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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「心の内側の変化」

2021年02月26日 05時20分50秒 | 詩篇より

 

詩篇6篇の後半です。

 

 6:6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、

わたしのしとねをぬらした。

 

夜ごとに涙によって寝床をただよわせ、そこをぬらした、というのです。

やや極端な言い方かもしれませんが、置かれている現実とその気持をこのように表明しているのは分かりやすいですね。

しかし、こんなことはあまり人には知られたくないことです。

 

 6:7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。

 6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。

 

ダビデの憂い、悲しみは、自分に対して敵意をもつ人たちのためでもあったことが分かります。

人間関係からの苦しい思い、それが肉体的な苦しみにプラスされ、加えられています。

そして、それを主なる神の怒りとも受け取っています。

わたしはこのダビデのように祈っていませんし、祈れません。

しかし、このダビデの祈りをたどっていくと、わたしに代わって深い心の内を祈ってくれているように

思えてきます。

不思議なことですが、同じように自分のうちにも解放が与えられる気がします。

ということは、このダビデの祈りは、思うように祈れないわたしのための「とりなしの祈り」とも言えます。

 

 6:9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。

 6:10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

 

現実には、まだ祈りが聞かれたわけではありません。

その先取りをしています。

信仰による先取りですね。

単にそのよう思う、無理にそう思うようにしているのではありません。

なぜか、祈っていた彼の心にそのような思いが、祈りは聞かれたという思いが起こされたのです。

そういう確信のようなものが与えられたのです。

主はそのように外側が変わる前に、心の内側に変化を起こされます。

 

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「苦悩の中での祈り」

2021年02月23日 05時21分46秒 | 詩篇より

 

詩篇6篇です。

これはダビデの苦悩の祈りです。

精神的にも、肉体的にも苦しみの中にあって、主に祈っています。

このような祈りを、苦しみの中にある時、わたしたちも同じように祈ることができるでしょうか。

口語訳から見ていきます。

 

6:1 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、

わたしを懲らしめないでください。

 

ダビデは、自分が直面している苦しみ、その状況は自分に対する主の怒りと見ています。

主から責められていると見ています。

主からの懲らしめと見ています。

人からそう言われたのではないようです。

そんな風に思うことは信仰的なのでしょうか。

それとも自虐的なのでしょうか。

 

 6:2 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。

主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。

 

自分に対して怒っておられる、その主に憐れみを求めています。

彼は肉体的にも病んで、苦しんでいるようです。

肉体的ないやしも求めています。

怒っている神に憐れみを求めるというのは、このダビデという人が、

主なる神はどのような方であるかを知っているからです。

神がすぐに怒る、怒りっぽい方であると思っている人は、その神に憐れみを求め、いやしを求めるでしょうか。

 

 6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。

主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。

 

肉体的な苦しみに加えて、魂も悩み苦しんでいます、と自分の現実をありのまま正直に口にしています。

この状況がいつまで続くのか、終わる時はあるのかと不安に思う気持ちをそのまま主の前に口に出して祈っています。

 

 6:4 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。

あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。

 

自分から目を背けて怒っておられる主が、もう一度自分の方に目を向けて、救ってくださいと祈っています。

あなたの慈しみによって、と言っています。

主の慈しみによってとは、主の愛と慈しみを思う信仰を表しています。

この苦しみの中で、彼は主なる神がどういう方であるか、どのようなご性格であるかを告白しているのです。

怒っている人に対してですよ。

 

 6:5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、

だれがあなたを、ほめたたえることができましょうか。

 

そして、ここでは苦しみの中、神の怒りにあっている中、その主なる神に問いかけています。

ダビデが主なる神のことをどの程度知っているかを、ここで想像できますか。

死んでしまえば、あなたのことを覚えている者はいませんよ。

死後、陰府の世界で、誰があなたを賛美し、ほめたたえることなどできるでしょうか、と言っています。

スゴイ言い方ですね。

こんなことを言える人はそう多くないですね。

ダビデは自分の死を恐れ、そうならないように助けてください、とは祈っていません。

どういうことでしょうか。

彼は、どこまでも、主なる神との関係の中で自分の死の現実と向き合っています。

死の不安、厳しい現実に置かれている時、このダビデの祈りを、わたしたちも同じように祈ることができるでしょうか。

6篇の後半は次回に続きます。

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「信仰告白」

2021年02月19日 05時32分39秒 | 詩篇より

 

さらに詩篇5篇の続きです。

普通、自分に対して敵意をもつ人たちがいる時、わたしたちはどういう祈りをするでしょうか。

その人たちに対して、自分はどういう態度を取り、どういう対応をすべきかを教えてくださいと祈りませんか。

しかし、この詩篇の著者は、そういうことを求めていません。

自分が何とかしようとするのではなく、主の裁き、主のなしてくださることを求めています。

ここにも王なる神の裁きを求める祈りが続きます。

 

詩篇5:10~12

神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、

その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。

彼らはあなたにそむいたからです。

しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。

また、み名を愛する者があなたによって喜びを得るように、彼らをお守りください。

主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、

恵みをもってこれをおおい守られます。(口語訳)

 

王なる神の裁きには二つの面があります。

一つは悪しき者がその罪のゆえに裁かれるのです。

もうひとつは、正しい者が守られ、祝福されるのです。

「正しい者」とは、「すべてあなたに寄り頼む者」であり、「御名を愛する者」です。

そして、新約の光に照らす時、「正しい者」とは、主イエスを信じて、罪を赦され、義とされた人たちのことです。

王なる神は義とされた正しい者を守られる方であると言っています。

これはダビデの信仰の告白です。

神は自分にとってどのような方であるかを祈ることは、信仰の告白とも言えるからです。

信仰の告白は、洗礼を受ける時にもしますが、主に祈る祈りの中でもできるのです。

詩篇の中にはこのような信仰の告白の祈りがたびたび出てきます。

 

さらに11、12節では、主に寄り頼む人、主の御名を愛する人、義とされた正しい人は、

自分に敵意をもつ人たちの中にあっても、喜び、呼ばわる者であることをあかししています。

周囲の厳しい状況に影響されず、主との関係の中で心に、霊に喜びと力を与えられています。

スゴイですね。

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「わが王」

2021年02月16日 05時28分28秒 | 詩篇より

 

詩篇5篇の続きです。

ダビデは、この時、自分を脅かし、苦しめる人たちのために悩まされていたようです。

この人たちのことで、ダビデは叫び祈っています。

 

詩篇5:4~9

あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。

悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。

高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。

あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。

あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。

しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、

聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。

主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、

わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。

彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。

(口語訳)

 

この祈りは、神の国と神の義を求める祈りだとわたしは思います。

5篇2節でダビデは、主に対して「わが王」「わが神」と呼び掛けています。

その王は、悪しき事を喜ばれない。

悪人は王のもとに身を寄せることはできない。

高ぶる者は王の目の前に立つことはできない。

王はすべて悪を行う者を憎まれる。

王は偽りを言う者を滅ぼされる。

 

その王は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる、と言っています。

一方で、その王は、豊かないつくしみのある方で、義をもって「わたし」を導かれる方です。

ですから、この祈りは、神の国と神の義を求めている祈りとも言えます。

このような祈りは、この個所に限りません。

主イエスは「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて与えられる」

言われました。

「求めなさい」と言われているのは、ダビデのように、わたしやあなたも祈りの中で神の国と神の義を求めて

祈ってもよいのですね。

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「朝ごとに」

2021年02月12日 05時07分23秒 | 詩篇より

 

詩篇5:1~9

主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。

わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。

わたしはあなたに祈っています。

主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。

わたしは朝ごとにあなたのために/いけにえを備えて待ち望みます。(口語訳)

 

わたしの嘆きに心を留めてください、と祈っているダビデ。

すべて問題のない快適で幸せな毎日を過ごしている人はこのような嘆き叫ぶ祈りをするでしょうか。

わたしはこのダビデのような境遇にない分だけ、このような切実な思いで主に祈っていません。

しかし、わたしにはわたしなりの不安や心配がないことはない。

そのことのゆえに、わたしも主を求め、祈る者とされています。

 

ここに「朝ごとに」と二度も言われています。

夜が来て、また朝が来る。このように一日が始まる朝を迎えるのは、

何千年も前のダビデと今日のわたしたちと、全く同じ環境に置かれていると言えます。

朝が来る。その時、ダビデのしていたことは、何でしたか。

主の前に出て祈り、主を仰ぎ見ることでした。

 

夜が明けて、同じように朝を迎えても、人によっていろいろです。

ダビデは、主のために「いけにえ」を備えて、主を待ち望むと言っています。

今日、わたしたちはどういう「いけにえ」を捧げることができますか。

羊や牛などのいけにえは、もちろん無理です。

しかし、主の前に時間を捧げ、賛美のいけにえ、感謝のいけにえを捧げることはできます。

朝から大声で賛美をするのではなく、賛美の歌を心の中だけで静かに歌うこともできます。

この詩篇によれば、主の前にそのようにいけにえを備えるのは何のためでしょうか。

その目的は、主を待ち望むことです。

バスを待つように、電車を待つようにです。

自粛生活の中でもできるでしょうか。

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