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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「賞味期限切れ?」

2018年05月27日 06時35分15秒 | 聖書の真理発見

 お変わりなくお過ごしでしょうか。

お変わりなく・・・と言うと、一般的には悪いことは何もなかったでしょうかという意味ですが、良いことで何かお変わりありませんでしたか。

 

日々の生活の中では、悪いこと、良いことなどいろいろです。

しかし、主イエスを信じている人には万事が益とされるとわたしたちは信じています。

 

今日から始める新しい聖書のお話しもその一つの素晴らしい例と言えます。

ああ、その話か、その話ならよく知っている。

出来れば、もっとあまり知らない話の方がよいのだけど・・・と思われる方もおられるかもしれません。

 

わたしは聖書をもう60年以上も読んでいる者ですが、これは本当に不思議な読み物だと思っています。

まだまだ分からないところも沢山あるのですが、一度読んでよく知っていると思っている話から、後になって、また新しい気づきや発見があるのです。

 

以下のお話しをその場の光景を思い浮かべながら、読んでみてください。

 

幾日かたって、イエスがまたカペナウムの町に来られた時のことです。

家におられることが知れ渡り、多くの人々が集まってきて、戸口のところまですきまが無いほどになりました。

 

イエスは皆にみ言葉を語っておられたのですが、ひとりの中風の人が4人の人に運ばれてきました。

ところが、群衆のためにイエスに近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、そこから中風の人を床に寝かせたまま、つり降ろしました。

 

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に言われました。

「子よ、あなたの罪は赦された」

ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えたのです。

「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を汚すことだ。

神おひとりのほかに、いったい誰が罪を赦すことができようか」マルコ2:1-7より

 

話は途中ですが、取りあえずここまでにします。

やっぱり知っている話でしたね。

このお話しはもう賞味期限切れで、新鮮味がないと思われる方もおられるかもしれません。

そう思われる方もおられるだろうなーと思いながらも、敢えてこの話を選びました。

 

では、ふたつのことをお聞きします。

記憶力を試すためではなく、このストーリーの場面をハッキリと思いに描いていただくためです。

①4人の人は家の屋根を壊して、大きな穴をあけ、そこから中風の人を吊り降ろしたのですが、こんな荒々しいやり方ではなく、他に選択肢は考えられなかったのでしょうか。

例えば、人がこんなに多いのならと、あきらめて帰った…とか。

聖書の話しをなぜそんな風に考えるのか、と疑問をもたれる方もおられるかもしれませんが、このストーリーの内容、光景をさらにハッキリさせるためです。

 

②4人の人とこの中風の人とはそもそもどんな関係だったのでしょうか。

想像してみてください。どんな答えにも正しい、間違いはありません。

何のためにそんな想像をするのでしょうか。

それは真理発見の上で意味があるからです。

 

次回に続きます。

 

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「最後に」

2018年05月24日 06時02分51秒 | 聖書の真理発見

・その後、マルタはどうしたでしょうか。
聖書には何も書かれていません。
後は想像してくださいという感じです。

その後、マルタはイエスの足元に座っている妹の横に座ってみ言葉を聞いたということも考えられます。

わたしはこう想像します。

これが正しいと言っているのではありません。

マルタはその後、台所に戻って、平安な心で、中断していた接待の仕事を続けたのではないかと思います。

そして、皆が帰って行った後、妹とふたりだけになった時、ふたりはどんな会話を交わしたでしょうか。

もちろん、これも想像するしかありません。

 

・この話から人間とはどういうものでしょうか。

聖書に書かれている話は2000年以上も前の話です。その時代の人間と科学や経済の発展してきた今日の人間とは本質的には何か違っているでしょうか。
この話には今も変わらない人間とはどういうものかがシンプルに現れています。

そして、その人間には問題があります。ある意味、どうしょうもない問題があります。

マルタのような働き志向の人は、働きを重視するあまり人との関係がおろそかにする傾向があります。一方で、関係志向の人は人との関係を重視し、働きの方をおろそかにする傾向があります。あなたはどちらの傾向が強いでしょうか。

その問題の答えはどこにあるのでしょうか。
その答えこそ、わたしたちの主イエス・キリストです。

 

・この話からイエスとはどういう方でしょうか。

イエスはどういう方かについては、聖書の中に登場してくる人間に対してイエスがどういう態度を取られ、どういうことを言われるかということで見えてくるのです。

①イエスは人の問題や弱さを分かってくださる方です。

②人が自分でもどうしようもない気持ちや複雑な心の思いを整理し、大切なことをはっきりさせてくださる方です。

③人を責めるのではなく、愛をもって本当のことをはっきり言ってくれる方です。
「愛をもって真理を語る」エペソ4:15

④何が大切なことかという価値観と優先順位についてハッキリしておられる方です。

その他にも考えられることがあると思います。

あなたは、愛をもって、自分に本当のことを言ってくれる人が必要ですか。

 

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「口の言葉と心の思い」

2018年05月21日 06時51分47秒 | 聖書の真理発見

前回の続きです。

マリヤはみ言葉を聞くことを優先的に選んでいました。イエスはそのことを「無くてはならないもの」と評価されました。

一方で、姉のマルタは、マリヤと一緒には聞いていないかもしれませんが、結果的に、彼女はイエスのみ言葉を聞きました。

 

この場では、他の人が経験しなかったことをマルタは経験しました。

なぜでしょうか。

そうです。

自分の抱えていた問題をイエスのところへもって行ったからです。

自分で何とかしようとしていませんでした。

人にも頼みませんでした。

イエスのところに自分の不平不満の心を、そのままもって行ったのです。

これはある意味、祈りとも言えます。

イエスのところへ自分の願いをもって行くのは祈りです。

それもマルタは正直に自分の気持ち、心の思いをそのままイエスにぶっつけています。

そういう祈りです。

あなたやわたしは、自分の祈りにおいて、どの程度、正直に自分の心の思いや気持ちをイエスの前に言えているでしょうか。

人は場合によって、自分の口で言っていることと心の思いとが別々であることがあります。

その点、マルタは正直に自分の心の思いをそのままイエスに向かって言い現わしています。

そして、それに対するイエスのみ言葉を聞くことが出来たのです。

それはマルタのことを思うイエスの愛、その愛をもって本当のことを言ってもらったのです。

 

この話からわたしたちは、み言葉の聞き方について教えられることがありますし、また、この話から祈りについて教えられることがあります。

 

もう一度、まとめますと、

姉マルタは手伝いをしてくれない妹の態度に不満がありました。妹は日頃からいつも姉に仕切られてきたことで心にたまっているものがあったのかもしれません。マルタは最初から人との関係を駄目にしようと思っていたのではなく、しなければならない働きを重んじることで、気づかないうちに結果的に人間関係がそうなったのです。

そういう中で、イエスは、どうしても必要なこと、マリヤはそれを選んでいると姉マルタに言われました。それは主のみ言葉を聞くことでした。姉マルタは皆に語られていたみ言葉は聞いていないとしても、自分個人に語られたイエスのみ言葉を聞いたのです。

その後のマルタはどうしたと思いますか。

それはひとりひとりの想像です。

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「み言葉を聞くこと」

2018年05月18日 06時29分31秒 | 聖書の真理発見

 「・・・無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。
マリヤはそのよい方を選んだのです。それを彼女から取り去ってはなりません」

イエスはハッキリしたことを姉のマルタに言われました。

妹マリヤの選んだのは、台所での接待の方ではなく、イエスのみ言葉を聞くという方でした。

 

ある時、わたしはこの個所から話をしました。

そして、この個所からみ言葉を聞くことの大切さを力強く強調しました。

その後、ひとりの婦人の方から、

「先生、そんなことを言われても、食事当番は誰かがしなければならないのですよ」と言われました。

そうですね。

これは教会内での話ですが、他の人がゆっくりしている時に、礼拝の後のお昼の食事当番の方は大変です。それでこの奉仕者がなかなか見つからないこともあります。

この当時、わたしがその人にどういう答えをしたかは覚えていません。しかし、今だったら、答え方があると思っています。

 

ところで質問です。

イエスが無くてはならないことと言われたのは、マリヤが選んだこと、すなわちイエスのみ言葉を聞くということでした。

ところで、姉のマルタはみ言葉を聞いたでしょうか。

遠く離れたところから、少しは聞いた。

まったく聞いていない。

台所では、聞きたいという思いをもちながら、忙しくしていた。

などなど、といろいろ想像できます。

しかし、わたしは、マルタはみ言葉を聞いたと思います。

えっ、どういう風にですか。

そうですね。

彼女は直接、個人的にイエスの口からみ言葉を聞いたのです。

そうです、個人的にです。

妹マリヤは皆に語られているみ言葉を聞いていました。

姉マルタはイエスの言葉を個人的に聞いたのです。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです。それを彼女から取り去ってはなりません」

 

これはイエスのみ言葉ですね。

もちろん、マルタはみ言葉を聞こうとしてイエスのところへ行ったのではなく、頼みごとがあって行ったのですが、結果としてイエスのみ言葉を聞くことになりました。

今日も皆に同じように語られるみ言葉と、自分に個人的に語られるみ言葉があります。

あなたはどちらを多く求めていますか。

 

 

 

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「何を変えたいのか」

2018年05月15日 06時24分24秒 | 聖書の真理発見

 前回の続きです。

 姉マルタは自分が出来ること、自分が直接妹に言いに行ってもよいことをわざわざイエスに頼みに行っています。

裏方として一生懸命やっている自分のことをイエスに認めてもらいたいという思いもどこかにあったかもしれません。

マルタは妹の態度を変えたかったのです。そのためにイエスに対しても支配的な態度で接しています。

 

では、妹のマリヤはどうしてそれほどイエスの話を聞きたかったのでしょうか。

彼女は姉にそんな風に言われても、その場を立って行かなかったのです。

 

これもまた、わたしの個人的な想像です。

間違っているかもしれません。

彼女は自分自身を変えたかったのです。

どうしてそう言えるでしょうか。

常日頃、一緒に生活している人が結構、支配的で、いつも何かを指示してくるようと人だとしたら、どうでしょう。

いつもどこか仕切る人です。そんな人のそばにいつもいると、どういうことになるでしょう。

妹マリヤは口では言わなかったにしろ、いつも指図され、仕切られたりすることに、内心は耐えがたい思いをしていたのです。

どこかで自分の自由が奪われるような窮屈な思いを毎日しなければならないとすると、どうでしょうか。

やや内向的なところがあり、感情豊かなところもあるマリヤは内心自分の中に悪気のない姉に対するこの複雑で反発的な思いをどうすることも出来なかったのです。

時には、そういう自分が嫌になることもありました。

そういう嫌な内面を持つ自分が変わりたかったのです。

 

身近な人との間でこういう経験のある人は、このマリヤのことがよく分かると思います。

 

ということで、マリヤは自分を変えたかったのです。

一方の姉マルタは何を変えたかったでしょうか。

そうです。

周りの人を変えたかったのです。

 

あなたがクリスチャンであれば、教会に行くようになった動機は何でしょうか。

わたしの場合、どちらかと言えば、やはり自分が変わりたかった方です。

とは言っても、今でも、わたしの中には身近な人(誰だか分かりますか)が変わってほしーいと思う気持ちが起こってくることもよくあります。

 

マリヤがみ言葉を聞くということに優先順位を置いていたのは、彼女が信仰的で熱心な信仰をもっていたからだと思われる人もいると思います。

そして、イエスはそのことを評価されたとも言えます。

わたしはそれも否定しませんが、しかし、聖書は多くの場合、人をあまり理想化していません。現実の弱さを持った人間を見せてくれています。

とういことで、わたしはマリヤのことをそのように見ています。

どう思いますか。

 

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