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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「わたしたち日本人が神をほめたたえるのは・・・」

2022年10月28日 05時30分18秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ

15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、

割礼のある者たちのしもべとなられました。

父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、

15:9 また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。

「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。

あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。(新改訳2017)

 

キリストは神の子であられ、また神の国の王でもあられます。

福音書には、そのようにご自身を現しておられるところもあります。

しかし、ここではキリストはしもべとなられた、とあります。

「しもべ」とはどういう者でしょうか。

誰かに仕える者がしもべです。

キリストは割礼のある者たち、つまりユダヤ人のしもべとなられました。

 

ピリピ2:6~8

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられない

とは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じように

なられました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、

それも十字架の死にまで従われました。(新改訳2017)

 

キリストがこのようにしもべとなられたのは、

聖書のみ言葉の約束を確証するためであり、

また、ユダヤ人ではない、わたしたち日本人をはじめとする異邦人が

神をほめたたえる者となるためでした。

それは神のあわれみによってです。

言いかえれば、キリストがしもべとなってくださったのは、

神のあわれみが現わされ、異邦人が救われるためでした。

 

それゆえに、わたしたちはこの国の異邦人の中にあって、

主なる神を、主イエス・キリストの御名をほめたたえるのです。

ハレルヤ

 

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「互いに同じ思いをもてるようになるのは・・・」

2022年10月25日 05時30分22秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ

15:5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスに

ふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

15:6 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、

私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

15:7 ですから、神の栄光のために、キリストが

あなたがたを受け入れてくださったように、

あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(新改訳2017)

 

同じ主イエスを信じる者でありながら、どうして皆が違った思いや考えを

もっているのかと思うことはありませんか。

わたしたち主イエスを信じるクリスチャンたちがお互いに同じ思いを

もち、お互いの関係が親密になれば、

どんなに素晴らしいことでしょうか。

 

そのためには、お互いが自分の思っていることを自由に、正直に

話し合っていくなら、同じ信仰をもっている者同士であれば、

きっと同じ思いになっていくはずだと考える人もいます。

 

しかし、私たちクリスチャンが同じ思いをもつことは、そう簡単な

ことではなく、

忍耐と励ましの神が互いに同じ思いをもつことができるように

して下さいますようにという祈り、それが今日のみ言葉です。

 

パウロは分かっていたのですね。

クリスチャンが同じ思いをもつことはそう簡単ではないと分かっていた

ようです。

しかし、忍耐と励ましの神がそうしてくださるという希望があります。

クリスチャンが同じ思いをもつようになるのには、

ただ話し合いによって、そうなるというのではなく、

ひとりひとりに忍耐と励ましが必要です。

その忍耐と励ましを与えてくださる方が主なる神です。

神ご自身が忍耐の神であり、人を励ます神であられるからです。

 

この15:5には、「イエス・キリストにふさわしく」という言葉が

あります。

この意味が分かりにくいですね。

他の訳では「イエス・キリストにならって」と訳されています。

 

そして、15:6にあるように、人が同じ思いを持つようになれば、

心を一つにして主なる神を賛美することができ、

またキリストが受け入れて下さったように、お互いを受け入れ合うことが

できるようになります。

 

「父なる神さま、あなたは忍耐と励ましの神です。

どうぞ、わたしたちクリスチャンが一つ思いとなれるように

忍耐と励ましを与えてください。」

 

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「霊的な成長のため」

2022年10月21日 05時30分46秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ人への手紙からイエス・キリストとはどういう方かを見ていって

います。

15章に入りました。

 

ローマ
15:2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って

隣人を喜ばせるべきです。

15:3キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。

むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と

書いてあるとおりです。(新改訳2017)

 

ダビデ王は、三男アブサロムの反乱のために逃げて、王宮を出て、

エルサレムを離れ、泣きながらオリーブ山を登っていきました。

その後のことですが、サウルの家の一族のひとり、シムイという男に

石を投げられ、さんざん呪いの言葉を浴びせられました。

それを聞いた家来のひとりが「彼の首をはねさせてください」と

言ったのですが、ダビデは、

「主が彼に命じられて、そうしているのだから、ほっておきなさい」と

言っています。

 

ダビデは、サウルの家のことをとても大切に思っていたのですが、

大勢の人の前でひどい言葉でののしられ、嘲られています。

そして、その嘲りの言葉をそのまま受け取っていました。

このダビデ王はイエス・キリストをある面、証ししている人物です。

 

何も悪いことをしていないイエスに、人々の嘲りの言葉が降りかかった

のです。

ピラトの法廷でも、十字架上でも、それに対して言い訳も、

弁解もされなかったイエスのことをわたしたちは知っています。

これはご自分を喜ばせることをされなかった、それ以上のことです。

 

15章3節の言葉を見てきました。

では、それと15章2節とはどういう関係があるのでしょうか。

 

その人の益となることを考えて自分の隣人を喜ばせるべきです、とあります。

これは単なる隣人愛ではなく、自分のことを喜ばせることをされなかった

イエス・キリストのことを覚えてのことです。

 

そして、それは隣人のためですが、しかし、また、

それはわたしたちのためです。

わたしたちの何のためと言われていますか。

 

そうです。

霊的な成長のためです。

わたしたちクリスチャンが霊的に成長するために、

何かの本を読んだり、セミナーなどに参加することも大切です。

ここで言われている霊的成長とは、

身近な人間関係の中で訓練される霊的な成長です。

 

隣人のために益となることを考え、それを実行することでその人を

喜ばせることができます。それはその隣人のためですが、

しかし、それが結果的には自分の霊的成長となっていくのです。

どう思いますか。

 

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「神に喜ばれ、人に認められる人たち」

2022年10月18日 05時30分18秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ

14:17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、

聖霊による義と平和と喜びだからです。

14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、

人々にも認められるのです。(新改訳2017)

 

ここにはとても大切なことが語られているとわたしは思います。

 

キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められる

と言われていますが、これはどういうことでしょうか。

 

わたしたちクリスチャンは、これは神に喜ばれることだからと思って

することがあります。

また、わたしなどは人に認めてもらいたいためにしていることもあります。

ですから、自分の言ったこと、やったことが人に認めてもらえたかどうかを

気にすることは少なくありません。

 

この14章18節のみ言葉をよく読んでみると、神に喜ばれる、

人に認められるというのは、そのために何かをしたというのではなく、

結果としてそうなるということです。

では、どういう結果でそうなるのでしょうか。

 

そうです。

キリストに仕える人は、結果的に神に喜ばれ、

人にも認められるというのです。

 

ところで、17節には、「神の国」のことが出てきます。

この17節と18節とはどういう関係があるのでしょうか。

全く関係のない話でしょうか。

 

「神の国」とは神が王であるKingdomキングダムのことです。

その神のキングダムは単に死んだ後の天国のことではなく、

今、現在のことです。

その神の国はKingdomですから、そこには王がいて、

その王に従う民がいます。

その民を通して王の主権と支配が現わされるところ、それが神の国です。

 

さて、18節にはキリストに仕える人たちがいます。

そうです。王であるキリストに仕える人たちです。

そのキリストに仕える人たちは、神に喜ばれ、人にも認められる人たちです。

そこに神の国が現されるからです。

どのような神の国が現されるのでしょうか。

 

17節は、そのことを言っています。

神の国が現されるところ、そこには聖霊による義と平和(平安)と

喜びがあるのです。

ですから、キリストに仕える人たちは、神の国に仕える人たちであり、

その結果として、その人たちは神に喜ばれ、人にも認められる人たちです。

 

どう思いますか。

 

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「クリスチャンのくせに」

2022年10月14日 05時30分40秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ14:14,15

私は主イエスにあって知り、また確信しています。

それ自体で汚れているものは何一つありません。

ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、

あなたはもはや愛によって歩んではいません。

キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、

あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(新改訳2017)

 

このみ言葉から、イエス・キリストとはどういう方なのかを

見ていきたいと思います。

 

パウロは自分のこと、人のことを言っていますが、

その中でイエス・キリストのことを言っています。

このみ言葉から見えてくることは、パウロが知っていること、

確信していることは、

自分の長年の信仰歴やそこから得たもの、また宣教、牧会の経験から

得たものではないようです。

 

人は年を取ると、それだけ多くの経験から、

また知識からいろいろな話ができるわけです。

 

しかし、パウロはそうではなく、主イエスにあって知り、

確信していることを話していると言います。

つまり、主イエスとのつながり、関係の中から得た知識や確信している

ことを語っていると言っています。

その上で、実際的な問題、食べ物についての問題を語っています。

 

そしてもう一つ、後半では、

主イエスを信じているクリスチャンの仲間のことをどういう目で

見ているかという点です。

 

あの人はクリスチャンのくせに、まだあんなことをしている、

というような見方をしているでしょうか。

主イエスを信じているクリスチャンをパウロはここで、

他の人以上に高い基準で見るという見方をしていません。

では、どういう見方をしていますか。

 

「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を・・・」

という見方をしています。

頭の知識としては、これは別に新しいことではありません。

クリスチャンであれば、誰でも分かっていることです。

 

ただここでは、食べ物という実際的な問題に直面して、

キリストはこの人のためにも十字架で死んでくださったのだ、

という見方をしているのです。

信仰をもっているクリスチャンについて批判したり、

裁きたくなるような時に、このような見方をしています。

どう思いますか。

 

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