イエスさまは、生まれてすぐに貧しい飼葉おけの中に寝かされました。
狐には穴があり、空の鳥には巣がある。
しかし、人の子には枕するところがない、と言われたこともありました。
つまり、イエスさまは、ホームレスだったのですね。
生まれ、育ちが貧しく、また人並みに住む家もないような生活をされていた
イエスでしたが、
だからと言って、自分を惨めに思い、そのような生活を恥じていた
わけではありません。
なぜでしょうか。
一つは、イエスはご自分が何者であるかを知っておられたからです。
神を冒涜する者だというレッテルを張られ、
最後は十字架に処刑されて、命を引き取っていかれた、その生涯は、
何と惨めな一生であったかと見られるかもしれません。
そのような人生を生きられたイエスは、
しかし、ご自分が何者であるかというアイデンティティを失うことは
ありませんでした。
人は一般に、その人がどんな生活をしているか、何を食べ、何を着、
どんな車に乗って、どんな家に住んでいるかという、そのような観点から、
その人を評価する傾向があります。その人の人間としての値打ちや価値が、
そこから判断されるのです。
それと同じように、その人がどのくらい聖書を読んでいるか、
どのくらい祈っているか、何年くらい教会に行っているか。
そういう観点から、人の信仰、信仰の成長度が判断されることがあります。
あっ、わたしは聖書を読むこと、祈ること、賛美すること、
教会の集会に出席することが大切なことではないと言っている
のではありませんよ。
これらは大切なことですが、しかし、ローマ人への手紙などのパウロの書簡、
聖書をよく読んでみると、何かが違っていることがわかります。
その一つは、主イエスを信じたあなたやわたしのことを何と言っているかです。
それはちょっと言い過ぎではないかと、思えるような
ビックリするようなことが言われています。
少しノートに書き出してみましたか。
書き出していない人のことをわたしは、宿題をしてこなかった生徒のように
思ってはいません。
1章にはもう一つありました。
ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。
わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、
恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(ローマ1:7 口語訳)
ここには主イエスを信じたあなたやわたしが、
「神に愛され、召された聖徒」と言われています。
聖徒とは、生徒ではなく、聖なる人という意味です。
わたしの学生時代のあだ名は、セイント・ハマサキでした。
酒もたばこも飲まないので、そういうあだ名をつけられただけです。
聖徒とは、英語ではsaintです。
これはちょっと信じられないですか。
主イエスを信じているあなたは神に愛されている聖なる人です。
次に、ローマ人への手紙の2~4章にはあまり見つからないのですが、
その中の3章22~24節から言えることがあります。
ひと言で言えば、主イエスを信じる者は、神によって義とされている人です。
キリストの十字架の贖いのゆえに、こちらは何もしていないのに、
罪を赦され、義とされた者として神の前に立てるのです。
世間の人にそう見られるのではありません。
義と聖なる神の目にそう見られるのです。
誰のことですか。
主イエスを信じているあなたやわたしのことです。
ということで、後は、ローマ人への手紙5章以降から探してください。
あなたやわたしがどういう者であるかについて、
そこにも素晴らしいみ言葉が出てきます。
さらに自分探しの旅を続けて、一緒に探して、書き出してみませんか。
あなたやわたしの新しい年の新しい出発のためでもあります。





