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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「口をつぐむことのないのは」

2021年12月10日 05時30分19秒 | 詩篇より

 

詩篇30篇の後半です。

 

 30:6 わたしは安らかな時に言った、

「わたしは決して動かされることはない」と。

 30:7 主よ、あなたは恵みをもって、わたしをゆるがない山のように

堅くされました。

あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました。

 

主が御顔を隠されたと言っていますので、

主なる神などおられないのではないかという思いになったのですね。

新共同訳では、「御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました」

となっています。

そのような中で、ダビデがどういう祈りをしたのかが8節以下です。

 

 30:8 主よ、わたしはあなたに呼ばわりました。ひたすら主に請い願いました、

 30:9 「わたしが墓に下るならば、わたしの死になんの益があるでしょうか。

ちりはあなたをほめたたえるでしょうか。

あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。

 30:10 主よ、聞いてください、わたしをあわれんでください。

主よ、わたしの助けとなってください」と。

 

多分、これは一晩だけの祈りではなかったと思います。

このような祈りが何日続いたのかは分かりません。

何の反応もなく、感じることもない神に祈り続けることは

簡単ではありません。

しかし、お金があっても無くても、頭が良くても悪くても、

そういうことに関係なく誰にでもできることです。

 

ダビデはただ癒されて、元気になることだけを祈っていません。

癒されて、主をほめたたえる者となり、主のまことを宣べ伝えるためだ

と言っています。

何のために癒されるのか、普通の生活に戻るのは何のためなのかを

ハッキリさせて祈っています。

その後、喜びと解放の朝が来ました。

 

 30:11 あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、

喜びをわたしの帯とされました。

 30:12 これはわたしの魂があなたをほめたたえて、

口をつぐむことのないためです。

わが神、主よ、わたしはとこしえにあなたに感謝します。

 

「あなたをほめたたえて、口をつぐむことのないためです」とあります。

ここから賛美について教えられます。

あなたは賛美がお好きですか。

わたしは歌が上手い、声がよいとは言えませんが、賛美が好きです。

ひとりでいる時にも歌います。

耳の良い家内に、少し音程が狂っているのでは・・・と

言われることもあります。

ひとりで歌っている時は、そんなことはまったく気になりません。

 

賛美は自分が恵まれるための讃美ではありません。

もちろん、人に聞かせるための讃美でもありません。

賛美は主がして下さったことに対する感謝のための讃美です。

主がどういう方であるかを告白する賛美です。

 

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「朝と共に喜びが」

2021年12月07日 05時30分42秒 | 詩篇より

詩篇30篇に入ります。

詩篇は他の聖書の訳と比べると、かなり訳が違うところがありますが、

ここでは口語訳を基本として、取り上げています。

他の聖書の訳を比較しながら、読むことで内容がハッキリしてくることも

少なくありません。わたしは口語訳を基本として、

新共同訳、新改訳2017、英語訳NKJV、NIVなどを参考にしています。

 

詩篇30篇1-12節(口語訳)

宮をささげるときにうたったダビデの歌

 30:1 主よ、わたしはあなたをあがめます。

あなたはわたしを引きあげ、敵がわたしの事によって喜ぶのを、

ゆるされなかったからです。

 30:2 わが神、主よ、わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、

あなたはわたしをいやしてくださいました。

 30:3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、

墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。

 

ダビデをおとしいれる敵意をもった人たちがいたようです。

それは外国の敵であったかもしれませんが、信仰に生きていたダビデでも、

周りにいる人たちが皆が皆、好意を持ってくれる人ばかりではなかった

ようです。

また、人間関係で辛い思いをしていただけではなく、

彼は健康にも問題があったようです。

主に叫び求めると、癒されたと言っています。

敵意をもった人たちが、そのことで喜ぶことを主は許されなかったのですね。

 

自分のことを面白くないと思っている人たちのことや病気のことにだけに

心を奪われ、他のことは考えられないような時ですが、

敢えてダビデは目に見えない主に心を向けて祈っています。

そして、光の見えない暗く悲しい夜が明けて、

明るい朝の陽ざしが差し込んでくるような癒しと解放を経験したのです。

 

 30:4 主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。

 30:5 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。

夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。

 

この4、5節は素晴らしい言葉ですね。

この言葉がほぼそのまま賛美になっています。

ご存じですか。

「主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。

主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。

その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり

夜は~よもすがら~泣きかなしむとも、朝と共に~喜びが来る。」

歌になってませんが、知っている人は思い出しましたか。

 

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「栄光と力」

2021年12月03日 05時30分50秒 | 詩篇より

 

詩篇29篇の続きです。

「力と栄光」は何もスポーツの世界に限りません。

世界的に有名なノーベル賞という栄誉ある賞もあります。

その賞を受けた人は世界中の人から称賛を、栄光を受けます。

これは肉体的な力ではなく、知能や賢さの分野での実力が

称賛されるのですね。

ノーベル受賞者の知能や能力は、目には見えませんが、

何かを発見し生み出したという、その結果から見えてくるものです。

 

人間のつくりだす力と栄光は一時的で、やがて忘れられていきますが、

人は力を称賛し、そこに栄光を与えることを喜びとしています。

人間はそのようなものとして創造されています。

 

力と栄光を求める、その究極は、主なる神に向けられるものです。

この詩篇29篇では、人の目に見えない主なる神が、目に見えるもの、

耳に聞こえるものによってご自身の力を、知恵や能力を表しておられます。

著者のダビデは、そのことを詩として、歌として

感動をもって表現しています。

「主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。」

主なる神は、この自然界において、ご自身の御声をもって、

力を表しておられます。

そして、主の宮では、主を信じる者たちが、

「栄光」と言い、目に見えない主の力を称賛し、栄光を帰しています。

つまり、主なる神をそのような方として礼拝しているのですね。

 

そして、11,12節にはすばらしい信仰告白とすばらしい約束、

祝福が記されています。

 

は大洪水の前から御座に着いておられる。

はとこしえに王座に着いておられる。

はご自分の民に力をお与えになる。

はご自分の民を、平安をもって祝福される。(新改訳2017)

 

主の力を認め、その主の栄光を賛美していく、その結果として、

力が与えられ、平安をもって祝福されるのです。

これが反対になって、力や平安を求めて礼拝することはありませんか。

 

 

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「力を称賛し栄光を与える」

2021年11月30日 05時53分51秒 | 詩篇より

 

詩篇29篇に入ります。

これは11節までの短いところですが、ダビデの歌で、

28章までのところとは、またガラッと変わっています。

この29篇のキーワードとも言える言葉は、力と栄光です。

力、栄光、言葉としては、何か抽象的な、現実離れした言葉と思えませんか。

 

29:1 神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。

 29:2 み名の栄光を主に帰せよ、聖なる装いをもって主を拝め。

 29:3 主のみ声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ、

主は大水の上におられる。

 29:4 主のみ声は力があり、主のみ声は威厳がある。

 29:5 主のみ声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる。

 29:6 主はレバノンを子牛のように踊らせ、

シリオンを若い野牛のように踊らされる。

 29:7 主のみ声は炎をひらめかす。

 29:8 主のみ声は荒野を震わせ、主はカデシの荒野を震わされる。

 29:9 主のみ声はかしの木を巻きあげ、また林を裸にする。

その宮で、すべてのものは呼ばわって言う、「栄光」と。

 29:10 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、

とこしえに王であらせられる。

 29:11 主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。

(口語訳)

 

テレビで相撲を見ていますか。

大相撲では、力士と言われますが、その力ある人たちが相撲をして

競い合います。

これはとてもわかりやすい「力」です。

そして、15日間、戦い抜いて、千秋楽の土俵の上で、

ひとりの力士に優勝カップが与えられます。

場内からは大歓声が起こります。

つまり、戦い抜いて優勝したひとりの力士が「栄光」を受けるのですね。

 

相撲に限らず、野球や、サッカーなどスポーツの世界で、

競い合い勝ち抜いた人やチームにナニナニ賞という栄光が与えられます。

これらはみな、同じパターンです。

「力と栄光」です。

ということはどういうことでしょうか。

人は昔も今も皆、力を称賛し、それに栄光を与えているということです。

不思議だと思いませんか。

この観点から、もう一度、詩篇29篇を読んでみてください。

 

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「祈りが聞かれた」

2021年11月26日 05時30分58秒 | 詩篇より

 

詩篇28篇に向き合う時をもっています。

これで3回目ですが、最後に、もう一つ大切なことがあります。

この28篇の5節から6節に変わっていくところです。

お気づきになったでしょうか。

1節から2節は、自分の祈りが聞かれることを祈っています。

3節から5節までは、悪しき者のことで、主が彼らに報い、

受けるべき罰を与えてください、と祈っています。

 

ところが、突然、6節では、「主はわたしの願いの声を聞かれた」、

7節では、「わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、

歌をもって主をほめたたえる」と言っています。

祈りは聞かれて、ダビデはとても喜んでいるようです。

 

では、この6節以降が書かれたのは、少し間があり、

何日か後のことでしょうか。

28篇は比較的短いダビデの詩であり、祈りですが、

何日か後に6節以降のことを書き加えたというのも不自然です。

では、6節以降突然、このように祈りが変わっているのは、

どういうことでしょうか。

 

想像できることがあります。

ダビデの心に、このような変化が起こったのではないか。

自分の正直な心や思いを主の前に祈り、

また主なる神がどういう方であるかの信仰を告白していった祈りの中で、

彼の心の思いが変わったのです。

どう変わったのでしょうか。

自分の祈りが聞かれたという思い、確信のようなものが与えられたのです。

あなたも似たような経験があったのではありませんか。

主の前に祈っていく時、祈り始めた時の思いと、

後の思いが変えられていくことを経験している人は少なくないと思います。

この祈りは聞かれた、という確信もその一つだとわたしは思います。

そして、この祈りが聞かれた、という確信の後に、

主なる神がどういう方であるかの信仰の告白が続いているわけです。

 

ここで、主イエスのみ言葉を思い出します。

「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、

すでにかなえられたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ 11:24 口語訳)

 

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