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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「恐れに打ち勝つのは」

2025年01月03日 05時30分37秒 | 神の国とは

新しい年を迎えました。
あなたにとって何回目の新年でしょうか。
わたしにとっては87回目の新年を
迎えることになります。
この数字を見るだけで、自分でも驚いています。
ヨハネ19章の続きです。
ローマの総督ピラトが何を恐れたのかを見てきました。

19:12 これを聞いて、
ピラトはイエスを許そうと努めた。
しかしユダヤ人たちが叫んで言った、
「もしこの人を許したなら、
あなたはカイザルの味方ではありません。
自分を王とするものはすべて、
カイザルにそむく者です」。
 19:13 ピラトはこれらの言葉を聞いて、
イエスを外へ引き出して行き、
敷石(ヘブル語ではガバタ)という場所で
裁判の席についた。
 19:14 その日は過越の準備の日であって、
時は昼の十二時ころであった。
ピラトはユダヤ人らに言った、
「見よ、これがあなたがたの王だ」。
 19:15 すると彼らは叫んだ、
「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。
ピラトは彼らに言った、
「あなたがたの王を、
わたしが十字架につけるのか」。
祭司長たちは答えた、
「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
 19:16 そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。
彼らはイエスを引き取った。

ピラトはイエスを赦そうとしていました。
そのために何とかユダヤ人たちを
説得しようとしたのです。
しかし、結果はそうなりませんでした。

このピラトが良い人か悪い人かは別として、
このピラトの中に人間の今も変わらない姿が
見えています。
自分の立場を、
自分の現状を守ろうとする自己保身です。
それは「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と
叫んでいるユダヤ人たちにも言えることです。
彼らも何かを恐れていたのです。
総督ピラトはイエスを赦そうとしていたのですが、
自分を守るために結局は
ユダヤ人たちの言うとおりにしました。

もう一つ別の言い方も出来ます。
ピラトは恐れによって行動したのです。
ユダヤ人たちの言った言葉を恐れたのですね。
自分を王とする者を赦すことは、
ローマの皇帝カイザルに背を向けることになる
と言われ、恐れました。
これはある意味で、
ピラトにとっての決定的な恐れでした。
総督という社会的な地位、立場を
失うという恐れです。
その恐れから自分を守るために、結局、
この人はユダヤ人たちの言うとおりにしたのでした。

自分を守るために、恐れによって、
本当は自分の願っていないことをしてしまうのは、
2000年前の人間も今日の人間も
変わりありません。
ですから、聖書はこの人間の恐れの問題を
何度も取り扱っています。

アダムが善悪を知る木から取って食べた後、
罪が入ってきましたが、
同時に恐れが入ってきました。

創世記 3:10
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、
恐れて身を隠したのです」。(口語訳)

しかし、わたしたち主を信じる者は、
恐れなくてよいと言われています。

詩篇 23:4 
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、
あなたのつえはわたしを慰めます。(口語訳)

箴言 3:25、26 
あなたはにわかに起る恐怖を恐れることなく、
悪しき者の滅びが来ても、
それを恐れることはない。
これは、主があなたの信頼する者であり、
あなたの足を守って、
わなに捕われさせられないからである。(口語訳)

その他にも、
恐れについての多くのみ言葉があります。
新しい年、いろいろなことがあると思いますが、
これらのみ言葉をしっかり受け取り、信じ、
思いめぐらし、その信仰によって
恐れに打ち勝っていく1年としたいと思います。
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「神の国は近づいた」

2019年05月03日 10時01分37秒 | 神の国とは

これまで話してきた「人間をとる漁師」のお話から、神の国との関係の中で、イエスとはどういう方なのかを見ていきたいと思う。

まず、このお話はどういうところから始まったのか。

ペテロが頼んだのではなく、イエスがペテロの舟に乗り込んでこられたことから始まった。ここに神の国の始まりを見る。

まず、ここでは神の王国の王である方、イエスが主導権を取っておられる。

誰かに頼まれたからではない。

その時はまた、ペテロが自分の漁の世界で自信を失い、疲れを覚えていた時でもあった。

また、そのペテロにイエスから声がかかったのだ。イエスはご自身から声をかけて、主導権を取っておられる。

「沖へ出て網をおろし、漁をしなさい」と。これは、こうしてみてはどうかという提案ではない。

イエスは命令的に言っておられ、ご自身の神の国の王としての主権を表しておられる。

イエスはここでペテロの漁の世界、つまりペテロの国に入って来られたのだ。そこに神の国の主権と支配を表された。

神の国の中では、多くの魚もその権威に従っている。

もしかすると、その前にひと晩中漁をして何もとれなかったのは、魚たちが神の支配のもとに置かれ、コントロールされていたのではないか。

これは言い過ぎだろうか。

神の国でのイエスの主権と支配は、波や風を静め、魚や鶏さえも従わせるものであった。

そして、更に、

大漁の奇跡を目の当たりにして、ペテロは自分は罪深い者であることを示された。

これは、新たなイエスとの出会いと共に、神の主権と支配が現わされた神の国に触れたことによるものであった。

「神の国は近づいた」

そうだ。

これが神の国だと誰の目にも見えないが、神の国はこんなにも身近に表されたのである。

「神の国と神の義」を求める人に、神の国は見えてくる。

 

イエスの招きに応えて、ペテロは一切を捨てて、自分のこれまで生きてきた漁の世界、つまり自分の国から出て、人間を取る漁師となるためにイエスに従い、神の国の中に生きる者となったのだ。

やがて、このペテロたちはこの世から人間をとって神の国に入れる働きをする人になっていった。
この後のことは使徒行伝の中に詳しく記されている。

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「イエスのタイミング」

2019年04月30日 06時10分50秒 | 神の国とは

 

 

このお話全体を振り返って、もう一度、まとめてみたいと思う。

イエスはこのガリラヤ湖畔でいくつかのことをされた。

ひとつは、舟の中から群衆に教えられた。

次に、一晩中働いて、何の獲物も取れなかった漁師ペテロ個人的に声をかけられ、沖へ漕ぎ出し、もう一度漁をしなさい、と言われた。

主イエスは今日も大勢の人たちに一度に教えられることもあるが、個人的に声をかけられることもある。

ペテロの場合、それは特別な集会の場ではなく、仕事や生活の場であった。
更に、イエスがペテロに声をかけられたのは、本人が良い成果を出して自信のある時ではなく、一晩中一生懸命頑張って何の成果も出せず、疲れている時、そんな時にイエスは声をかけられた。

主イエスはこんなタイミングで大漁の奇跡をされた。

おびただしい魚がとれたこの大漁の奇跡はいったい何のためだったのか。
彼らの生活を助けるためだったのか。
舟を借りて群衆に話をさせてもらったお礼なのか。

ここで主の側に二つの目的があことが分かる

ペテロ「わたしは罪深いものです」と気づくこと。

「今から、あなたは人間をとる漁師になのだという召命のため。

魚が沢山とれて、素晴らしい結果を出すことだけが目的ではなかった。
この大漁の奇跡を通して、イエスは漁師ペテロに人生の使命を与えられた。

この話からイエスとはどういう方だろうか。

少し前の話になるが、ガリラヤ湖畔でのイエスの宣教の開始は、「悔い改めよ。天の御国は近づいた」という言葉だった。
またイエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」(ルカ4:43)と言っておられる。イエスは神の国の福音を宣べ伝えるとともに、神の国(天の御国)が近づいたことを表しておられる。

では、この「大漁の奇跡」のお話から、神の国をどのように見ることが出来るだろうか。

 

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「召しと選びの時」

2019年04月26日 06時30分37秒 | 神の国とは

 

イエスはペテロを、どの時点で人間をとる漁師にしようと考えられたのだろうか
シモンの学歴やプロフィールのことはご存じだったのか。

この質問で前回は終わっている。

この段階までに、イエスはペテロのことをどれだけ知っておられたのだろうか。

実は、この湖畔でペテロに会ったのが初めてではなかったかもしれない。

このお話の少し前、ルカ4:38~のところで、イエスはシモン・ペテロの家に行っておられ、そのしゅうとめの病気を癒された。

イエスはそこでペテロに出会っていたかもしれない。

それから何日か後、イエスは湖岸に立っている時、網を洗っているペテロの姿を見かけたのだ。

その後、ペテロの舟に乗り込んでおられる。それからペテロに頼んで岸から少しこぎ出させ、その舟に乗った状態で、群衆に教え始められたのである。
その時、イエスが話しておられる間、ペテロはどこにいたのだろうか。

群衆の中ではなく、イエスと一緒に舟の中にいたと思われる。

そうだとすれば、ペテロは誰よりも近い場所でイエスの話をずっと聞いていたことになる。

そして、話がひと通り終わると、イエスはペテロに声をかけられた。舟を出して、もう一度漁をしなさい、と。

イエスのこの一言は、ペテロには全く思いがけない、想像も期待もしていない言葉であった。

その後の話はご存知の通りだ。

ここで、最初の問いにかえるが、イエスがシモン・ペテロを人間をとる漁師にしようと心に決めておられたのはどの段階だったのだろうか。

ペテロの家で。

湖岸で網を洗っているペテロの姿を見られた

ペテロの舟に乗り込まれた時。群衆に語っておられる時

ペテロがもう一度漁に出ることにした時。

大漁の奇跡の後。これらのどの時点だろうか。

これはわたしの想像である。

ヨハネの福音書では、イエスは、自分は父なる神の言われることに従っているのであって、自分からは何一つしていないと言っておられる。

とすると、父なる神はシモン・ペテロのことをずっと以前から知っておられたはずである。

湖岸に立って網を洗っているシモンの姿を見た、その時に、イエスはもうすでに、この人だという思いを与えられていたのではないか。

シモンの舟に乗り込んで来られたのはそのためだったのではないか。

集まってきた群衆にお話をするためでもあったが、ペテロを人間をとる漁師にするという召命こそが目的であったのではないか。

イエスはペテロの漁という職場の真っただ中に乗り込んでこられた。

そこからすべてが始まったと言える。
次回に続く。

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「わたしは罪深い者」

2019年04月23日 06時38分00秒 | 神の国とは

 

イエスの言われる通りにしたところ、大漁の魚が取れたのだ。

網が破れそうになり、2そうの舟に一杯になった。

その時、シモン・ペテロは、主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言っている。

大漁の奇跡の現実を目の前にして、ペテロはなぜこんなことを言いだしたのだろうか。

別にイエスから罪についてのメッセージを聞いたわけでもない。

また、誰かに「あなたは罪深い人間だ」と言われたわけでもない。人からこんなことを言われると、逆に誰でも反発したくなる。

「わたしよりももっと悪い奴もいますよ」と。

しかし、ペテロは誰かに言われたのではなく、自分でそのことに気づいたのだ。

人のことは関係なく、自分自身の罪深い、醜い姿に気づかされたのだ。

だからだろうか、「わたしから離れてください」と言っている。

不思議だ。

 

普段は気づいていなかったのだが、わたしもある時、自分の醜い、汚い姿を見せられて、どうしようもない思いをしたことがある。

と同時に、その時、神の愛が迫って来たのを体験したひとりである。

 

その後、イエスはペテロに何と言われたか。

「恐れることはない」と言われた。

「わたしから離れてください」と言っているから、確かにペテロは恐れていたはずだ。

何を恐れていたのか。

恐れるといっても、それはイエスに対する畏敬の念に似た畏れだとも言える。

この方はいったい誰なのかという思いからくる畏れだった。

そして、その後に、

イエスは、「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言われた。

わたしから離れてください、と言っている男に対して、そのタイミングでイエスは、人生の大きな使命を与えられたのだ。

ここで、お聞きしたいことがあります。

このお話の流れの中で、自分で罪深い人間だと言っているシモン・ペテロを、イエスはどの時点で人間をとる漁師にしようと考えられたのだろうか。

シモンの学歴やプロフィールのことはご存じだったのだろうか。

どう思いますか。

 

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