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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「第一に求めるもの」

2018年12月28日 06時51分31秒 | 神の国とは

 聖書の言っている神の国について学んできた。

あなたにとって、神の国とはどういうことでしょうか。

 

今日、神の国が見える人が必要だ。

しかし、それは特別に聖書に精通した人のことだろうか。

それは特別に霊的な人のことだろうか。

イエスの言葉によれば、そうではないようだ。

「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」とイエスはあのパリサイ人ニコデモに言われた。

 

今日、神の国と神の義をまず第一に求める人たちが必要だ。

それは神の国についての詳しい知識のある人のことだろうか。

神の国、神の国といつも言っている人のことだろうか。

自分の生活の場と、信仰共同体であり、エクレシアである教会を通して、神の主権と支配を見ていく人、求めていく人、それが神の国を求める人たちだとわたしは思う。

その人たちは自分の思うようになる「自分の国」を求めていない。

その人たちは自分たちの思うようにしようとする「みんなの国」を求めていない。

そしてまた、その人たちはもちろん、「この世の国」を求めていない。

イエス・キリストが王であり、オーナーであるとすれば、その方の主権を認め、その方の支配される領域が拡大することを求めている人たちだ。

その領域の始まりは、あなたやわたしの心からだと、わたしは思う。

その人たちのためには、生活に必要な他のすべては添えて与えられると約束されている。

マタイ6:31-33

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。

あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。

そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(口語訳)

 

すごい約束だ。

神の国と神の義と言われている。神の国については見てきた。
では、もうひとつの「神の義」を求めるとはどういうことだろうか。

 

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「主に聴く信仰の姿勢」

2018年12月25日 06時15分21秒 | 神の国とは

「神はこう言っておられます」と、ある人に言われたことがある。

誰かに「それは神の御心ではないと思います」とはっきり言われたことはないだろうか。

こういう断言的な言い方をされると、後、何も言えなくなる。

そういう経験はないだろうか。

教会のオーナーであり、主であり、神の国の王である方の言われることを聞くこと、その大切さを強調してきたが、ここでも問題がある。

誰かが、神はこう言っておられます、と言うと、それに対して、他の人たちは、本当にそうかなーと思いながらも、神が言っておられることであれば、それには反論できない。

そのようなやや極端な言い方をする人たちがいると、他の人たちは黙ってしまい、自分から神に聞くこともしなくなる。

「神がこう言っておられる」とハッキリ言う、そういう人は人の話を聞こうとしない極端に霊的な人たちであって、自分はそういう人になりたくないと思う人もいる。

 

神に聞くことは大切であるが、では、この問題についてはどうすればよいのか。

わたしが教えられてきたことがある。

皆に関係のある大切なことについて、神は、それをひとりの人だけに言って、他の人には何も言われないのか。

旧約の預言者の時代と違って、神は、今日、多くの人に語られるのだ。

であれば、神はこう言っておられるという人がいれば、では、そのことについてわたしも祈って聞いてみます、と言えるのだ。

その人が言っていることが、神が言われている重要なことであればあるほど、そのことは確かめられる必要があるからだ。

マタイ18:16 
もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。
それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。(口語訳)

 

このためにも信仰共同体でもある教会がある。

 

神が語られることを聞く人は、耳に聞こえる肉声の声を聞くのだろうか。
そういうこともあるとわたしは信じているひとりでもある。

そう言う場合もあるかもしれないが、いつも、必ずしもそうだとは限らない。

聖霊によって語られる静かな声は、聞き逃すこともある。

神は一度に多くを語られるとは限らない。

多くの場合、短い、少しの言葉で語られる。

そして、更に求めていくと、更にハッキリしてくることがある。

御声を聞いたかどうかということも大切ではあるが、もっと大切なのは、主に聴こうとする姿勢だとわたしは思う。

主に聴こうとする人は、神の国の主権者のもとに身を置いている人だ。
すぐに答えが来なくても、主の思いを聞こうとする人に、主は何らかの方法で語られる。

聖書のみ言葉を通して、夢を通して、人の言葉を通して、心の思いを通して、などなどである。

主に聴こうとする信仰の姿勢がないと、主が語られているのに気づかないこともある。

また、人の言う言葉の方に気を使い過ぎたり、自分の中で何かの思いに捕らわれたりしていると、主に耳を傾け、聴こうとする信仰の姿勢を見失うこともある。

どう思いますか。

 

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「御国が来ますように」

2018年12月21日 11時38分35秒 | 神の国とは

わたしは一つの教会の牧師として40年余り牧会の働きに仕えさせていただいた。
自分の人生の半分以上をそのことにささげてこれたことは、本当に主の憐みであり、本当に感謝している。
けれども、そのわたしは教会のオーナーがやってほしいと言われること、そのオーナーの思い、願いを受け取って、そのことをやってきたのか、どうなのか。

 

子ロバに乗って、イエスはエルサレム入城された。その後、宮で売り買いをしていた人たちを皆追い出すなどの宮きよめをされ、「わたしの家」が「強盗の巣に」と言われた。

そのイエスに「何の権威でこんなことを…」と問い詰めてきた祭司長たち。

その後にイエスが語られたぶどう園のオーナーと農夫たちのたとえ話、とマタイ21章は続いている。

そして、この一連の話の後の、イエスの結論はこうだった。

「だから、わたしはあなたがたに言います。
神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」(マタ 21:43 新改訳)

 

主の教会に仕えてきたわたしは、神が遣わされた人たちを殺したりするようなことはしなかったとしても、教会に対して神の意図されていることを無視して、ただ、自分の願うようなことだけを目指してきたとすれば、それは教会の私物化になりかねない。


わたしの場合、神の国についての聖書的、神学的な知識は多少あったとしても、その知識や理解以上に、現実のこととして神の国のことが、もうひとつはっきり分かっていなかったのではないか。そのためか、神の国とこの世の国とがごちゃ混ぜになっていても、それに気づかないできたのではないか。

教会のいろいろなことがある中で、本当に教会のオーナーが意図されていることやその思いをその都度、聞いてきただろうか。

みこころがすぐに分からないとしても、教会の主に聴こうとする、そのような姿勢を貫いてきただろうか。

 

今のこの時代も、主イエスを信じる者たちを通して、また教会を通して、神の国が現わされていくのだとすれば、その神の国(キングダム)の王が誰であり、その方の思いや願い、主権と支配がどういうものであるかを知らなければならない。

言い換えれば、神の国が見える人でなければならない。

そして、王であり、オーナーである方の言われることに聞き従う忠実な人たちが求められている。

そのために、主を信じる兄弟姉妹という信仰共同体、エクレシア(教会)がある。

 

わたしたちを通して、教会を通して御国が来ますようにと祈るとともに、具体的な現実のさまざまなことの中で主に聴き、主の言われることに耳を傾けませんか。

 

 

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「神の国は別の人たちに」

2018年12月18日 05時45分31秒 | 神の国とは

 ガリラヤでのイエスの宣教の開始は「神の国は近づいた」であった。
ここまでずっと神の国のことについて学んできている。
その神の国に対して対抗する国もあることを見てきた。

イエスはエルサレムの神殿に入られ、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をひっくりかえされた。そして、祈の家とされるはずの「わたしの家」を、「あなたがたは強盗の巣にしている」と言われた。

イエスの乱暴と思えるその行動に対して、「お前は何の権威があってこんなことをするのか」と、それを問題にし、問い詰めてきた祭司長たちに対して、このぶどう園のたとえが語られた。
イエスはこのぶどう園を乗っ取ろうとした農夫たちこそ、あなたたちのことだ、とは言われなかった。がしかし、祭司長たちは自分たちのことが言われていると気づいたのだ。

そして、イエスはこのぶどう園のたとえの中で、最後にこんなことを言われた。

マタイ21:43
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。(新共同訳)

ぶどう園のオーナーがその場にいないことで、それを預かっていた農夫たちはそれを乗っ取り、自分たちみんなのものにしようとして、勝手なことをし始めた。

それで、その神の国はその人たちから取り上げられて、ふさわしい実を結ぶ別の人たちに与えられることになったのだ。

ということで、主イエスを信じる新しい神の民が、神のぶどう園を、つまり神の国を預かっているとするなら、このぶどう園のたとえ話は今日のわたしたちにも無関係ではない。

今日の教会も、そのオーナーが旅にでも出ておられるかのように、その姿がハッキリ見えない。
また、そのオーナーの言われることがハッキリ聞こえないことで、自分たちの思いや考えを優先させて、 何かをしているということはないだろうか。

どう思いますか。

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「自分たちのことだと気づいた人たち」

2018年12月14日 06時27分28秒 | 神の国とは

前回からの続き。

マタイ21:33-40の話の中で、ぶどう園の主人は最初にどういうことをしただろうか。

どういう状態でぶどう園を農夫たちに貸して、旅に出たのか。

主人は、ぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらまで立てた。

その後、そのぶどう園全部を農夫たちに任せて、オーナーである主人は旅に出た。

やがて収穫の時が来て、収穫を受け取るために僕たちをそこに送ったが、その僕たちは農夫たちの手で次々に袋叩きにされたり、殺されたりした。

最後は自分の息子なら敬ってもらえると思い、息子を送ったが、農夫たちの方はこの跡取りがいなくなれば、ぶどう園は自分たちのものになるということで、その息子も殺されてしまった。

 

イエスはこのたとえ話を誰に対して話したのか。

この話を聞いた人たちは、これは自分たちのことだと分かっただろうか。

マタイ21章のずっと後の45節を見ると、そのことがハッキリわかる。

イエスは、祭司長やパリサイ人という当時の宗教指導者たちにこのたとえを話されたのだ。

イエスがこのたとえで誰のことを言っているのかが彼らに分かっただろうか。

どうやら分かったようだ。

それで彼らはどうしたか。

46節に書かれている。

 

マタイ21:45-46

祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。
群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。(新共同訳)

 これは、当時のイスラエルの指導者たちに当てはまるのとともに、このたとえは、イスラエルの長い歴史の中で起こったことにも触れている。神が遣わされた多くの預言者たちがイスラエルの指導者たちによって殺されたという歴史だ。そして、その延長として、「息子」であるひとり子なるイエスも殺されることになった。

つまり、オーナーである神の側から見ると、ご自分が用意し、ご自分が造って貸し与えていた「ぶどう園」が乗っ取られそうになったのだ。

 そして、イエスはこのマタイ21章43節で、このたとえ話の結論とでも言える、とても大切なことを言っておられる。

次回に続く。

 

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