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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「主を畏れよ」

2020年06月30日 05時26分49秒 | 詩篇より

詩篇34:8~12

主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。

味わい、見よ、主の恵み深さを。

いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。

主を畏れる人には何も欠けることがない。

若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない。

子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。(新共同訳)

 

主を畏れるとはどうすることでしょうか。

それは近寄ると罰が当たるというように、主を怖がることでしょうか。

触らぬ神に祟りなしという感じで、恐れることでしょうか。

主を畏れる人は主によって守られ、助けられます。

主を畏れる人は、何も欠けることがないと言うのです。

何も欠けることがないとは、何も困ることがない、何も不自由することがないということです。

すごいことですね。

主を畏れる人は、主を意識し、主の目を意識する人です。

人の目を意識し、気にするようにです。

それは、主の目で、自分のやっていることをチエックすることです。

自分のやっていること、その心の動機をチエックすることです。

以上は、わたしの思っていることです。

わたしも十分にできているとは言えませんが、こうして書くことによって自分にも言い聞かせています。

「主を畏れることを教えよう」とありますので、12節以降を読んでみてください。

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「主を愛する」

2020年06月26日 04時32分18秒 | 詩篇より

詩篇31:23,24

すべての聖徒よ、主を愛せよ。

主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。

すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。(口語訳)

 

「すべての聖徒よ、主を愛せよ」は、新共同訳では「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ」となっている。

 主を愛せよ、と言われている。

普通、多くの人は、主に愛されることを求めているのではないか。

主に愛される人でありたいと思う。

主を愛すると言われると、ピンとこない。

自分のようなものが主を愛するとはどういうことなのか。

すべてのものに満ち溢れておられる方が、こんな者に愛されることを求めておられるのだろうか。

こんな者の愛を必要としておられるのだろうか。

 

 そう言われると、思い出すのは、第一の戒めと言われる個所である。

マタイ22:37

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。(口語訳)

ここで気づかされるのは、愛するとは単なる気持ちや感情ではなく、心、思い、精神でのことである。

愛するとは気持ちの問題ではなく、愛せよ、命じられている。

愛するか、愛さないかは自分の心と意志の問題でもある。

愛すると決める人は、その心、思いをつくして愛するのである。

もう一つ、思わされることがある。

わたしもあなたもいろいろなことをやっている。

主のためにやっていることもある。

そのやっていることの動機は何だろうか。

どういう動機からそれをやっているのだろうか。

それは主を愛するという動機からなのか。

 

ということで、主を愛することは、わたしたちがやっていることの動機を探られることでもある。

この詩篇によれば、主を愛する人は、真実な人であり、また心を強くして主を待ち望む人でもある。

 

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「何のために」

2020年06月23日 05時18分52秒 | 詩篇より

 

詩篇30:7、8

平穏なときには、申しました「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。

主よ、あなたが御旨によって砦の山に立たせてくださったからです。

しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。(新共同訳)

 

ダビデもまた、問題もなく平穏な時があったようだ。

そしてまた、不安、恐れに落ち込むような時があった。

素晴らしい信仰の人ダビデ、王となる人物として選ばれていたダビデ、その彼が不安や恐れを覚えるのはどういう時だったの

か。

何かの病気のせいか。人間関係で辛い状況にあったのか。

「御顔を隠されると」と言っている。

主が御顔を隠されたということは、それまで御顔を仰ぎ見ていたが、今、それが出来なくなったからである。

御顔が隠されたので、何かの問題が起こったのか。

それとも何かの問題が起こったことで、御顔が隠されたのか。

この30篇の少し後、10節によれば、やはりダビデは死の恐怖の中に置かれていたようだ。

わたしが墓に下ることで何の益があるのでしょうか、と言っている。

では、生きていて彼は何をしたいのか。

よく聞くのは、仕事がなくなれば生きていけなくなる。

ということは、生きていくために仕事をしなければならない。

確かにそうだ。

では、何のために生きていくのか。仕事のため。何のために仕事をするのか。生きていくため。

となると、わかるようでわからなくなる。

ダビデの場合、この10節の後半に自分が生きていてすることは、これだと言っている。

どういうことか、ご自分でその個所を読んでみてください。

 

 

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「受くべき罰を」

2020年06月19日 06時01分13秒 | 詩篇より

詩篇28:3~5

悪しき者および悪を行う者らと共にわたしを引き行かないでください。

彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、その心には害悪をいだく者です。

どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべ

き罰を彼らに与えてください。

彼らは主のもろもろのみわざと、み手のわざとを顧みないゆえに、主は彼らを倒して、再び建てられることはない。(口語訳)

 

悪を行う人のことで、ダビデはこんな激しい祈りをしています。

こんなことを祈ってもよいのでしょうか。

これはダビデだけに許されている祈りなのでしょうか。

けれども、この祈りで、ダビデはその人たちを自分で裁いているのではなく、正しい裁きをされる主に裁きを求めて祈ってい

ます。

 今日も、世界中で、悪を行っている人、不正を行っている人、国のトップの座にいて酷いことをしている人、何かを隠して

いる人、そういう人たちのことを耳にする度に、わたしの中にはどうしても自分で裁いてしまい、主の裁きを求めていないの

ではないか、と思わされます。

ここがダビデと大きく違うところです。

テレビでこの人たちの顔を見る時、主よ、この人を裁いてください。

心に悪を抱いている人です。その悪事に応じて報いてください、受くべき罰を与えてください、と祈ってもよいのでしょう

か。

それとも、自分の心で裁くだけで終わっていてよいのでしょうか。

わたしもあなたも主の御国の民であるとするなら、主の主権と支配とが、主の裁きという形で表されることを祈ってよいはず

だと思いませんか。

テレビの前であっても、教会の礼拝の中であっても、わたしが自分の立ち位置、つまり御国の民、主に愛されている者として

のアイデンティティを大切にするなら、裁きについてのその見方が変わってくるのではないかと思います。

どう思いますか。

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「主の御顔」

2020年06月16日 05時21分43秒 | 詩篇より

詩篇27:8

あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。【口語訳】

When You said, "Seek My face, “My heart said to You, "Your face, Lord, I will seek." 【NKJV】

 

わたしが求めているものはいろいろある。

わたしを元気にしてくれるもの。

わたしを楽しませてくれるもの。

わたしがもっと人の役に立てること。

わたしのやっていることが成果を上げること。

わたしの健康などなど、いろいろ求めているものがある。

しかし、この詩篇では、意外なものを求めよと言われている。

「わが顔を求めよ」

主の教えだけではない。

主の奇跡の御業だけではない。

主についての知識だけではない。

主の御顔を尋ね求めるのである。

その主の御顔に主の思い、主の心が表されている。

主の御顔に主のご人格、キャラクターが表されている。

今のわたしに対して、主はどんな顔をされているのか。

困ったやつだという顔をしておられるのだろうか。

静かなまなざしで、見守ってくださっているのか。

わたしに個人的に目を留め、心にかけてくださっている顔か。

わたしと親しい交わり、関係を求めておられる顔なのか。

わたしは主の顔を立てているだろうか。

わたしは主の御顔に泥を塗るようなことをしてはいないか。

主が顔を曇らせるような思いをもってはいないか。

「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」

「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」(詩 11:7新共同訳)

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