詩篇16篇の最後の節です。
詩篇16:11
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。(新共同訳)
ここに御顔、御手とあります。
主が近くに共におられ、その主と向き合う中で、
主の御顔が見えてくるのでしょうか。
主の右の御手が動き、そこから永遠の喜びが差し出されるのでしょうか。
もちろん、主の御顔も御手も目に見えたり、感じられたりするはずは
ありません。
ここに「喜び」という言葉が、二度出てきます。
主の御顔や御手が分からなくても、喜びは誰にもわかります。
普通に多くの人が、それなりの喜びを味わい、楽しんでいます。
しかし、その喜びは何時までも続きません。
次の喜びを期待しながら、今の喜びが終わっていくことを皆経験しています。
この詩篇の著者は、「永遠の喜び」と言っていますので、
これは普通の喜びとは質的に違います。
次を期待する、その時だけの喜びではありません。
多くの主イエスを信じている人たちは、大なり小なり、この喜びを経験し、
味わっているので、このみ言葉がある程度わかるはずです。
人の心も目には見えませんが、その心はむなしさを味わったり、
満たされた思いを経験したりします。
それは男も女も、お年寄りも若者も、子どもも大人も変わらない心の
経験です。
また、人はむなしい思いをすることがいつまでも続くことに耐えられません。
ですから、そのむなしさを満たしてくれるものをいろいろの方法で求めます。
しかし、満たされてもそれは一時的で、いつまでも続かないために、
いつまでも続くものをどこかで求めているのではないでしょうか。
そういう意味では、一時的なものではなく、永遠に続くものでなければ、
人の心は本当の満足を得られないわけです。
人はそのように永遠を思い、求める心をもつ者として造られているからです。
主の御顔を仰ぐ人、その人は満ち足りて余りあるものを経験し、
喜びを味わいます。
それは一時的なものではなく、永遠の喜びです。
これは死後のことではありませんね。
讃美する時、主の御顔を仰ぎ、祈る時、主の御手を思うことができます。





