すべての人は例外なく、必ず死んでいきます。
しかし、この死の問題について、
最新の科学も、医学も答えを出せないでいます。
ですから、あなたもわたしもやがて死んでいくのですよ、
とは誰にも言えない雰囲気があります。
とても気になっていても、高齢者の施設の中でも、
縁起でもない、と死ぬ話はあまりしません。
前回の続き、後半ヨハネ11章28節以降の話です。
ヨハネ11:28-31
マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、
「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」
と小声で言った。
これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、
イエスのもとに行った。
イエスはまだ村に、はいってこられず、
マルタがお迎えしたその場所におられた。
マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、
マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、
彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、
そのあとからついて行った。(口語訳)
イエスは、
死んだラザロの姉妹マルタとマリヤの村ベタニヤに
やって来られたのですが、
直接その悲しみのうちにあり、
遺族でもあるふたりの姉妹のいる家には行っておられません。
イエスに言われて、
マルタはマリヤに、耳打ちするように小声で、
「先生が呼んでいます」と言いました。
マルタはなぜ、小声で言ったのでしょうか。
ラザロが死んだ、その悲しみを共にするために
家に来ていた人たちに聞こえないようにという配慮からですね。
なぜ、マルタはそのような配慮をしたのかを、
どうぞ、想像してください。
イエスが呼んでいると言われて、
マリヤは家を出て、イエスのおられるところへ行きましたが、
そばにいた人たちは彼女がどこへ行くと思いましたか。
そうです。
マルタがマリヤに言った言葉は、
やはり聞こえていなかったので、
外に出て行くマリヤの姿を見て、
人々は彼女がラザロの墓に泣きに行くのだと思ったようです。
こんな時に外に出て行くのですから、そう思うのは普通です。
しかし、マリヤはお墓ではなく、
イエスの所へ行ったのです。
これは兄弟を亡くして悲しみのうちにある人の
普通の行動ではありません。
わたしたちクリスチャンには
別に不思議に思えることではありませんが、
そこに来ていた人たちには理解できない行動です。
まして、イエスが呼んでおられるなど、
もっと理解できないことです。
お分かりですね。
人の死という、この現実の中で、
イエスが主導権を取っておられます。
普通であれば、死が主導権を取る状況の中で、です。
人の死という現実は、すべてに優先されます。
遺族、親族は、この時だけは仕事を休み、
学校を休むことが認められます。
しかし、イエスは人の死の現実に振り回されていません。
ラザロが死んだことを知っておられても、
すぐに行動されませんでしたね。
ラザロの死という現実の中で、
イエスが主導権を取っておられるのが分かります。
いや、逆に遺族をご自分の思うように動かしておられます。
肉親の死という悲しみのただ中にある遺族を、
その場から呼び出して、ご自分の所へ来させておられます。
言い換えれば、死が主導権をとっている、
その現実からマリヤをご自分の主導権の中に招かれたのです。
こんなことをする人が他にいるでしょうか。
わたしたちはこの話の先を知っていますので、
不思議に思わないかもしれません。
しかし、この人たちはこの先、何が起こるのかを知りません。
どう思いますか。





