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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「ひとつの問いかけ」

2023年12月26日 05時30分02秒 | クリスマス・ストーリー

 

それにしても、あの東の国から来た博士たちは不思議ですね。

「何が? もうクリスマスは終わってますよ。」

ヨセフとマリアのもとで生まれた幼な子イエスのことを、

ユダヤ人の王が生まれたと言って遠くの国から多くの時間をかけ、

長い旅をしてわざわざベツレヘムまでやって来た

あの博士たちのことです。

その知らせを聞いて、エルサレムのユダヤ人たちは不安には

思っても、「じぁー自分たちも一緒に行こう」とは言わず、

誰も博士たちと一緒にベツレヘムへ出掛けていません。

 

ユダヤ人の王が生まれたのに肝心なユダヤ人が

誰も知らないのなら、これはまちがいだったのかなー、と

博士たちは思って考え込んだりしていませんね。

そんなユダヤ人のことなど無視して、星に導かれ

幼な子のいるところへたどり着いています。

そして、大喜びしています。

 

マタイ2:9-11

博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。

すると見よ。

かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、

ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、

ひれ伏して礼拝した。

そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(新改訳2017)

 

このクリスマスのストーリーを思いめぐらしていて、

今年、気づかされたことがあります。

 

この博士たちも不思議な人たちですが、もっと不思議なのは、

ヨセフとマリアを両親として生まれたその赤ちゃんが

神の子キリストであることを、父なる神さまは、

この東から来た博士たちを通してあかししていることです。

星を使って、名前も知らない東の国の博士たちを使って、

幼な子がユダヤ人の王、メシア、キリストであることを

示しておられます。

そのだいぶ前に、マリアには御使いを通して、ヨセフには

夢によって、その幼な子が救い主、キリストであることが

示されていましたね。

しかし、イエスの両親となったこのふたりが、

この幼な子は神の子キリストです、と

人に言ったとすればどうでしょうか。

親がそんなことを言って、誰が信じてくれるでしょうか。

「この親たちは自分たちに初めて生まれた男の子が、いくら

かわいいからと言って、何ということを・・・」

と思われるだけです。

 

名も知れない東から来た人たちが、自分たちに生まれた幼な子を

見て、その前にひざまずき礼拝している姿を見た時、

ふたりの親たちは何を思ったでしょうか。

 

ということで、博士たちが遠くからこのようにやって来たのは、

実はこのマリアとヨセフのふたりのためであったとも言えます。

それ以前にみ言葉で聞いていたことが、もう一度このような形で

再確認されたのです。

 

しかし、それだけではありません。

このようなクリスマスのストーリーを考え、星を用い、

博士たちを用いて、見た目には普通の赤ちゃんと

何ら変わらなかった幼な子イエスを神の子として

あかししておられる、この父なる神さまとは

いったいどういう方だと思いますか。

目には見えない、わたしやあなたが信じている神とは、

どういう方なのか。

そのことが、このクリスマスのストーリーからも

メッセージとして発信されていると思います。

クリスマスはもう終わったのですが、あなたやわたしへの

ひとつの問いかけです。

この問いには、一つの正しい答えがあるというわけではなく、

思いめぐらしていく時、聖霊が各自に教え、

気づかせて下さることだと思います。

 

 

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「居場所がなかった」

2022年12月20日 05時30分45秒 | クリスマス・ストーリー

 

今年も、クリスマスのシーズンに入っています。

年を取ると、時間の過ぎていくのがますます早く感じられます。

アッ、また同じようなことを言いました。

 

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

男子の初子を産んだ。

それで、布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。

宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

(ルカ2:6.7新改訳2017)

 

何度も何度も読んできた個所ですが、今年、クリスマス・ストーリー

の中から、わたしにはこの個所が新しく語られているように

思います。

 

わたしたち夫婦は今年、11年ほど住んでいた大阪の枚方市から

滋賀県の草津に引っ越しをしました。高齢引っ越しでした。

新しく住む場所を見つけるために、いろいろとネットで調べ、

また、その場所に足を運んだ結果、やっと決まった所でした。

今は、この老後の居場所を与えられたことをとても感謝しています。

 

ところで、イエスさまの出産の時、マリヤとヨセフの両親は

その居場所がなかなか見つからなかったようです。

やっと見つかったのが家畜小屋でした。

最初のクリスマスとも言える、この光景は劇でも有名なところ

ですが、しかし、よくよく想像してみると、これはとても

さびしい光景です。

 

先日の牧師たちのバイブルトークの時、ひとりの方が、若い頃、

皆がクリスマスを楽しんでいる時、ひとりさびしくカップラーメンを

食べていたという話をされました。

わたしはその時、あっ、そうだ、第1回目のクリスマスも

とてもさびしいクリスマスだったのだと思いました。

 

今も昔も多くの人たちは楽しいクリスマスを求めています。

しかし、神の子、イエス・キリストは飼葉桶という

さびしいところに、この地上人生をスタートされました。

何故でしょうか。

ここに何か意味があるのでしょうか。

 

幼子イエスは、さびしい思いをしている人たちの、

その立場に身を置かれたのです。

貧しい人たち、人に無視されている人たち、

自分の居場所がない人たち、そういう人たちの立場に身を置かれ、

そういう人たちに何かのメッセージを発信しておられるように

思います。

 

「イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある

が、人の子には枕するところもありません。』」

(マタイ8:20新改訳2017)

 

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