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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

アマゾンからの出版のお知らせ

2020年10月31日 16時10分41秒 | 資料紹介

 

「聖書のストーリーから見えてくるもの」シリーズ7冊目、ヨハネ①

の電子書籍と紙の本が出版されました。

バイブルトークに関心のある方のために、電子書籍の無料期間は以下の通りです。

11月1(日)17:00~11月6日(金)16:59までの正味5日間。

なお、ヨハネ①から付録の質問集に加えて、

バイブルトークを実践しておられるおふたりの「あかし」が掲載されています。

 

1.本書シリーズ出版の意図するところは何か。

◎聖書をベースとして、この日本に神の国が拡大、前進していくための一役を担うためです。

◎家庭集会、小グループ、セルグループなどで信徒リーダーの助けとなり、バイブルトークを通して、

未信者への伝道、信徒の信仰の成長、教会形成のために貢献していくことを目指しています。

ということで、このシリーズの本は、単なる聖書の解説書ではありません。

 

2.本書で、「内容確認」、「教えられること」、「まとめ」と各ストーリーを段階に分けて、

展開している理由は何か。

グループで共に学んでいく上で、段階的な話し合いを通して、ひとりひとりが自分で真理に気づき、

新しい発見をすることを助けるためです。

そして、「まとめ」はリーダーが最終的に重点をまとめるための助けとなるものです。

ということで、本書は信徒リーダーが小グループをリードしていくことを助けるためのものです。

(このシリーズの本の付録・質問集は、フェイスブックに挙げている質問集を修正、編集したものです)

 

共に御国のために

 

追伸:

アマゾンの販売画面で、ヨハネ①のKindle版というところをクリックし、販売料金が0円となっていることを確かめて購入してください。販売画面でkindle Unlimted 0円となっているところはチェックしないでください。これは年会費を払っている人が0円で読めるという意味です。

 

浜崎英一

 

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「気づきと発見」

2020年10月30日 05時27分49秒 | 詩篇より

 

詩篇119:125

「わたしはあなたのしもべです。わたしに知恵を与えて、あなたのあかしを知らせてください」(口語訳)

「私はあなたのしもべです。私に悟らせてください。そうすれば私はあなたのさとしを知るでしょう」(新改訳2017)

「わたしはあなたの僕です。あなたが分からせてくだされば、あなたの定めを知ることができます」(新共同訳)

 

聖書を読んでいて、分からないところ、理解できないところに出会って、

不快な思いをし、いらだちを覚えることはありませんか。

わたしも全然ないとは言えません。

しかし、その時は分からなくても、後になって分かってきたこともいろいろあります。

この詩篇には、「あかし」「さとし」「定め」と、聖書によって違った訳になっていますが、

おおざっぱに言えば、内容としては「み言葉」のことですね。

わたしは、そのようにとっています。

 

聖書のみ言葉を理解し分かるかどうかは、その人の賢さ、頭の良さによるのだと思う人もいます。

あるいは、いろいろと専門的に聖書を学んでいる人には分かるのだと思う人もいます。

あるいは、信仰歴が長い人は聖書のみ言葉を深く理解していると思っている人もいます。

しかし、この詩篇の著者が言っていることによれば、ここにはまた別の意見があります。

上にあげた、意見とはだいぶ違っています。

つまり、主が分からせてくださるなら、み言葉は理解できるということです。

主からの識別力をもらう人は、み言葉が分かるというのです。

もちろん、誰かに教えられて分かることもあります。

その誰かももとをたどれば、主から教えられたのかもしれません。

主に求めるよりも人から教えられる方が手っ取り早いと思っている人はいませんか。

このみ言葉のもう少し先にこう書かれています。

「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(詩篇119:130新共同訳)

誰かから教えられて分かることもよいのですが、やはり主から教えられて、自分で分かるというのが素晴らしいですね。

わたしはそれほど賢くない、それほど信仰がないと思っていますか。

ここに「無知な者」にもと言われています。

そのような人にも理解が与えられます。

これはすごい!

主から教えられ時、自分で気づいたと思うこともあります。

もちろん、気づいたことがすべて主からのものとは言えません。

主から教えられるとは、言い換えると、気づきや新しい発見があったということです。

自己発見とも言います。

どう思いますか。

 

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「更に尋ね求めるもの」

2020年10月27日 04時35分54秒 | 詩篇より

 

詩篇119:92~94

あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。

わたしはあなたの命令をとこしえに忘れません。

それによって命を得させてくださったのですから。

わたしはあなたのもの。どうかお救いください。

あなたの命令をわたしは尋ね求めます。(新共同訳)

 

詩篇というのは、不思議なところです。

一度読んだから、もう分った、はい次、というような本ではありません。

さて、今日の個所には「律法」とか「命令」という言葉が出てきます。

どちらも、あまり人気のある言葉ではないと思います。

「律法」も「命令」も、主の口から出たものですから、わたしは「み言葉」と理解しています。

ダビデは、そのみ言葉を楽しみとし、喜びとしていたようです。

主のみ言葉を単なる知識として、情報として見ていなかったのです。

これはすごいですね。

そのみ言葉によって命を得ていた、つまり元気にされたということです。

元気とは気の元です。

ところが、そのようにすでに多くのみ言葉を与えられ、それによって理解を得、喜びを得、

いのちを得てきた人ですが、更にそのみ言葉を尋ね求めます、と言っています。

欲張りとも言えますが、不思議です。

与えられている人がもっと求めているのです。

味をしめた人はもっと求めるのに似ています。

与えられていない人はあまり求めないのかもしれません。

ここに主のみ言葉に対する姿勢がうかがえます。

どう思いますか。

 

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「判断力と知識」

2020年10月23日 05時22分02秒 | 詩篇より

 

詩篇119:66

確かな判断力と知識をもつように、わたしを教えてください。

わたしはあなたの戒めを信じています。【新共同訳】

 

自分のことを頭が良いと思っている人も、自分は頭が悪いと諦めている人も、

この人生を生きていく上で、それなりの判断力や知識が必要となってきます。

自分にはそれなりの知識や判断力があると思っている人もいます。

それが不足していれば、自分なりのやり方でそれを身につけようとします。

 

今日は、昔に比べて、必要な知識は簡単に手に入る時代です。

知識はその人の人生経験や人からの情報で身についていくものです。

生活の知恵もそうです。

何かを判断するその判断力も成長に応じて身についていくものです。

不思議なことに、知識や経験がまだまだ乏しい若い時は意外と自信があったのですが、

年を取ると、反対に自信が無くなるような感じもします。

 

いつでも、主に確かな判断力や知識を求めていくのは、自分にそれが足りないこと、

そして主がそれを与えてくださる方であると信じている人たちです。

この人生、いろいろな時に、わたしは自分に知識がなく、判断力が弱いことを思い知らされることがあります。

それをどのように補うのか、それは人それぞれです。

多くの人がそれなりのことをしているわけですが、それをその都度、

主に求めている人はそう多くないのではないでしょうか。

けれども、聖書のみ言葉から教えられ、判断力や知識をもつこと、

そういう経験をしている人たちは少なくないと思います。

そこには感動と喜びも伴います。

わたしもそのひとりですが、それは聖書の言葉を主なる神のみ言葉と信じているからです。

 

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「反面教師」

2020年10月20日 05時13分16秒 | 詩篇より

 

詩篇114:1~8

イスラエルはエジプトを、ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り

ユダは神の聖なるもの、イスラエルは神が治められるものとなった。

海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。

山々は雄羊のように、丘は群れの羊のように踊った。

どうしたのか、海よ、逃げ去るとは、ヨルダンの流れよ、退くとは。

山々よ、雄羊のように、丘よ、群れの羊のように踊るとは。

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前にヤコブの神の御前に、

岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。(新共同訳)

 

イスラエルの民がエジプトの奴隷の状況から救い出された、その出エジプトの状況は驚くべきものでした。

カナンの地に向かう民の前で、紅海は二つに分かれ、ヨルダン川はせき止められました。

これらはすべて、イスラエルの民が苦しみから救われるためでした。

エジプト人による苦しみ、抑圧から自由になるためでした。

ところが、出エジプトはそれだけが目的ではなく、他にも目的があったのです。

イスラエルが神の聖なる民、神が治められる民となるためでした。

「ユダは神の聖なるもの、イスラエルは神が治められるものとなった」

このイスラエルの民を通して、神はこの地上にご自身の国、すなわち、神の国を現そうとされました。

まさか岩から水が湧き出るはずはない、と思われるような硬い岩が水の溢れる所となりました。

そのことをこの民は経験しました。

渇く者はわたしのところに来て飲むがよいと言われたのはイエスさまでした。

新約の光から見る時、この岩はキリストを指すと言われています。

ところがです。

そのようなイスラエルの民は、この地上に神の国を現すという神からの使命、目的から外れていきました。

そのことは、旧約聖書に記されているイスラエルの民の歴史を見るとおりです。

今日、岩から飲んでいるキリストを信じる人たちの群れ、教会もこの神の国の使命を受け継いでいます。

そのために反面教師となったイスラエルの道を歩んではならないことが教えられています。

どう思いますか。

 

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