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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「神のいのちの表れ」(15)

2017年09月30日 07時28分31秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「うちにおられるキリスト」

教会宛の手紙という形でパウロの書いたものが新約聖書の中に多く残されています。
そのパウロの手紙は、単なる教えではなく、極めて個人的な手紙でありながら、それだけにパウロという人が如何にキリストのいのちを生きていたかを具体的に見ることができます。
今まで、そのいつくかを見てきました。
次のみ言葉からも、さらに、このことがハッキリ分かります。

2コリント13:5
あなたがたは、はたして信仰に生きているかどうか、自分のことを反省し、吟味するがよい。
あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。
イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることが分からないのですか。
もし分からなければ、あなたがたは失格者と見なされます。(私訳)

パウロがこのようなことを言っているのは、理由がありました。
実は、当時のコリントの教会のクリスチャンたちの中に、パウロの言っていることに疑問をもつ人たちがいたからです。
その人たちに対して、パウロははっきりと向き合っています。
2コリント13:3
なぜなら、あなたがたが、キリストのわたしにあって語っておられるという証拠を求めているからである。
キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強い。(口語訳)

パウロは自分がコリントのクリスチャンたちに語りかけているのは、キリストが自分を通して語っているのだという確信がありました。
すごい確信ですね。
人間的、常識的に見れば、「パウロは傲慢な人間だ」とも思われるかもしれません。
しかし、これは言い方を変えれば、自分のうちにおられるキリスト、そのいのちに生きている人の、その信仰のあかしであると言えます。

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「神のいのちの表れ」(14)

2017年09月28日 07時52分24秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「熱い思い」

神のいのちについて、一緒に学んでいます。
この何回かは、神のいのちを意識的に生きようとしていたパウロのことから学んでいます。
パウロはキリストにある神のいのちをどのように生きていたのでしょうか。
コリント人への第2の手紙から、いろいろと見てきましが、もっとあります。
パウロは、コリントのクリスチャンたちに対する自分のうちにある思いを単なる思いとは見ていません。
その自分の中にある思いは、実は、神がもっておられる熱い思いなのだと言っています。

2コリント11:2
あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。
なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。(新共同訳)

英語のある訳では、「熱い思い」が「ジェラシー」(しっと、ねたみ)と訳されています。
その「熱い思い」とは自分の婚約中の人が、他の男性の方へ心を向けたことからくる嫉妬心なのです。
パウロのうちにあった熱い思い、それは神がもっておられるのと同じ熱い思いでした。
実は、コリントのクリスチャンたちは婚約中であったキリストから離れて、別の福音に逸れていったのです。
「ああ、そうか。彼らは福音から逸れていったのだね。どうしようもないなー」とは、なりませんでした。
そのクリスチャンたちに対する神ご自身の熱い思い、「ジェラシー」にも似たその思いをパウロももっていたのです。
自分のうちにあるこの思いは神の思いでもある、という確信をもっていたパウロ。
聖霊は神の思いとパウロの思いを一つとされました。

いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。
それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。(1コリント2:11 口語訳)

それは、パウロがこのような厳しい状況の中で、聖霊によって神のいのちを意識していたからです。
主イエスを信じるあなたやわたしもこの同じいのちをもらっている者です。

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「神のいのちの表れ」(13)

2017年09月26日 07時49分59秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「偽りのない真実」

最近、嘘を言ってしまったということはありませんか。
嘘にも大きな嘘があり、小さな分からないくらいの嘘もあります。
あの人は嘘を言っている。
本当のことを言っていないと、人のことを疑うことはありませんか。
そんな人と付き合う場合は、気をつけなければなりません。
心を許せません。
そんな人とは安心できる信頼関係は持ちにくいと思います。

自分の書き送ったいくつもの手紙が、新約聖書の中に入れられているパウロという人のことから、神のいのちについて見ています。
パウロは自分がどういう思いで、どういう生活をしながらコリントのクリスチャンたちに仕えてきたかということを語っています。
そして、今話していることは決して嘘ではないということを、パウロはこのような言い方をしています。

「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います」(2コリント11:10口語訳)

短い言葉ですが、このような時にも、パウロは意識しています。
自分のうちにおられるキリスト、そのいのちからくる真実を意識しています。
単に、自分は嘘は言っていない、真実を語っている、とは言っていません。
キリストには嘘、偽りがありませんでした。
そのキリストの真実にかけて言うのだと言っています。
そのキリストは自分のうちにおられるキリストです。

嘘のない、真実だけを語ることは、そう簡単ではありません。
わたしもハッと気づいた時には、少し事実とは違うことを大げさに言ってしまうことがあります。それはハッキリした嘘ではないとしても、本当ではないことです。

主よどうか、内におられるキリストの真実にかけて話すことが出来るように、助け導いてください。

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「神のいのちの表れ」(12)

2017年09月24日 07時45分18秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「批判的に見ている人たちに対して」

今日は人間関係が難しい時代です。
学歴があってもなくても、お金があってもなくても、多くの人が身近な人との関係で傷つき、辛い思いをしています。
ですから、親しみやすい人、話しやすい人が求められている時代です。
そのせいか、そのような多くの落語家や芸能人がテレビで活躍しています。
わたしたちはその真似をする必要はありませんが、愛、喜び、平安などの神のいのちの表れである御霊の実をもっている人は、誰もが関係をもちやすい、近づきやすい人と言えます。
そういう人とお付き合いをし、友だちになりたいと思いませんか。
人との信頼関係がもちやすい人ですし、人との深い関係をもてる人です。

さて、パウロという人は、この神のいのちを意識していた人でした。
ですから、彼の書いた手紙の中にはあちこちにその様子を垣間見ることが出来ます。
少し前にも紹介しましたパウロのコリント人への第2の手紙の中からもう少し見ていきます。

パウロは、どうやらコリントの教会のあるクリスチャンたちに、
「あの人は面と向かっては弱腰だけど、離れていると強気の態度に出る人だ」と思われていたようです。
いや驚きますね。
2000年以上も前にも、教会の中にこんなことを言う人がいたのですね。
しかし、そのことを知ったうえでも、パウロは自分のうちにおられるキリストの柔和と寛容といういのちの実を意識していました。
自分のことをそのように批判的に見ているコリントのクリスチャンたちに対して、このように言っています。

2コリント10:1
私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。(新改訳)

キリストの柔和と寛容ですから、御霊の実ですね。
キリストがもっておられたその柔和と寛容をパウロももっていたのです。
パウロは、そう言った後に、結構言いにくいことをハッキリ言っています。
関心のある方は、その後のところは、ご自分でお読みください。

今、あなたに対して批判的な目で見ている人たちがいますか。
その人たちに対して、キリストの柔和と寛容をもって接することが出来るように祈りませんか。内におられるキリストのいのちが働き、そのような態度で接することが出来るようになります。

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「神のいのちの表れ」(11)

2017年09月22日 07時43分03秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「結果として実を結ぶ」

一般に多くの場合、わたしたちが求めているのは結果です。結果を出すとも言われます。それと、イエスの生涯に現わされているいのちによって結ばれる実との違いを見てきました。
それはわたしたちにも関係があるのでしょうか。
もちろん、大ありです。
御子イエスを信じる者は御子を持つ者であり、御子を持つ者はいのちを持っているのです。
御子を持つとは、言い換えれば、御子イエスにつながっていることです。
御子イエスとの深い関係を持っていることです。
その関係とつながりをもつ人は、御子のいのちが流れてきて、その結果として実を結びます。

ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。
わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。(口語訳)

素晴らしいみ言葉ですね。
多くのクリスチャンがよく知っているみ言葉です。
主イエスにつながって実を結ぶというのは、人が努力して結果を出すのとは少し違います。
結果を出すの「結果」という漢字をよく見てください。
果実を結ぶという意味ですね。
本来、これはいのちの結ぶ実という意味です。

人が努力して、頑張って、ある程度の実績を出すということは、分かりやすく、多くの人に注目されやすいのですが、こちらはミカンやリンゴの実を結ぶという場合と同じで、いのちの結果として表される実です。
そして、こちらのいのちの結果としての実の方は、意外と無視されやすいようです。
無視されるというのは、あまり評価されないということです。
どう思いますか。

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