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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「呼び出されたマリヤ」

2024年06月28日 05時30分33秒 | ヨハネ福音書より

 

すべての人は例外なく、必ず死んでいきます。

しかし、この死の問題について、

最新の科学も、医学も答えを出せないでいます。

ですから、あなたもわたしもやがて死んでいくのですよ、

とは誰にも言えない雰囲気があります。

とても気になっていても、高齢者の施設の中でも、

縁起でもない、と死ぬ話はあまりしません。

 

前回の続き、後半ヨハネ11章28節以降の話です。

 

ヨハネ11:28-31

マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、

「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」

と小声で言った。

これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、

イエスのもとに行った。

イエスはまだ村に、はいってこられず、

マルタがお迎えしたその場所におられた。

 

マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、

マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、

彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、

そのあとからついて行った。(口語訳)

 

イエスは、

死んだラザロの姉妹マルタとマリヤの村ベタニヤに

やって来られたのですが、

直接その悲しみのうちにあり、

遺族でもあるふたりの姉妹のいる家には行っておられません。

 

イエスに言われて、

マルタはマリヤに、耳打ちするように小声で、

「先生が呼んでいます」と言いました。

 

マルタはなぜ、小声で言ったのでしょうか。

ラザロが死んだ、その悲しみを共にするために

家に来ていた人たちに聞こえないようにという配慮からですね。

なぜ、マルタはそのような配慮をしたのかを、

どうぞ、想像してください。

 

イエスが呼んでいると言われて、

マリヤは家を出て、イエスのおられるところへ行きましたが、

そばにいた人たちは彼女がどこへ行くと思いましたか。

そうです。

マルタがマリヤに言った言葉は、

やはり聞こえていなかったので、

外に出て行くマリヤの姿を見て、

人々は彼女がラザロの墓に泣きに行くのだと思ったようです。

こんな時に外に出て行くのですから、そう思うのは普通です。

 

しかし、マリヤはお墓ではなく、

イエスの所へ行ったのです。

これは兄弟を亡くして悲しみのうちにある人の

普通の行動ではありません。

わたしたちクリスチャンには

別に不思議に思えることではありませんが、

そこに来ていた人たちには理解できない行動です。

 

まして、イエスが呼んでおられるなど、

もっと理解できないことです。

お分かりですね。

 

人の死という、この現実の中で、

イエスが主導権を取っておられます。

普通であれば、死が主導権を取る状況の中で、です。

 

人の死という現実は、すべてに優先されます。

遺族、親族は、この時だけは仕事を休み、

学校を休むことが認められます。

 

しかし、イエスは人の死の現実に振り回されていません。

ラザロが死んだことを知っておられても、

すぐに行動されませんでしたね。

ラザロの死という現実の中で、

イエスが主導権を取っておられるのが分かります。

いや、逆に遺族をご自分の思うように動かしておられます。

肉親の死という悲しみのただ中にある遺族を、

その場から呼び出して、ご自分の所へ来させておられます。

言い換えれば、死が主導権をとっている、

その現実からマリヤをご自分の主導権の中に招かれたのです。

 

こんなことをする人が他にいるでしょうか。

わたしたちはこの話の先を知っていますので、

不思議に思わないかもしれません。

しかし、この人たちはこの先、何が起こるのかを知りません。

どう思いますか。

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「恐れる人へのメッセージ」

2024年06月25日 05時30分59秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ11章1-27節(前半)のまとめです。

 

「わたしを信じる者は死んでも生きる。

生きていて、わたしを信じる者はいつまでも死なない。

あなたはこれを信じるか」(11:25,26)

と聞かれたイエスは、

この状況でマルタに信仰を求めておられます。

 

「わたしを信じる者は死んでも生きる」ということと、

「生きていてわたしを信じる者はいつまでも死なない」というのは、

同じことを言っているのではないでしょうか。

新改訳2017年訳では、26節は、

「生きていてわたしを信じる者はみな、

永遠に決して死ぬことがありません。」

と訳されています。

 

また、このヨハネ11:25,26は次のみ言葉からも解釈されます。

「また死人の復活については、

神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』

と書いてある。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」

(マタイ22:31,32)

 

墓からよみがえったラザロもやがてまた、死んでいます。

マルタもマリヤも死にました。今はいません。

しかし、主イエスを信じる者は死んで終わりではないのです。

今も生きています。

神は死んだ者の神ではなく、

生きている者の神ですから、

アブラハムの神、イサクの神と言われているのは、

過去に生きていた人の話ではなく、今の話です。

 

繰り返しになりますが、

11章25,26で言われたイエスの言葉に対して、

マルタは

「主よ、信じます。

あなたがこの世にきたるべきキリスト、

神の御子であると信じております」と答えています。

 

つまり、このマルタの言葉は、

死んで墓に葬られ、4日も経っているラザロが生き返るということは、

とても信じるとは言えないのですが、

イエスのことはどこまでも信じているという

マルタのギリギリの信仰告白ではないでしょうか。

 

ここで、イエスがマルタに求めておられる信仰とは、

イエスの言われる言葉を信じる信仰であって、

ただラザロが墓からよみがえることを信じる

ということではありません。

 

4日間も墓に葬られていたラザロがよみがえったのは、

ラザロ自身や姉妹たちのためでもあったのですが、

もっと大切なことは、

イエスの言われた言葉が真実であり、

信頼できる言葉であることの証明でした。

そして、それは更に神の栄光のためであり、

神の子イエスが栄光を受けるためでもあったのです。

 

もう一つこの話には、

弟子たちはイエスが殺されることを恐れているのと、

ラザロの死のことが重なって話題になっています。

弟子たちはイエスの死を恐れていましたし、

イエスが殺されることになれば、

自分たちはどうなるのかと不安だったのです。

 

イエスは弟子たちのその恐れを見抜いておられました。

死んでしまえばすべては終りと思っていた弟子たちにも、

イエスはご自分が「よみがえりであり、命である」ことを

知らせておられます。

ラザロの死とよみがえりの奇跡は、

その意味で、弟子たちのためでもあったのです。

 

とすれば、この話は、

死んでしまえばすべては終わりと思い、

死を恐れているすべての人へのメッセージでもあると言えます。

 

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「微妙な違い」

2024年06月21日 05時30分46秒 | ヨハネ福音書より

 

前回の続きです。

「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、

わたしの兄弟は死ななかったでしょう。

しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、

神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」

とマルタは言っています。

この「しかし」以降は、

マルタが、ラザロをよみがえらせてもらえる

という希望を示している言葉でしょうか。

マルタの以下の言葉から判断するとどうでしょうか。

 

ヨハネ福音書11章25-27節

イエスはマルタに言われた、

「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。

マルタは言った、

「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、

存じています」。

イエスは彼女に言われた、

「わたしはよみがえりであり、命である。

わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。

また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。

あなたはこれを信じるか」。

マルタはイエスに言った、

「主よ、信じます。

あなたがこの世にきたるべきキリスト、

神の御子であると信じております」。(口語訳)

 

あなたの兄弟はよみがえるであろう、

とイエスはハッキリ言っておられます。

しかし、マルタはそのことを

終わりの日のよみがえりと受け取っていますから、

墓に4日葬られているラザロが生き返る

とは信じていないようです。


それに対して、イエスはさらにハッキリ言われました。

「わたしはよみがえりであり、命である。

わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」

このイエスの言葉に注意してください。

イエスは、ラザロがよみがえることを

信じなさいとは言っていません。

よみがえりであり、命であるイエスを

信じることを求めておられます。

 

ここに微妙な違いがあります。

これはとても大切な違いだと、わたしは思います。

ラザロがよみがえることを信じる。

それと、ラザロをよみがえらせてくださるイエスを

信じることの違いです。

(同じことではないのですか?)

どう思いますか。

マルタはまた言っています。

「主よ、信じます。

あなたがこの世にきたるべきキリスト、

神の御子であると信じております」。

「主よ、信じます。

あなたは死んだラザロをよみがえらせてくださる方です」

とは言っていませんね。

 

過去にそういう経験があって、

今回もそのことをイエスがしてくださると信じる、

というではありません。

マルタはイエスを信じていることを告白しています。

しかし、死んで墓に葬られて4日も経っている兄弟ラザロを

よみがえらせてくださるイエスを信じていなかったのです。

何度も言います。

わたしたちは先のことを知っていますが、

この時点で、マルタは先に何が起こるのかを知りません。

その上で、彼女は精一杯自分がイエスを信じていることを

告白しています。

 

今日のわたしたちにも同じようなことはないでしょうか。

イエスを信じています。

しかし、自分が今直面しているこの困難な問題を

イエスが解決してくださるとは信じられない、

という場合です。

どう思いますか。

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「この時のイエスの態度は」

2024年06月18日 05時30分01秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書11章の続きです。

 

ラザロが病気だという知らせがあって、

その二日後にイエスはそこに出かけて行かれました。

ユダヤ人による、ご自分の身の危険のために

行くことを遅くされたのではなかったのです。

 

イエスは病気で死ぬかもしれないラザロのために、

そこに急いでおられる様子はありません。

そのことがよく分かりますね。

そのようなイエスの態度から何か分かることがありますか。

 

ヨハネ福音書11章17-22節

さて、イエスが行ってごらんになると、

ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。

ベタニヤはエルサレムに近く、

二十五丁(3キロ)ばかり離れたところにあった。

大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、

マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。

マルタはイエスがこられたと聞いて、

出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。

マルタはイエスに言った、

「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、

わたしの兄弟は死ななかったでしょう。

しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、

神はかなえて下さることを、

わたしは今でも存じています」。(口語訳)

 

病気であったラザロは死んで、

すでに墓に葬られて4日も経っていました。

手遅れもいいところですね。

 

ここでもまた、イエスの態度が普通ではないことに気づかれますか。

さっと読めば、スーと読んでしまうところです。

イエスは死んだ人ラザロの家に行っておられませんね。

逆に遺族でもあったマルタの方が家から出てきて、

イエスを迎えています。

「エー」と思いませんか。

(何が?)

誰かが亡くなれば、

その悲しみの中にある遺族の人たちに

お悔やみの言葉を言いに行くのが普通です。

もう既にその時、マルタとマリヤのふたりの遺族を

慰めるために大勢の人たちが家に来ていたのです。

イエスはその場に行こうとしておられません。

 

イエスはラザロの病気の知らせによっても動かされていません。

イエスはまた、ラザロが死んだことによって動かされていません。

マルタはすぐに立ってイエスの所へ出かけていますが、

マリヤの方は家に座ったままでした。

 

あなたやわたしは、この話の先を知っていますので、

イエスのこの時の態度を不思議だと思わないかもしれません。

 

さて、ここでイエスを迎えに行ったマルタの言葉です。

「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、

わたしの兄弟は死ななかったでしょう。

しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、

神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」

と言っています。

 

息を引き取る前に、イエスが来てくださっていれば、

ラザロは死なずにすんだと言っています。

言い換えれば、

もっと早くて来てほしかったです、ということですね。

 

マルタはその後、「しかし・・・」と続けています。

このしかし以降は、

マルタがラザロをよみがえらせてもらえる

という希望を示している言葉でしょうか。

それとも、別の意味でしょうか。

どう思いますか。

 

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「幼稚で物分かりの悪い人たちか」

2024年06月14日 05時30分26秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書11章のお話の続きです。

 

「わたしたちの友ラザロが眠っている。

わたしは彼を起しに行く」。

すると弟子たちは言った、

「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。

イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、

弟子たちは、

眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。

するとイエスは、

あからさまに彼らに言われた、

「ラザロは死んだのだ。

そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、

あなたがたのために喜ぶ。

それは、あなたがたが信じるようになるためである。

では、彼のところに行こう」。

するとデドモと呼ばれているトマスが、

仲間の弟子たちに言った、

「わたしたちも行って、

先生と一緒に死のうではないか」。(ヨハネ11:11-16)

 

この話は少しこっけいに思いませんか。

ラザロが死んだ話をしておられるイエスと

自分たちもイエスと一緒に死のうと言っている弟子たちです。

イエスのことと、

この話の先がどうなるかを知っているわたしたちから見ると、

「先生と一緒に死のうではないか」

と言っているこの弟子たちのことが笑えてきませんか。

イエスは人を生かす話をしているのに、

弟子たちは死ぬ決心をしています。

 

この弟子たちは幼稚で、

物分かりの悪い人たちだと思いますか。

わたしは思いません。

わたしと変わらない、ごく普通の人たちだと思います。

彼らは自分たちの以前の経験から、

これから起こるかもしれないことを

予想しているだけのことです。

そして、そのことで頭がいっぱいなので、

イエスの言っておられることが

しっかりと受け止められないのです。

 

あなたはそういうことがありませんか。

わたしはあります。

聖書を読んでいても、

今の現実や過去の出来事に心を奪われているために、

み言葉が入ってこないのです。

イエスさま、そのことはもういいです。

今わたしたちが困っているのは、

ユダヤ人たちが何をするかわからないという問題です。

本当に、それが問題でしょうか。

 

いいえ、

イエスとイエスの言われる言葉を信じようとせず、

自分たちの何かの経験からものを言っていること、

それが問題です。

 

わたしがなぜ、

このようにハッキリ言えるのかと言えば、

この問題はわたしの問題でもあるからです。

 

そういう意味で、わたしも以前は、

イエスの弟子たちは

幼稚でわからずやばかりだと思っていましたが、

今は自分と同じような人間だったのだと思うようになりました。

 

ということで、

人間の問題がハッキリすると、答えもハッキリしてきます。

答えとは何でしょうか。

 

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