詩篇6篇の後半です。
6:6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
夜ごとに涙によって寝床をただよわせ、そこをぬらした、というのです。
やや極端な言い方かもしれませんが、置かれている現実とその気持をこのように表明しているのは分かりやすいですね。
しかし、こんなことはあまり人には知られたくないことです。
6:7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。
ダビデの憂い、悲しみは、自分に対して敵意をもつ人たちのためでもあったことが分かります。
人間関係からの苦しい思い、それが肉体的な苦しみにプラスされ、加えられています。
そして、それを主なる神の怒りとも受け取っています。
わたしはこのダビデのように祈っていませんし、祈れません。
しかし、このダビデの祈りをたどっていくと、わたしに代わって深い心の内を祈ってくれているように
思えてきます。
不思議なことですが、同じように自分のうちにも解放が与えられる気がします。
ということは、このダビデの祈りは、思うように祈れないわたしのための「とりなしの祈り」とも言えます。
6:9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。
6:10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。
現実には、まだ祈りが聞かれたわけではありません。
その先取りをしています。
信仰による先取りですね。
単にそのよう思う、無理にそう思うようにしているのではありません。
なぜか、祈っていた彼の心にそのような思いが、祈りは聞かれたという思いが起こされたのです。
そういう確信のようなものが与えられたのです。
主はそのように外側が変わる前に、心の内側に変化を起こされます。





