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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「永遠の喜び」

2021年05月28日 05時30分29秒 | 詩篇より

 

詩篇16篇の最後の節です。

 

詩篇16:11

命の道を教えてくださいます。

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

右の御手から永遠の喜びをいただきます。(新共同訳)

 

ここに御顔、御手とあります。

主が近くに共におられ、その主と向き合う中で、

主の御顔が見えてくるのでしょうか。

主の右の御手が動き、そこから永遠の喜びが差し出されるのでしょうか。

もちろん、主の御顔も御手も目に見えたり、感じられたりするはずは

ありません。

ここに「喜び」という言葉が、二度出てきます。

主の御顔や御手が分からなくても、喜びは誰にもわかります。

普通に多くの人が、それなりの喜びを味わい、楽しんでいます。

しかし、その喜びは何時までも続きません。

次の喜びを期待しながら、今の喜びが終わっていくことを皆経験しています。

この詩篇の著者は、「永遠の喜び」と言っていますので、

これは普通の喜びとは質的に違います。

次を期待する、その時だけの喜びではありません。

 

多くの主イエスを信じている人たちは、大なり小なり、この喜びを経験し、

味わっているので、このみ言葉がある程度わかるはずです。

人の心も目には見えませんが、その心はむなしさを味わったり、

満たされた思いを経験したりします。

それは男も女も、お年寄りも若者も、子どもも大人も変わらない心の

経験です。

また、人はむなしい思いをすることがいつまでも続くことに耐えられません。

ですから、そのむなしさを満たしてくれるものをいろいろの方法で求めます。

しかし、満たされてもそれは一時的で、いつまでも続かないために、

いつまでも続くものをどこかで求めているのではないでしょうか。

そういう意味では、一時的なものではなく、永遠に続くものでなければ、

人の心は本当の満足を得られないわけです。

人はそのように永遠を思い、求める心をもつ者として造られているからです。

主の御顔を仰ぐ人、その人は満ち足りて余りあるものを経験し、

喜びを味わいます。

それは一時的なものではなく、永遠の喜びです。

これは死後のことではありませんね。

讃美する時、主の御顔を仰ぎ、祈る時、主の御手を思うことができます。

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「命の道」

2021年05月25日 05時30分08秒 | 詩篇より

 

詩篇16篇の続きです。

 

詩篇16:8、9

わたしは絶えず主に相対しています。

主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、魂は躍ります。

からだは安心して憩います。(新共同訳)

 

わたしはこの個所を、口語訳で暗誦しています。

主の臨在の実践ということで、くり返し口にしていた個所です。

口語訳はこうです。

「わたしは常に主をわたしの前に置く。

主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。

このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。

わたしの身もまた安らかである」(口語訳)

 

主を自分の前に置き、主と絶えず向き合っているダビデ。

その主が自分の右におられ、力となり、支えとなってくださる。

ですから、その状態で動揺したり、心が揺らぐようなことはないのです。

ダビデは、この時、主が自分の右にいると言っていますが、

その主が見えているわけでもなく、何かを感じているわけでもない

と思います。

目には見えない主を信仰によって見ており、五感では感じられない主を

信仰によって意識しているのです。

それは心に楽しみを得るから、からだが健康になるから、

ということですることではありません。

それは結果として、心に楽しみ、魂に喜び、からだに健康を経験するのです。

 

からだは見えますが、主も見えませんし、わたしたちの心や魂も見えません。

しかし、それらは見えませんが、楽しみや喜びはわかりますね。

 

16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく

あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

16:11 命の道を教えてくださいます。

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 

主が命の道を教えてくださいます。

これは単なる頭の知識ではありません。

ですから、その人にとっては、陰府も墓穴も関係ないものとなります。

死に対する見方、考えが変わってくるからです。

主が教えてくださるのは、命の道です。

命への道とも言えます。

「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたのは誰でしたか。

永遠のいのちの道、それは主イエスご自身です。

この内容で、次回に続きます。

 

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「わたしの心と思いに」

2021年05月21日 05時12分48秒 | 詩篇より

 

詩篇16篇の続きです。

 

 16:7 わたしは主をたたえます。

主はわたしの思いを励まし

わたしの心を夜ごと諭してくださいます。

 

主なる神にいろいろとお願いすることがあり、助けを求めることがあります。

それはそれでよいのですが、ここでは主は、

わたしたちの思いや心に働かれると言っています。

この点について、気づかないことが多いかもしれません。

自分の思いが励まされ、心にさとしが与えられるのです。

これは、目に見えることだけに心が奪われていると、

気づかないで終わるかもしれません。

そうです。

目に見えない主が働かれるのは、

わたしやあなたの中の見えない思いや心なのです。

 

ダビデは、ここで「わたしは主をたたえます」と言っています。

主を賛美するのは、必ずしも集会の中で、皆さんと一緒にする時だけに

限られません。

ひとりであっても、目に見えない主をほめたたえ、賛美している人には、

目に見えない主の励ましや諭しが分かってくるのです。

他の人と一緒に賛美する時は、あまり音程が違ったり、早さが違ったりせずに、

皆に合わせる必要があります。

しかし、ひとりで賛美する時は、多少音程がくるっても、

早くなったり、遅くなったりしても、

その讃美を聞かれる主は首をかしげたりされるでしょうか。

 

自分なりに主に向かって、心から賛美できていることが大切ですね。

主に感謝をささげ、主に賛美している時、

その人の思いに主が働きかけるという経験をしている人は

少なくないと思います。

心が軽くなるのです。

何かに縛られていた心が解放されるのです。

周りの状況は何も変わっていないのに、否定的、悲観的な思いに代わって

前向きの思いになり、何か希望がもてるようになるのです。

賛美が上手か下手かに、楽器ができるかどうか関係ありません。

声が良いかどうかにも関係ありません。

これは主イエスを信じている人たちの大きな特権ですね。

どう思いますか。

 

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「測り縄は」

2021年05月18日 05時30分13秒 | 詩篇より

 

詩篇16篇から学んでいます。

前回の続きです。

 

 16:3 この地の聖なる人々

わたしの愛する尊い人々に申します。

 16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。

わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず

彼らの神の名を唇に上らせません。」

 

ダビデにも、聖なる人たち、愛し尊敬する人たちが身近にいたようです。

その人たちに申します、と言っています。

その人たちの中にも、他の神に心を引かれる人たち、

異教の人たちの祭りに興味をもつ人たちがいた、ということではないと

思います。

その上で、「わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず、

彼らの神の名を唇に上らせません。」と言っています。

人はどうであれ、わたしはこうします、とダビデは宣言しています。

彼らと同じようなことはしないと、一線を引いています。

 

 16:5 主はわたしに与えられた分(割り当てられた嗣業)、わたしの杯。

主はわたしの運命を支える方。

 16:6 測り縄は麗しい地を示し(に落ちた。)

わたしは輝かしい嗣業を受けました。

 

これも主なる神についてのダビデの信仰告白と言えます。

ダビデにとって、主なる神とは、受け継ぐもの、割り当てられた

領地のようなものであり、

自分が受け取るべくさし出された杯のようなものであり、

その主はまた、自分の運命を支え、守ってくださる方なのです。

 

測り縄が麗しい地に落ちたのです。

測り縄が落ちたところが境界線となります。

自分のものとそうでないものとが分けられます。

生まれ育った自分の家系、家族、そしてまた

今、置かれている自分の生活環境について、わたしはどう思い、

どう受け取っているだろうか。

それを主から与えられた杯、割り当てられた所と受け取っているだろうか。

 

それはわたしのしあわせの実感にも関係してきます。

どう思いますか。

 

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「わたしのしあわせは」

2021年05月14日 05時35分15秒 | 詩篇より

 

このブログの記事を配信するうえで、心がけていることがあります。

あまり長いものにしないことです。

短すぎず、長すぎないように心がけているのですが、

詩篇の場合、どこで切るのか迷うことがよくあります。

今回は今までと、少し違って短く区切ってみます。

 

詩篇16:1~11(新共同訳)

16:1 (ミクタム。ダビデの詩。)

神よ、守ってください

あなたを避けどころとするわたしを。

 

ダビデはただ、わたしを守ってください、救ってください、

とだけ祈っていません。

自分の側も何をしているかをハッキリさせています。

つまり、主を避難所とし、そこに身を避けている自分のことも

ハッキリさせています。

 

 16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。

あなたのほかにわたしの幸いはありません。」

 

これは素晴らしい言葉だとは分かるが、わたしも同じように言えるだろうか。

自分もこのように言えるものでありたい。

主よ、あなたの他に、あなたを別にして、

わたしには幸せと言えるものはありません、と。

 

「幸い」とは「幸せ」とも言えます。

今日、多くの人たちはどこに幸せを求めているのでしょうか。

旅行に行って、温泉などにゆっくりつかる時、しあわせだなーと感じたり、

親しい人と一緒に何かを食べに行って時間を過ごす時、

しあわせと感じることもあります。

そのような人たちのことを見て、「あの人たちはしあわせだなぁ」と

思う人もいます。自由にお金を使えてしあわせだなぁと。

 

 しかし、「わたしのしあわせは、主以外にはない」と言い切る人を見て、

この人はしあわせだなぁと思う人は何人くらいいるでしょうか。

ところで、あなたはどういう時に自分はしあわせだと思いますか。

次回に続きます。

 

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