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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「フォーマルとインフォーマル」

2018年07月29日 06時32分00秒 | 聖書の真理発見

 さて、聖書の話から今現在の話に移ります。
今日、人がイエスと出会うと何が起こるのでしょうか。
今日、この日本の社会で人はどのようにイエスに出会うことが出来るのでしょうか。
今もそれは起こるのでしょうか。
どう思いますか。

 これはわたしの意見であり、経験でもあります。

今日も人がイエスに出会うと、
・その人の心に何らかの変化が起こる。

・その人は、自分が赦され、愛され、受け入れられていることが分かる。

・その人の価値観、人生観が変えられる。

他にありますか。

あなたの場合はどうでしたか。

今日、人はどのようにイエスに出会うことが出来るのか。
 ①そのもっとも良い情報源はもちろん聖書。
聖書研究として多くの知識を得ることも出来るが、しかし、イエスとはどういう方かを学ぶのがポイントです。

エマオの途上の復活のイエスは、ふたりの弟子たちに聖書全体からキリストについて説き明かされました。

「この聖書はわたしについてあかししている。」とイエスご自身が言っておられます。

ですから、今日も人は聖書を通してイエスのことを知り、イエスのもとへ行き、イエスに出会うことが起こります。

 ②もう一つは、すでにイエスに出会っている人のあかしによって。

 ③イエスに出会うために必要なことは何か。

  • その人がイエスについて聞く必要があります。
  • その人がイエスと出会った人のあかしを聞くことも出来ます。
  • 今日、主イエスを求めている人がイエスと出会う、その一つの方法は祈りである。
    祈りの中で、聖霊の導きによってイエスと出会うことが起こります。
  • 祈りの中で、主が何か語られたことがないかを聞くこと。これも主に出会う機会となります。
  • ザアカイのように主イエスを自分の心に迎える人は、主に出会います。
  • 祈りの一例です。

  「父なる神さま、わたしは完璧な人間ではありません。心に葛藤もあり、いろいろな問題もあ
  ります。主イエスさまがこの罪深いわたしのためにも十字架で死んでくださったことを信じま
  す。
イエスさま、今、あなたを心にお迎えします。どうぞ、わたしのうちに来てください。
  ア
ーメン」

ザアカイの家にイエスは行かれました。「家」とは、その人の普段着の姿、本当の自分を出すところです。その家が、ザアカイにとってイエスとの出会いの場となりました。

日本人は特に、フォーマルとインフォーマルとを使い分けますね。

何かの正式な集まりがあると、後に二次会をやったりします。

今も、主イエスが出会うことを願っておられるのは、その人のよそ行きの姿ではなく、家にいるありのままのその人です。

 

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「インサイドアウト」

2018年07月26日 06時00分00秒 | 聖書の真理発見

 ザアカイが立ち上がって、主に言いました。
「主よ。ご覧ください。私は自分の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、だまし取った物は、四倍にして返します。」

 

 それは人から言われて、そうすると言い出したのでしょうか。

 

「ザアカイ、あなたは金持ちじゃないですか。その金ももともとは不正な取り立てで手に入れたものでしょう。今、この時、何かの決断をする時ではないですか。」

 

イエスにも同じようなことを言われて決断したことでしょうか。

 

 そうではないですね。

 

 それはザアカイが自分から言い出した自発的な決断であったのだと、わたしは思います。

 

イエスはそのザアカイの言葉を聞いて、「今日、救いがこの家に来た」と言われました。

 

木の上でイエスの呼びかけを聞き、それに答えてイエスを家に迎え入れたザアカイは、そこでイエスとの出会いを経験しました。ですから、この決意表明は、その出会いによって変えられた救いに感謝しての心からの精一杯の自主的な応答だったのだと、わたしは信じます。

 

ですから、イエスはこのザアカイのことを高く評価されたのです。

ザアカイの外側の行動だけが変わったのではなく、彼の内側が変わったことで、外にそれが現わされたのです。これはインサイドアウトによるものです。
同じような行動であっても、人に言われてやる場合もありますし、決まっていることだからやると場合もあります。また、人がやっているから自分もするという場合もあります。
ですから、外見だけでは分かりませんね。

 

 政治の力や誰かの教えで人はこのように変ることはあるでしょうか。

 

日本の多くの宗教とキリスト教を比較して敢て言えることがあります。
多くの宗教は、ああすべき、こうすべきという教えが中心ではないですか。一方、キリスト教はイエスとの人格的な深い出会いから起こる自発的な態度や行動が重視されます。

 

 クリスチャンが内側の動機から自発的にやっていることも、人の目には義務的に、しなければならないからやっているのだと見られることもありませんか。
具体的にはどういうことがありますか。

 

 

 

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「イエスに出会うなら」

2018年07月23日 05時42分30秒 | 聖書の真理発見

 ザアカイの話をしてきましたが、ここで、わたしのささやかな証です。

 今も、イエスが失われた人を探しておられるというのであれば、主よ、どうぞ、わたしにも失われた人に出会わせてくださいと、ある時から祈っていました。

 そして、NPO法人のあるグループホームに出会いました。そこにいる人たちは、薬物依存、アルコール依存、DVの被害者などなど家庭や社会から切り離された女性たちでした。そこに行くようになって3年余りになりますが、この日本の社会にこのような人たちがいるということを改めて知らされ、この人たちが失われた人たちであるなら、今も、イエスはこの人たちを探しておられるのだと実感させられています。

 そこで聖書の話を毎回していますが、だからと言って、全員がイエスに出会ったということではありません。しかし、感謝なことに、何人かは出会っています。

今日もイエスに出会うと、人は変えられ、希望をもって生きる人になるのだということを教えられています。

わたしの出来ることは限られていますが、そこでしか学べないこともあり、感謝して毎回出かけて行っています。

 

最初ザアカイは、群衆にさえぎられてイエスを見ることが出来なかったのです。イエスのことを知りたいと思っても、今の時代もいろいろな妨げがあります。

人から誤解されることもあります。キリスト教かという偏見の目で見られることもあります。それであきらめてしまう人もいるのですが、ザアカイはあきらめませんでした。妨げがあったことで、逆に木に登ることになったのです。

イエスはどうやらザアカイのその心も思いも知っておられたようです。そのザアカイと個人的な関係をもちたいと思い、その家に泊まることを申し出られたのです。ここにひとりの失われた人ザアカイに対するイエスの思いがどれほどであったかが現れています。

 ヨハネ2:24-25
しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。(口語訳)

 

あなたの周りにも、イエスが探しておられる失われた人がいると思いますか。

その人もイエスに出会うなら、救われるとわたしは信じています。

伝道とは、難しい話をすることではありません。
今日もイエスに出会うなら、人は救われるということであれば、神学的な難しい話をする必要はありません。

イエスに出会うことを目指して、このような聖書の中のお話からイエスがどういう方であるかを一緒に見ていくなら、そこに聖霊の働きにより、イエスに出会うことは今でも起こると、わたしは信じています。

 

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「失われた人とは」

2018年07月20日 04時34分53秒 | 聖書の真理発見

 木の上に登っていたザアカイに、下からイエスは声をかけられました。

「ザアカイ、急いで降りてきなさい。・・・」

この時、イエスは初対面のザアカイの名前をどうして知っていたのでしょうか。

イエスを自分の家に迎えたザアカイは、突然、ある決意表明をしました。

イエスは、それを聞かれ、今日、この家に救いが来た、と言われました。

 

そして、イエスは、この話しのまとめとして最後に、次のようなことを言われました。

「人の子(イエス)が来たのは、失われた人を捜し出して救うためである」

 

ここでイエスが言われる「失われた人」とはどういう人のことだと思いますか。

イエスはどういう人を「失われた人」と見られるのでしょうか。

今も、イエスは失われた人を探しておられるのでしょうか。

失われた人とは、いるべき所からいなくなった人のことです。

「迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか。
名前を聞いても分からない。おうちを聞いても分からない。・・・・」
この歌をご存知ですね。

自分がどこから来たのか、これから先、どこに行くのかが分からない人です。

また、自分自身のことも分からない人です。

居場所も分からない人です。

本来いるべき場所からいなくなった人、そのような人をイエスは今も探しておられます。

ザアカイはそのような人でした。


ここでイエスとはどういう方でしょうか。

そこには大勢の人がいたが、イエスはザアカイに目を留められ、声をかけられた。他の大勢の群衆のことは無視しておられる。イエスは人の人気や評判を気にしておられない。
ご自分をひと目見ようとしている失われた人ザアカイの救いを願っておられた。

それはザアカイのことをよく知っておられたからだ。

その名前だけではなく、大の大人が木にまで登っている、その心のうちも知っておられた。

イエスがどんな方かを知ろうと求める人、その人にイエスは目を留め、近づいてこられ、声をかけ、出会ってくださる方である。

 

主イエスは今日も、失われた人を尋ね出して救おうとしておられるのでしょうか。
今日も、主イエスは人に目を留め、声をかけられるのでしょうか。
今日、それはどのようになされるのでしょうか。

箴言8:17
わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

 

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「罪ほろぼし?」

2018年07月16日 09時03分40秒 | 聖書の真理発見

木の下からイエスに声をかけられ、ザアカイは喜んでイエスを自分の家に迎えました。

どのくらい時間がたったのでしょうか。突然ザアカイは立ち上がって、決心を表明しています。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

どうして、急にザアカイはこんなことを言いだしたのでしょうか。

これを聞いて、他の人たちはどう思ったでしょうか。

ザアカイは、誰かに何か言われたのではないか。

ひざ詰めで、イエスにお説教をされ、罪ほろぼしをするように言われたのではないか。

いくら金持ちでも、それはやり過ぎではないか。そんなことをすれば、後にどれだけ残るのかを考えているのか。

あなたはどう思いますか。
どうして、ザアカイは急にこんなことを言いだしたのでしょうか。

 

では、そのザアカイの言葉を聞かれたイエスは、それをどのように受けとめられたでしょうか。

 「今日、この家に救いが来た」とイエスは言われました。

では、ここでザアカイに起こった救いとはどういうことだと思いますか。

ザアカイは何をしたので救われたのでしょうか。

貧しい人に財産を半分施し、不正な取り立てをした人には四倍にして返す、と言ったので救われたのでしょうか。

 

ある宗教に入っていた人が、こんなことを言っておられたことを思い出します。

あなたの問題が解決するには、「ももの献金」をする必要がありますよ、と言われたそうです。
「もも」とは分かりますか。百のことですね。100円ではないですよ。

 

普通どの宗教でも、救われるため、問題が解決するためには、これこれのことをしなければ・・・・・と教えられるようです。

 

ザアカイの場合、いくらお金持ちであったといっても、ここまで言うというのは、どういうことかと思いませんか。

キリスト教もやはり、他の宗教と同じではないか、と思われるような話です。

 

ザアカイは、救われるために、このようにすると言ったのではありません。

救われたあかしとして、こういうことをすると言ったのだとわたしは思います。

では、ザアカイは何をしたので救われたのでしょうか。

どう思いますか。

 

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