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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「これはいったいどういう人だ」

2018年11月30日 06時28分20秒 | 神の国とは

 エルサレムの神殿で「宮きよめ」をされたその日、イエスはどのようにしてエルサレムの町に入ってこられたか。
マタイ21章1節から始まるそのお話にこの「宮きよめ」の話が続いていて、ふたつは同じ日の出来事だったことが分かる。

このエルサレム入城と「宮きよめ」のふたつの話はつながっている。

これは意味がある。どんな意味があるのか。

敵との戦いに勝利した王が、堂々と凱旋して、自分の国に帰って来たというような場面を映画などで見ることがある。

白馬にまたがった王が大勢の従者を従えて威風堂々として帰って来たのを、沿道を埋めた大勢の群衆が歓呼の声を挙げて迎えている。

これは古代ローマ帝国においても、よく見られた光景であったかもしれない。

そのイメージと重ね合わせるかのように、イエスは子ロバに乗って、エルサレムに入城された。

その時、大勢の群衆が自分の服を道に敷いたり、木の枝を切ってきて、それを道に敷いたりした。
イエスがエルサレムに入られると、都中の人たちが「これはいったいどういう人だ」と言って騒ぎが起こった。

これは、マタイ21章の1節からの個所に記されているエルサレム入城の話だ。

弟子たちや人々が、イエスをそのように王として担ぎ上げたのだろうか。

イエスは言われるまま、それにのっていかれたのか。

このエルサレム入城はそもそも誰が言い出して始まったことであったか。

 マタイ21:1-11
さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。

弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、
「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。

イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、
「これは、いったい、どなただろう」と言った。

そこで群衆は、
「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。(口語訳)

次回に続く。

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「ふたつの国の衝突」

2018年11月27日 09時43分03秒 | 神の国とは

前回の話から、イエスがエルサレムの神殿の祭司長など権威ある人たちと対決しておられることが分かる。
どういう対決でしたか。

「お前は何の権威があってこんなことをするのか」と宗教指導者である偉い人たちに問い詰められ、イエスの権威のことが問題となった。

この権威こそ、神の国の王としての権威であり、イエスの対応が注目されるところでもある。
その問いに対してイエスは質問をして対応しておられる。

イエスの質問は、「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」という質問であった。この質問に答えるなら、わたしも何の権威でこんなこと(宮きよめ)をしているのかを言おうと言われた。


その時の祭司長たちの反応は、どうだったか。

「天からのものだ」と言えば、「では、なぜ彼を信じなかったのか」と言われるだろう。また、「人からのものだ」と言えば、群衆のことが怖い。群衆は皆、ヨハネのことを預言者と思っているから。

ということで、彼ら祭司長たちはイエスの質問に対して「分からない」と答えた。

それでイエスも「それなら、わたしも何の権威でこんなことをしたのかを言うまい」と言われ、この対決はあっけなく終わってしまった。

立場上、人を恐れていた祭司長たちと、その権威ある人たちを恐れていなかったイエスの対決であった。
祭司長たちは群衆のことを恐れていた。つまり人にどう思われるかを恐れていた。

人に認められてこそ自分たちの立場が守られるわけで、そのために人の目を恐れていた。

一方、自分の権威は人からではなく、天からのものと信じておられたイエスは、その祭司長たちのことも、また人にどう思われるかも恐れていなかった。

すごいですね。

祭司長たちとイエス。
この両者を比較せざるを得ない話であるが、聖書はこの両者を対比して話を展開している。

 さて、質問をする人と質問をされる人はどちらが主導権を取るのだろうか。

質問をされる人よりも、質問をする人の方がその場の主導権を取ることになる。

「それなら、何の権威によってこういうことをするのか、わたしも言うまい」とイエスが言われて、話は終わりになったが、最後はイエスが主導権を取っておられる。

こんな対応をされるイエスとはいったい誰なのかという問いが、この祭司長たちの心に残ってもよかった。ところが、このことから宗教指導者たちはイエスに対する反発と怒りを一層強めていくことになった。

神殿という権威ある場所のことを巡り、権威ある人たちに対して主導権を取り、ご自身の権威を表しておられるイエス。そのイエスの権威は人からではなく天からのものであったことが、かえって当時の権威ある人たちの怒りを買ったことになった。

ここにもイエスの神の国と宗教的な人の国の衝突を見ることになったのである。

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「乱暴な行動」

2018年11月23日 06時17分14秒 | 神の国とは

ある時、イエスは信じられないようなことをされた。
イエスは愛と柔和さをもったお方であった、そのイエスがこんな乱暴なことをするとは、どういうことか。気がおかしくなったのではないかとさえ疑いたくなる行動であった。
イエスがエルサレムの神殿でやった行動である。

マタ21:12-13 
それから、イエスは宮にはいられた。
そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。(口語訳)


その宮から商売人たちを皆、追い出し、両替人の台をひっくり返し、はとを売る者の座っている椅子をひっくり返されたのだから、これは相当乱暴な行為だった。
弟子たちに命じてやらせたのではなく、イエス自身がされたことであった。
この時のイエスはどんな顔をしておられたのだろうか。
普段のあの愛と柔和でへりくだった方、イエスはどこにいかれたのだろうか。


以前、若い頃のわたしはこの個所をこのように理解し、受け取っていた。

イエスは当時の社会体制や権力に対して、その不正を正しておられるのである。
だから、今日のわたしたちクリスチャンも今の時代の体制や権力が不正なことをしている場合、それに対して反対の意思表示をし、断固戦っていかなければならないのだ、と。

このイエスの行動から、そのように今の時代のやるべきことの動機づけをしていた。
どう思われるだろうか。

では、今のわたしはこの個所をどのように受け取っているのか。

 この「宮きよめ」のあったその翌日のこと。
イエスが宮の境内で教えておられるところへ祭司長や民の長老たちがやって来た。
そしてイエスに詰め寄ってきた。

「お前は何の権威でこんなことをするのか。誰がそんな権威をお前に与えたのか」と言ってきた。

祭司長や民の長老たちというのは、多分、この宮の権威ある人たちのようだ。
宮の境内で商売をしていた人たちを追い出したり、両替人の台や鳩を売る人たちの椅子をひっくり返したりしたのだから、こんなことをする人をほっておくわけにいかない。この宮の権威ある偉い人たちは黙っていなかった。

この人たちはただ、「お前は、なぜこんなことをするのか」と言ったのではない。
「何の権威でこんなことをするのか」と詰め寄って来たのだ。

さて、この時、イエスはこの人たちにどういう対応をされただろうか。
自分のやったことについて、その理由をハッキリと説明されただろうか。

それについてのイエスの応答はとても興味深い。普通の人にはとてもそんな言い方は出来ないと思う。

イエスは「何の権威で…」と問うてきた、その偉い人たちに対して、自分のやったことについて、しっかり説明する代わりに、逆に彼らに質問をしておられる。

つまり、質問に対して質問で返しておられるのだ。
この質問に答えてくれれば、自分も何の権威でこんなことをしたのかを答えよう、と言われた。
相手は宮の権威ある偉い人に対してである。
この祭司長や長老たちは、普通一般の人たちには、怖い存在の人たちだったと思われる。

その結果はどうなったかはご存知でしょう。

確認のために、マタイ21:23-27のところを読んでみてください。

次回に続く。

 

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「主の主、王の王」

2018年11月20日 11時53分30秒 | 神の国とは

ヘンデルの「メサイア」は有名だ。

その後半の盛り上がりのところを覚えていますか。

「King of kings  Lord of lords.......」
これは誰のことなのか。

聖書の中に出てくる「神の国」の国はcountryではなく、kingdomである。正確には神の王国の意味である。
その王国にはKing王がおられ、王がいない王国はない。
しかし、王国はどんな王国でも、王だけでは王国とはならない。
その王の支配する領域があるはずだ。
神の王国の領域は地理的な領域ではなく、神の民という領域である。
わたしたちイエスを信じる者は、神の子とされ、神の家族の一員とされているが、それだけではない。神の国の民ともされている。

 黙 1:6 
わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。(口語訳)

 王の王であり主の主である方、イエス・キリストは、その支配と権威を現わしていくうえで、御国の民を通してそれをされる。聖書の中に出てくるお話で、イエスが主導権を取られることが多い。それは王であることの表れでもある。

例えば、カペナウムの役人の息子が病気で死にそうになった時、父親のその役人はイエスのおられる所までやって来て、ぜひ自分のうちに来て息子をいやしてください、と頼んでいる。しかし、イエスはその父親の言う通りにはされなかった。そして、主導権を取られた。
「お帰りなさい。あなたの息子は助かるのだ」とみ言葉の権威をもって、遠く離れたところにいるその息子をいやされた。王なる方の御国の支配はそこまで広がったのである。

 また、カナの婚礼の場で、ぶどう酒がなくなった時の話もそうだ。
母マリヤがイエスのところへやって来た時、イエスは母に奇妙な言い方をされた。
「婦人よ、あなたがたはわたしと何の係わりがありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
イエスは母マリヤの訴えを冷たくあしらっておられる。
イエスの言われたこの言葉の意味はなかなか分かりにくい。その後、マリヤ自身はこの言葉の意味が分かったのだ。

だから、そこにいたしもべたちに「この方が言いつけることは何でもしてください」と言っている。そして、しもべたちがイエスの言われる言葉に、そのまま従った時、水がぶどう酒に変わったのだ。

ここでもイエスは、母マリヤの訴えであっても、そのまま動かれなかった。ご自分が主導権を取られ、ご自分の言うことに従う人たちによって驚くべき御業が現わされたのだ。

その命じられた言葉に権威があり、主導権を取られたのは、王としての権威であり、それに従う人たちがいて、神の国の御業が現わされたのであった。

このように、主の御国の民が主の言われることに聞き従う時、そこに神の国の主権と支配が現わされることが分かる。

その方が、主の主、王の王なる方だからである。

わたしたち主イエスを信じる者が、その言われるみ言葉を聞いて従うことの大切さ、その意味がお分かりになったと思う。

 

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「神の国の福音」

2018年11月16日 06時19分18秒 | 神の国とは

 あのパリサイ人ニコデモの話に帰ろう。

あちこちと話が飛んでいますが、ついて来ておられますか。

 

夜イエスのもとを訪ねて来たニコデモはイエスのことを、神から来られた教師だと評価していた。また、イエスの行っているしるしや奇跡は神が共におられるのでなければ、とても出来ないことだとも言っている。

ヨハネ 3:2 
この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。(口語訳)

そのパリサイ人ニコデモに向かって、イエスはいきなり神の国のことを話された。

話が食い違っていると思われるだろうか。

わたしはこう思う。

ニコデモは、イエスの行っているしるしや奇跡のことを話題にしている。それは神が共におられるからだと言った、そのことに対してのイエスの応答である。

イエスの行っているしるしや奇跡、それは神が共におられる以上に、イエスはこれを神の国の現れと見ていたのだが、ニコデモにはその神の国のことが見えていなかった。

 

ガリラヤでのイエスの宣教の開始は「悔い改めよ。神の国は近づいた」であった。
イエスの宣教の中心テーマは神の国だった。

水と霊とから生まれた人、その人は神の国に入り、神の国を体験する。

悔い改めて、イエスを信じる人は死んだ後、天国に入るという話とはまた別である。

神の国に入るのは、死んだ後ではなく、この地上で新しく生まれた人が入るのだ。
それは正に、神の国の福音である。

 ルカ4:42、43 
夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。
しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。(口語訳)

次回に続く。

 

 

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