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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「あなたはどういう者であるか」

2021年12月31日 05時30分34秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

イエスさまは、生まれてすぐに貧しい飼葉おけの中に寝かされました。

狐には穴があり、空の鳥には巣がある。

しかし、人の子には枕するところがない、と言われたこともありました。


つまり、イエスさまは、ホームレスだったのですね。

生まれ、育ちが貧しく、また人並みに住む家もないような生活をされていた

イエスでしたが、

だからと言って、自分を惨めに思い、そのような生活を恥じていた

わけではありません。

なぜでしょうか。

 

一つは、イエスはご自分が何者であるかを知っておられたからです。

神を冒涜する者だというレッテルを張られ、

最後は十字架に処刑されて、命を引き取っていかれた、その生涯は、

何と惨めな一生であったかと見られるかもしれません。

そのような人生を生きられたイエスは、

しかし、ご自分が何者であるかというアイデンティティを失うことは

ありませんでした。

 

人は一般に、その人がどんな生活をしているか、何を食べ、何を着、

どんな車に乗って、どんな家に住んでいるかという、そのような観点から、

その人を評価する傾向があります。その人の人間としての値打ちや価値が、

そこから判断されるのです。

 

それと同じように、その人がどのくらい聖書を読んでいるか、

どのくらい祈っているか、何年くらい教会に行っているか。

そういう観点から、人の信仰、信仰の成長度が判断されることがあります。

 

あっ、わたしは聖書を読むこと、祈ること、賛美すること、

教会の集会に出席することが大切なことではないと言っている

のではありませんよ。

これらは大切なことですが、しかし、ローマ人への手紙などのパウロの書簡、

聖書をよく読んでみると、何かが違っていることがわかります。

その一つは、主イエスを信じたあなたやわたしのことを何と言っているかです。

それはちょっと言い過ぎではないかと、思えるような

ビックリするようなことが言われています。

 

少しノートに書き出してみましたか。

書き出していない人のことをわたしは、宿題をしてこなかった生徒のように

思ってはいません。

1章にはもう一つありました。

 

ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。

わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、

恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(ローマ1:7 口語訳)

 

ここには主イエスを信じたあなたやわたしが、

「神に愛され、召された聖徒」と言われています。

聖徒とは、生徒ではなく、聖なる人という意味です。

 

わたしの学生時代のあだ名は、セイント・ハマサキでした。

酒もたばこも飲まないので、そういうあだ名をつけられただけです。

聖徒とは、英語ではsaintです。

これはちょっと信じられないですか。

主イエスを信じているあなたは神に愛されている聖なる人です。

 

次に、ローマ人への手紙の2~4章にはあまり見つからないのですが、

その中の3章22~24節から言えることがあります。

ひと言で言えば、主イエスを信じる者は、神によって義とされている人です。

キリストの十字架の贖いのゆえに、こちらは何もしていないのに、

罪を赦され、義とされた者として神の前に立てるのです。

世間の人にそう見られるのではありません。

義と聖なる神の目にそう見られるのです。

誰のことですか。

主イエスを信じているあなたやわたしのことです。

 

ということで、後は、ローマ人への手紙5章以降から探してください。

あなたやわたしがどういう者であるかについて、

そこにも素晴らしいみ言葉が出てきます。

さらに自分探しの旅を続けて、一緒に探して、書き出してみませんか。

あなたやわたしの新しい年の新しい出発のためでもあります。

 

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「自分探しの旅」

2021年12月28日 05時30分30秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

今年も残り少なくなりました。

年を取ると時間が過ぎるのが早く感じられるという話は、もうしましたね。

同じ話はやめときます。

 

詩篇に帰るのは、もう少し後にして、年末と年始に、

一つのテーマを取り上げたいと思います。

わたしはグループでやっているバイブルトークでは、

主として福音書のストーリーを取り上げています。

では、パウロの手紙などのところは取り上げないのか、と聞かれることが

あります。

それで、ここでローマ人への手紙を取り上げたいと思います。

そうです、福音書のストーリーと比べて、やや難しいところです。

そこをわたしが解説していくということはしたくありません。

いや出来ないと思います。

それで、あなたと一緒にやっていきたいことがあります。

そんなに難しいことではありません。

ただ、探すだけのことです。

何を探すのかと言いますと、

主イエスを信じている人のことを

聖書は、このローマ人への手紙では、どう言っているかということです。

 

いろいろな言い方が出てきますが、それはイエスを信じている

あなたやわたしのことでもあります。

 

あなたは自分のことをどう思っていますか。

自分のことをやや高めに見ている人、

やや低めに見ている人、

ありのままの自分を受け入れている人

 

といろいろあると思いますが、聖書の見方はまた別です。

例えば、

ローマ 1:6 あなたがたもまた、彼らの中にあって、

召されてイエス・キリストに属する者となったのである――(口語訳)

新改訳2017訳では、こう訳されています。

ローマ 1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも

召されてイエス・キリストのものとなりました──

 

つまり、あなたやわたしは召されて(神に呼ばれて)、

イエス・キリストのものとなったのです。

神の言葉である聖書がそう言っています。

あなたは誰のものでもない、主イエスのものです。

信じていますか。

 

このローマ人への手紙全部を読んで、このようなところ(あなたは

どういう者であるか)を見つけて、ノートに書き出してみませんか。

時間のない方は、1章ずつ少しずつやっていくこともできます。

もちろん時間のある方は、ローマ、コリント、ガラテヤと進んで行っても

かまいませんよ。

さらに多くのことが分かってくると思います。

ちょっとした自分探しの旅となるでしょうか。

 

主なる神はイエスを信じているあなたのことをどう見ているか。

それが分かるとびっくりするばかりです。

それが分かったからと言って、何がどうなるのでしょうか。

あなたやわたしの心の思いが変わります。

面倒なことをお願いしていますが、

それはきっとあなたのためになると思います。

これも自分で探して、自分を発見する、自己発見のためです。

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「延長線が切れる時」

2021年12月24日 05時30分46秒 | クリスマス・ストーリー

 

婚約者のマリアに赤ちゃんが出来たという話を聞いて、

それは聖霊によるものであると説明されても、信じることができず、

マリアと離縁することを決心していたヨセフでした。

その決心に至るまで、彼がそのことで、どんなに悩み苦しんだかは、

想像できないことではありません。

この悩みを彼は誰かに相談できなかったのでしょうか。

身近な両親や家族、信頼できる人に相談できなかったのでしょうか。

自分自身が信じられないことを、他の人に相談しても結論は同じだ

と思ったかもしれません。

逆にこの話が他の人に知られることになれば、大変なことになります。

マリアはこのままではすまなくなります。

20代になっていたかどうかの若者にとって、

これは大変な決断でしたが、彼は誰にも相談せず、離縁を決心しました。

マリアのことが表ざたにならないで、密かに離縁し、

彼女がどこかに姿を隠すことを考えたのかもしれません。

 

そのように悩み苦しんでいるヨセフは、ある晩、夢を見ました。

その夢の中で御使いが現れ、こう言われたのです。

 

「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。

その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。

彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。

彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

(マタイ1:20,21口語訳)

 

聖霊によるものであるのだから、あなたは心配する必要はない、

わたしがすべて責任を取る、と主は言っておられます。

主は責任を取られるだけではなく、ここには神の大きな計画があるのだ

と言っておられます。

ヨセフはマリアの妊娠が聖霊によるものであることを理解できた

のではありません。主のみ言葉を信じて受け取り、胎児イエスを宿した

マリアをそのまま受け入れたのです。

 

それにしてもです。

主なる神は、ヨセフがこんなに悩み苦しむことのないように、

なぜ、もっと早くこのような夢を通して語ってくださらなかった

のでしょうか。

この点で、今年、新しく主に示されたことがあります。

主なる神は、ヨセフの今までの歩みの延長線の上で、

何か新しいことをされたのではありません。

マリアとの愛し合う婚約時の素晴らしい時でしたが、

その人生が挫折し、苦悩の中を通されたのです。

それは、今までの日常の歩みの延長線が一度、切れることになります。

その向こうで、主は語りかけ、また新しいことをされたのです。

ヨセフは苦悩の中を通され、主の語りかけを聞き、

マリアと胎児のイエスを受け入れ、そして彼の新しい人生の歩みが

始まりました。

あなたの人生にもこのようなことはありませんでしたか。

 

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、

わが幸福のためであった。

あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。

これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられた

からである。」(イザヤ38:17口語訳)

 

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「信じられない話」

2021年12月21日 05時30分02秒 | クリスマス・ストーリー

 

聖書の個所としては、前回の個所と後先が前後しますが、

クリスマスのストーリーで、とても重要なお話があります。

普通の常識ではとても信じられない話です。

もし、この話が本当でなければ、キリスト教は成り立たない

とも言える話です。

しかし、また、人に簡単に話しにくいところでもあります。

何の話でしょうか。

そうです。

処女降誕の話です。

 

わたしたちクリスチャンの多くは、別に何の疑問もなく、

このままを信じているのですが、しかし、

一般にこの話を公にすることになると、

日本人の多くの人たちにはとんでもない話だということになります。

キリスト教は愛の宗教であるという話は抵抗なく、

理解してもらえるでしょう。

しかし、キリスト教の教祖とも思われているイエスの処女降誕について

理解してもらうには、これはとてもハードルが高すぎる話です。

 

では、こんな理解不可能とも思える話を聖書はどのように

説明しているのでしょうか。

その個所を見ていきたいと思います。

 

マリアに御使いからの知らせがあった、その話は、ルカの福音書に

出てきます。

マタイの福音書では、この処女降誕のことを、

夫になるはずのヨセフという若者がどのように受け取ったか

という話です。

短い話ですが、処女降誕について、ここにとても大切なことが

記されています。

マタイ1章18~25節のところです。

マリアが聖霊によって身ごもったことがヨセフにも分かりました。

ヨセフはこの話をどういう風に分かったのでしょうか。

誰から聞かされたのでしょうか。

最初の段階で、ヨセフは御使いからそのことを

知らされてはいないですね。

もちろん、マリア本人から直接聞いたはずです。

他にこのことを知っている人はいないのですから。

では、マリアは自分の大切な婚約者ヨセフに身ごもったということを

どういう風に話したのでしょうか。

妻であれば、お腹に赤ちゃんが出来たということは、

夫に嬉しそうに話すのが普通です。

しかし、この場合は全く違います。

マリアは嬉しそうに話したとは思えません。

では、どんな顔をしてヨセフにこの話をしたのでしょうか。

その話は、ヨセフに分かってもらえたでしょうか。

聖書を読んでみると、分かってもらえなかったようです。

それは、マリアの説明の仕方がよくなかったのでしょうか。

もっと知恵と知識のある人であれば、

分かってもらえる説明ができたのでしょうか。

話が話ですから、第3者ではなく、本人のマリアが一生懸命に

説明しようとすればするほど、

ヨセフには更に疑問がふくらんできたかもしれません。

 

あなたがマリアの立場であれば、大切な人に分かってもらうために、

どのように説明しますか。

マリアが「これは聖霊によるものです」と言っても、

ヨセフを説得できませんでした。

その結果、ヨセフは決断したのです。

 

「夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを

好まず(マリアのことを表ざたにするのを望まず、マリアを

さらし者にしたくなかったので)ひそかに離縁しようと決心した。」

(マタイ1:19口語訳)カッコ内は、新共同訳、新改訳2017

 

何と、ヨセフこそ世界中で、処女降誕が信じられなかった人の

第1号でした。

次回に続きます。

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「星」

2021年12月17日 05時30分58秒 | クリスマス・ストーリー

 

この東の国の博士はどういう人であったか、

いろいろな説があるかもしれませんが、聖書は何も言っていませんので、

わたしもそれには触れません。

そのことにこだわって、他の大切なところがぼやけてしまわないためです。

 

しかし、彼らはユダヤ人ではなく、異邦人でしたから、わたしたち東洋人、

日本人と共通するところがあります。

暗い夜空に彼らはひときわ輝く星を見たのです。

彼らの生きていた時代、その国は暗かったかもしれません。

わたしも主イエスに出会う前の自分のことを振り返ると、暗く、

希望のもてない人生を生きていました。

しかし、この人生、自分の知らない何かがあるのではないか。

分からないまま、何か希望のようなものがあるのではないか、

と漠然と思っていたようです。

 

そして、わたしが主イエスの元へと導かれるキッカケとなった人がいました。

ひとりだけではありませんが、その人たちが「星」の役目を

して下さった方々でした。

わたしにとって「スター」となってくださった人たちです。

しかし、わたしの周りはほとんどの人たちが聖書とかイエスには

無関心でしたから、孤独な思いをしながらの歩みとなりました。

自分の近くにいる多くの人たちが行っていない教会というところへ

行くようになりました。ある意味、犠牲の伴う生活が始まりました。

そして、エルサレムに着いた博士たちと同じように、

わたしも教えられて聖書から更にハッキリした情報を得たのです。

その聖書の言葉を信じて進んで行くと、聖霊なる星が現れて、

ピンポイントでイエスのところへ導かれました。

そうだ、あの時の星は聖霊の働きだと思いました。

 

分からないことばかりでしたが、しかし、そのイエスに出会って、

不思議な喜びを経験したのでした。

今思えば、何かが理解できて、分かったからというのではなく、

それは、主イエスに出会うという経験を通して、生きていく希望、自由、

平安などが混じった喜びでした。

 

彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、

彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。

彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイ2:9,10口語訳)

 

その後、東洋人のこのわたしも、この方を礼拝する者へと変えられました。

クリスチャンが少数派、マイノリティーである、この日本という国で、

それがもう、70年近く続いているというのですから、驚きです。

あれ、いつの間にか、クリスマスの話からそれて行ったでしょうか。

わたしの場合、このように聖書のクリスマス・ストーリーを読みますと、

これが不思議と新鮮に読めるのです。

 

あなたの場合は、どうでしょうか。

 

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