ルカ23章32-43節のところの続きです。
2000年以上も前に、
エルサレムに近いゴルゴダという丘で
3人の人が死刑囚として十字架にかけられました。
その真ん中のイエスに対して、
ユダヤ人の議員たち、
ローマの兵士たち、
そして一緒に十字架につけられていた犯罪人が
ののしり、嘲る言葉を浴びせていました。
そして、この場面で、
イエスと一緒に十字架刑につけられていた
もうひとりの犯罪人がいました。
今日は、その人の話です。
ルカ23:39-43
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、
イエスをののしり、
「おまえはキリストではないか。
自分とおれたちを救え」と言った。
23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。
「おまえは神を恐れないのか。
おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 おれたちは、
自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。
だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
23:42 そして言った。
「イエス様。
あなたが御国に入られるときには、
私を思い出してください。」
23:43 イエスは彼に言われた。
「まことに、あなたに言います。
あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
(新改訳2017)
イエスと一緒に十字架につけられていた、
もうひとりの犯罪人は、
同じような状況に置かれていましたが、
イエスをののしった犯罪人をたしなめ、
そしてまたイエスに向かって
「あなたが御国に入られるときには、
私を思い出してください」と言っています。
彼はなぜ、この状況でこのようなことを言えたのでしょうか。
以下はわたしの想像です。
一緒に十字架にかけられているイエスのすぐ隣で、
その息づかいも分かるほどの一番近いところに彼はいました。
イエスが「父よ、彼らをおゆるし下さい」と祈っておられた、
その言葉をすぐ近くで聞いていたのです。
自分をののしり、あざ笑う人たちのために祈る、
イエスのその祈りの言葉は、
この犯罪人の心に何か響くものがあったに違いありません。
この同じ状況で、自分はこの人たちのために、
とてもそんなことは祈れない。
この犯罪人は他の人たちと違った目で
イエスを見はじめていました。
その後も、人々がさんざんののしり、
あざ笑い、馬鹿にしているのに、
この人は何も言わないでいる。
それで、彼は横目でイエスに注目していたのです。
この人はいったい何者なのか。
やはり、メシヤ・キリストなのではないのか。
いや、そうに違いない。
そう思うと、なぜか不思議な感動を覚える中で、
この犯罪人は自分の罪を認めています。
そしてまた、
多くの人たちの言っているあざけりの言葉に反して、
イエスが御国の位に着く人だと思ったのです。
そしてその時、自分のことを思い出してくださいと言っています。
これはまさに、
この人の死ぬ間際の信仰告白とも言えます。
「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と、
その後に言われたイエスは、
この人の言葉をそのように受け取られたのだとわたしは思います。
しかし、今日も、
イエスに目を向けさせないようにする人の言葉があり、
わたしはそちらの方に心を奪われることも少なくありません。
イエスの言われることに耳を傾け、
イエスに目を向け、注目していないと、
他の声に気を取られ、人の言うことに影響されてしまいます。
このもうひとりの犯罪人は、
反対にイエスに目を向けていたことで、
このような状況であったにもかかわらず
心が元気になったのだと、わたしは思います。
へブル12:2-3
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、
目を離さないでいなさい。
この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、
辱めをものともせずに十字架を忍び、
神の御座の右に着座されたのです。
あなたがたは、罪人たちの、
ご自分に対するこのような反抗を
耐え忍ばれた方のことを考えなさい。
あなたがたの心が元気を失い、
疲れ果ててしまわないようにするためです。(新改訳2017)





