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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「なぜ、とどまったのか」

2024年04月30日 05時30分36秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ8章1-11節のお話の続きです。

「罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」

とイエスは言われました。

その後、人々は年寄りから初めて、

ひとりまたひとりとその場から離れて行き、

最後は、イエスとその女性ふたりだけになりました。

ここまでの話、覚えておられますね。

 

その時、イエスはその女性に、声をかけました。

「女よ、みんなはどこにいるか。

あなたを罰する者はなかったのか」。

女は言った、

「主よ、だれもございません」

 

彼女は、そう答えたのですが、

正しくは「あなた以外には誰もございません」

と答えるべきでした。

彼女はそう言っていません。

ということは、

そこにいるイエスは自分に石を投げることはしない

という確信があったのですね。

イエスは自分を罪に定めようとしておられない、

いや、赦そうとしておられる。

そう信じて、彼女はこのように答えた、

とわたしは思います。

 

「あなたを罰する者はなかったのか」

とイエスがわざわざ女に聞いておられます。

見れば分かることです。

わざわざそう聞かれた理由は、

彼女のこの信仰を求めておられたからです。

 

彼女のことでもう一つ気づかされることがあります。

(まだ、何かあるの?)

石を投げようとしていた人たちが、

その場からいなくなった時、

彼女もその場を立ち去ってもよかったのです。

パリサイ人たちから無理やりにこの場に連れてこられたのです。

一番この場にいたくなかったのは、

この人だと思います。

皆がその場から離れていくとき、

その人たちに紛れて、

自分もそこから姿を消してもよかったのです。

ところが、

彼女はその場から離れず、

そこにずっと留まっていました。

なぜでしょうか。

 

ふたりだけになった時、

「あなたを罰する者はなかったのか」

と聞かれたイエスは、

その場を去って行かない彼女のことも

しっかり見ておられたと思います。

 

彼女がその場を去って行けば、

元の彼女に戻るだけです。

問題を先送りにするだけです。

イエスのそばにいることは、

彼女にとって何かの希望があるように思えたからです。

その希望が何であるかは、

ハッキリしていなかったとしても、

彼女はこの時、イエスに出会っていたのです。

 

イエスに出会うなら、

人は罪が赦され、

新しい人生を生きる人となります。

どう思いますか。

 

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「さばきの目線を」

2024年04月26日 05時30分17秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ8章のお話の続きです。

宗教指導者たちがなおも問い続けるので、

イエスは身を起して、

「あなたがたの中で罪のない者が、

この女に石を投げつけるがよい」。

と、イエスは言われましたか。

ちょっと引っ掛ける質問です。

大切な言葉が、一つ抜けています。

分かりますね。

「まず」という言葉です。

「罪のない者が、

まずこの女に石を投げつけるがよい」

とイエスは言われました。

 

まず最初に石を投げるのは、

自分には罪がないと言える人です。

2番目、3番目は誰でもよいのです。

罪のない一番目の人が投げれば、

その後は誰でもどんどんその女性に石を

投げることができたのです。

 

ところがです。

驚いたことには、

年寄りから初めて、ひとり、またひとりと

次々に人々はその場から姿を消していきました。

そして、後に残されたのは、

イエスとその女性のふたりだけになりました。

 

それにしてもです。

なぜ、年寄りからはじめて、

人々はその場を離れて行ったのでしょうか。

 

わたしも年寄りのひとりですが、

若い人から見ると、

長生きをしている分、

それだけ罪が多いからではないか、と言う人もいます。

長く生きているので、

その分、若い人よりも罪が多い・・・

そうかもしれません。

 

以下はわたしの個人的な想像です。

年を取ると、若い時のように

自信をもって行け行けどんどんと

いうわけにはいかなくなります。

自分の弱さ、限界、そして罪深さにも

気づかされることが多くなるのかもしれません。

 

そういうことで、

「ワシはこの人に石を投げる資格はない」と

先に思ったのが、年寄りの方だったのです。

 

それで高齢者のその人が、

その場から離れていく姿を見ると、

他の若い人たちも自信が無くなって、

次々とその場を離れて行ったようです。

イエスとその女性にさばきの鋭い目線を

向けていた人たちが、

その目線を自分自身に向けた結果でした。

 

その時、イエスは後に残された女性に、

声をかけました。

「女よ、みんなはどこにいるか。

あなたを罰する者はなかったのか」。

女は言った、

「主よ、だれもございません」。

えっ、だれもいない?

誰もいない、と言っている

この女性の言葉は正しかったでしょうか。

どう思いますか。

 

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「問い詰める人たち」

2024年04月23日 05時30分37秒 | ヨハネ福音書より

 

イエスは多くの人に尊敬され、

慕われていました。

しかし、皆がみんなそうではなかったのです。

自分のことを嫌い、憎み、よい関係が

もてない人たちがいました。

イエスさまのような人にも、そのような難しい人たち、

敵意のある人たちがいたのですね。

 

前回のヨハネ8章1~11節の続きです。

「先生、

この女は姦淫の場でつかまえられました。

モーセは律法の中で、

こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、

あなたはどう思いますか」。

 

このように言ってきたパリサイ人、律法学者という

宗教指導者たちは、

一見、イエスを尊敬しているように思えます。

「先生」と呼んでいるからです。

 

しかし、

彼らの外面(そとづら)と内心は違っていました。

内心はイエスを訴える口実を得るため

という思惑があったのです。

 

この日は朝にもかかわらず、

イエスは集まってきた人たちに

座って話をしておられたのです。

この突然の横やりが入ったことで、話は中断し、

「先生、この女は・・・」と言ってきた人たちに

向き合わなければならなくなりました。

 

「しかし、イエスは身をかがめて、

指で地面に何か書いておられた」。

このイエスの様子を、

律法学者たちはどのように思ったでしょうか。

予告なしの、突然のことだったので、

返答に困り、下を向いて何かを書きながら、

時間稼ぎをしているのではないか、

と思ったかもしれません。

 

そのイエスの様子が、

いつまでも変わらないために、

この宗教指導者たちはイエスを更に激しく問い詰めたのです。

 

聖書には書かれていませんが、

この時、当の姦淫の現場で捕らえられ、

連れてこられた、この女性はどうしていたのでしょうか。

 

これはあくまでもわたしの想像です。

すぐにでも石が飛んでくるのではないかと

恐れていた彼女は、

何か不思議な思いをしていたのです。

責められ、訴えられるのは

問題のある自分のはずなのに、

なぜこの人がこんなにも激しく責められているのだろうか。

この人は気の毒だ、この人に申しわけない。

 

彼女はまったく訳が分からない状態にありました。

「人々がなおも問い続けるので、

イエスは身を起して彼らに言われた、

『あなたがたの中で罪のない者が、

まずこの女に石を投げつけるがよい』」。

イエスが身を起して、口にされたひと言です。

 

この女にそんなひどいことをしてはいけない、

と言っておらません。

しかし、モーセの律法どおりにしなさい、

とも言われませんでした。

 

これはよく考え抜かれた答えだと思いませんか。

この切迫した状況で、

多くの人たちが見ている前で、

イエスはどうしてこのような知恵ある言葉を

返すことができたのでしょうか。

どう思いますか。

 

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「あなたはどう思いますか」

2024年04月19日 05時30分00秒 | ヨハネ福音書より

 

前回までの十字架のこと、復活の話を終えて、

再び、ヨハネ福音書に戻り、

ヨハネ福音書8章1-11節の話に入ります。

 

あなたは人を裁きやすい方ですか。

わたしはその傾向があります。

それで気づいた時に、なるべくすぐに、

その自分が十字架で死んでいることを

認めるように心がけるようにしています。ガラテヤ2:19

すると、その思いから解放されます。

 

このヨハネ8章1節からのストーリーは、

人を裁くこと、赦すことについての

倫理道徳的な教えではなく、

イエスとはどういう方であるか、

そこから、とても分かりやすく裁くこと、

赦すことについての真理を教えています。

 

ヨハネ8:1-5

イエスはオリブ山に行かれた。

朝早くまた宮にはいられると、

人々が皆みもとに集まってきたので、

イエスはすわって彼らを教えておられた。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、

姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、

(皆の)中に立たせた上、イエスに言った、

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。

モーセは律法の中で、

こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、

あなたはどう思いますか」。(口語訳)

 

ここに2種類の人たちがいます。

イエスのお話を聞きたいと

朝早くから集まって来ていた人たちがいます。

もう一方で、

イエスのことを妬み、さばきの思いをもち、

何とかおとしめようとしていた人たちがいます。

 

わたしたちは、

イエスさまは素晴らしい方だと思っていますが、

当時の人たちの中には皆がみんなそうではなく、

イエスのことを面白くない、何とかやっつけたい、

憎たらしい奴だと思っていた人たちがいたのです。

 

ですから、この人たちの側から言えば、

イエスについての評価はまったく変わるのです。

「イエスについてどう思いますか」と

そのひとりに聞いたとすれば、

きっとひどい言葉が返ってきたと思います。

「われわれユダヤ人が昔から大切にしている

律法も決まり事も伝統も守らないけしからん奴だ」と。

 

その人たちの声の方が大きかったとすれば、

あっ、イエスとはやはり、

そういう人なのかと思う人たちも増えていきます。

 

今の時代もそういうことがあります。

ネットやユーチューブで、

あの人はひどい人だと声高に叫ぶ人がいると、

その人の声や言い分に耳を傾ける人たちは

少なくないと思います。

 

誰かについての良い評判と悪い評判の、

どちらに人は耳を傾けるでしょうか。

 

イエスの時代も律法学者とか、

パリサイ人と言った当時の宗教指導者、

有識者と言われる人たちが

声高に言う言葉に人は影響されないとは言えません。

 

その人たちが、

イエスが話をしているところへ

ひとりの女性を連れてきました。

姦淫の現場で捕まえた女性だというのですから、

この民の上に立ち指導的な立場にいる、

この人たちも結構、酷いことをしますね。

 

しかし、彼らからすれば、

それは自分たちの使命感からやっていることであり、

全く問題とは感じなかったと思われます。

 

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。

モーセは律法の中で、

こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、

あなたはどう思いますか」。

 

自分たちはモーセの律法に従って行動しているのだから、

これにはさすがのイエスも答えに窮するに違いない。

そこからイエスを訴える口実は

必ず得られるはずだという確信が、

彼らにはあったはずです。


この指導者たちからの鋭い問いを突き付けられて、

イエスはどう対応されたでしょうか。

次回に続きます。

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「姿を消された」

2024年04月16日 05時30分34秒 | イエスの復活

 

イエスのことで失望していたふたりの弟子たち。

そのふたりに寄り添って一緒に歩き始められた

復活のイエスの話の続きです。

この話から更に気づかされることがあります。

 

4月5日のところでも話しましたが、

どこまでもこのふたりとの会話の中で、

イエスご自身が主導権を取っておられます。

イエスが主導権を取られるところ、

そこで事が新しい展開を見せるのです。

 

ですから、今日も一日、

いろいろやることが多い中で、

あなたもわたしも先ずは、

主イエスに一日の主導権をお渡しすることから

始めたいものですね。

 

主は周りの状況に働かれる前に、

わたしやあなたの内側、

心や思いの領域に働きかけてくださると、

わたしは信じています。

あなたやわたしを愛しておられる主ご自身は、

わたしたちの日々の歩みのことについても、

関心をもっておられ、

お考えをもっておられるからです。

 

ヨハネ福音書24章の続きです。

24:30 そして彼らと食卓に着くと、

イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。

24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、

その姿は見えなくなった。

24:32 二人は話し合った。

「道々お話しくださる間、

私たちに聖書を説き明かしてくださる間、

私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 

ここでも、食卓について食事をするという

ごく普通の日常茶飯事のことですが、

ふたりから言われたのではなく、

イエスが主導権を取って、

自分からパンを取って神をほめたたえ、

それを裂いてふたりに与えておられます。

 

その時、そうです。その時です。

ふたりの目が開き、イエスだとやっと分かったのです。

「あっ、あなたはイエスさまですね」と分かった瞬間、

イエスの姿は見えなくなりました。

 

不思議ですね。

「やっと分かったのか。

では、ゆっくり一緒に食事をしよう。」とは

言われませんでした。

 

しかし、イエスが目の前から姿を消された後、

ふたりはまた失望の状態に戻ったのではありません。

心がまったく変わっています。

「道々お話しくださる間、

私たちに聖書を説き明かしてくださる間、

私たちの心は内で燃えていたではないか。」

心が内に燃えていたと言っています。

ひとりだけではなく、ふたりともそうだったのです。

少し前までは失望落胆していたその心が、です。

これは目が開かれて、

復活のイエスのことが分かる前のことですね。

聖書を解き明かされて、

心が内に燃えるという体験をしていた、そのふたりが、

その後で復活のイエスに気づいたのでした。

前からおられたイエスに気づいたのであって、

その時、イエスが現れたのではありません。

 

こじつけるわけではありませんが、

あなたやわたしも同じような経験はありませんか。

聖書のみ言葉を通して、何かの感動を覚える経験をします。

このふたりの弟子たちと似ているところは、

その感動を覚えながらも、

そばにおられるイエスに気づいていないということです。

逆に言えば、聖書からの何かの感動を経験するのは、

そばにおられるイエスに出会っているからではないでしょうか。


これは少し言いすぎだと思われますか。

聖書から何かの感動を経験するのは聖霊の働きです。

そして、その聖霊は人をイエスに導き、

出合わせてくださる方です。

 

イエスに出会ったと言っても、

そのイエスをあなたもわたしもいつまでも

自分のものとして握りしめていることは出来ません。


1ペテロ1:8、9

あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、

彼を愛している。

現在、見てはいないけれども、

信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。

それは、

信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(口語訳)

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