこそあなたの足を洗わせてくださいと主張し続けました。

 

結果、どうなったと思いますか。

結局、どちらも相手の足を洗うことなく、終わってしまったのです。

そのことを思い出すごとに、

わたしはとても残念なことをしたと今でも思っています。

 

足を洗わなければ、あなたとは何の関係もなくなる、

と言われたイエスの言葉を読むたびにです。


中国の地下教会のクリスチャンたちのことを思う時、

そこら辺のおじさんとも思えるような、

このへりくだったリーダーの人のことを思い出します。

と同時に、イエスが弟子たちの足を洗われた、

この話をもっとしっかり受けとっていたとすれば、

わたしのこの時の態度も違ってきたと思うのです。

 

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「関係がなくなる」

2024年08月16日 05時30分44秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ13章の続きです。

 

ヨハネ13:8(口語訳)

ペテロはイエスに言った、

「わたしの足を決して洗わないで下さい」。

イエスは彼に答えられた、

「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、

あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。


ここは大切なところですから、

前回の話をもう少し続けたいと思います。

どうしてイエスが弟子たちの足を洗わなければ、

イエスとの関係がなくなるのでしょうか。

 

多くの場合、弟子たちも、またわたしたちも、

過ぎ去った過去のことや今現在のことは分かっていますが、

人生これから先に何があるのか、何が起こるのかは分かっていません。

ところが、イエスのこの8節の言葉をよく見てみると、

イエスはこれから先のことを分かっておられるのです。

「わたしが足を洗わないなら、あなたと何の係わりもなくなる」

と言っておられるのは、これから先のことです。

 

イエスは、この先、弟子たちに何が起こるかを知っておられたのです。

わたしたちもイエスが弟子たちの足を洗われた、

その後、何が起こるかを知っています。

聖書の先の方を読んで知っているからですね。

しかし、当の弟子たちはその後、

自分たちに何か起こるかを知りませんでした。

 

イエスが捕らえられた後、

弟子たちは自分たちは関係ないかのように姿を消しました。

もっとハッキリしたのは、ペテロの場合です。

大祭司の中庭で「そんな人は知らない」と3度も言いましたね。

つまり、自分はイエスとは関係ないと繰り返し主張しているわけです。

 

イエスはこの先のことを知っておられたので、

「わたしがあなたがたの足を洗わなければ、

何の関係もなくなる」と言われたのです。

イエスさまは、すごいと思いませんか。

 

ご自分のことを知らないと言って、その関係を切り、ご自分を裏切る、

そのような弟子たちひとりひとりの足を洗われたのです。

ひとりひとりの足を洗い、手ぬぐいで拭いておられたイエスの

その時の心のうちはどんな思いだったのでしょうか。

 

このことはわたしたち今日の日本人クリスチャンたちにも

関係があるでしょうか。

はい、関係があると思います。

 

わたしたちがまだ生まれておらず、何も罪も犯していないとき、

その何千年も前にすでにイエスはわたしたちを赦すために

十字架で罪の償いをしてくださったのです。

先に起こることを承知の上でイエスが黙って弟子たちの足を洗われた、

その同じイエスがわたしたちの人生で先に起こることを承知の上で、

わたしやあなたを赦すために黙って十字架の苦しみを受け、

血を流してくださったのです。

弟子たちと同じように、わたしたちが頼んだからではありません。

 

その罪の償いによってわたしたちは赦され、

イエスを主と呼ぶ新しい関係をもつ者としていただきました。

その関係をとても大切に思っておられる主イエスに向かって、

わたしたちも「イエスさま」と祈ることができます。

 

今日、わたしたち日本人にとってとても難しい課題は何でしょうか。

わたしは人間関係の難しさだと思います。

今もなくならない、いじめの問題も、自殺の問題もそこから来ています。

その関係の回復こそ主の赦しからくる救いであり、

そこに福音の真理があります。

どう思いますか。

 

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