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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「まずは質問から」

2024年02月27日 05時30分54秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書の6章に入ります。

この6章の1節から15節までに、一つのお話があります。

クリスチャンであれば、皆さんがよーく知っておられる話です。

「5つのパンと2匹の魚で、イエスが5000人以上の人たちを満腹にされた話です

ね」と。

 

わたしは何度もこの話をバイブルトークのグループでやってきました。

そして、興味深いことには、その都度、新しい気づきや発見があるのです。

聖書って、不思議な本ですね。

知っていると思っているお話から、

新しく教えられることがいろいろあると、

聖書は他の本とは本当に違うなーと、いつも思わされています。

 

この5000人の給食の奇跡の話を、

このように解釈しているクリスチャンの方々もおられます。

あれは、ひとりの少年が持っているものを差し出したことで、

多くの人たちが自分の持っているものを次々と出してきて、

結果として皆が満腹したのだという解釈です。

そして、そういうことが起こったことも、これもある意味、奇跡です、

と言う理解です。

どう思いますか。

 

今まで、わたしが接しきた方々の多くが、「それはおかしい。

では、なぜ、残りを集めると12のかご一杯になったのか、

その説明ができません」と言われます。

 

では、この話をもっとよく理解するために、

最初にいくつかの質問をさせてもらいます。

(えっ、最初から質問なの?)

この話は最初、誰から言い出した話でしたか。

弟子たちの誰かが言い出したのでしたか。

群衆の誰かがお腹が空いたとか言ったのでしたか。

 

次の質問です。

イエスは12人の弟子たちの中のひとりに声をかけたのですが、

この時、イエスとその弟子は立っていたのでしょうか、

座っていたのでしょうか。

なぜ、こんな質問をするかと言いますと、

この場面、光景が、この話を理解するうえでとても大切だと

わたしは思っているからです。

 

もう一つ大切な質問があります。

弟子のひとりアンデレが

「ここに、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。

でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」と言っています。

しかし、その後、

少年が持っていた5つのパンと2匹の魚が、

イエスの手に渡っています。

聖書にはそのことが詳しく書かれていませんが、

これはどのようにしてイエスの手に渡されたのでしょうか。

 

もう一つ、大切な質問があります。

パンを食べた後、満腹した人たちは、イエスに何をしようとしましたか。

 

これらの質問から、

このお話しに込められている真理を発見していきたいと思っています。

次回に続きます。

 

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「聖書の中心テーマ」

2024年02月23日 05時30分59秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ5章の続きです。

 

5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、

聖書を調べています。

その聖書は、わたしについて証ししているものです。

5:40 それなのに、あなたがたは、

いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 

わたしはこの39,40節のみ言葉をいろいろなところで、

これまで何度も引用してきました。

とても大切なことが言われているからです。

ひとつは聖書についてです。

もうひとつは永遠のいのちについてです。

 

あなたは聖書を何年くらい読んでおられますか。

わたしはこの聖書をもう60年以上読んでいると思います。

長く読んでいる割には、まだまだです。

まだまだ次々といろいろなことを新しく教えられています。

その中でも、ある時からこのヨハネ5章39節のみ言葉に接して、

「そうなのか」と新しい発見というか、気づきがあったように思いました。

 

「この聖書はわたしについてあかししている」

とイエスご本人が言っておられます。

それもここで聖書というのは、

新約聖書の福音書ではなく、旧約聖書のことですね。

 

イエスさまは説明なしに簡潔に、ハッキリと言われるところがあります。

イエスのこの言葉を言い換えれば、

当時のユダヤ人たちは聖書を読んでいたのですが、

その読み方が問題でした。

 

この日本でも、今日も聖書を読んでみた人は、多いと思いますが、

聖書を倫理道徳の教えとして、

あるいは単なるキリスト教の教えとして読もうとすれば、

サッパリ分からなくなります。

 

ユダヤ人たちは永遠のいのちを得ようとして聖書を読んでいたのですが、

何が問題なのでしょうか。

イエスさまによれば、永遠のいのちを求めて読んではいるが、

彼らはイエス抜きに読んでいるということです。

その「いのち」はイエスのもとに来て与えられる「いのち」なのです。

 

では、わたしたちクリスチャンは

どういう読み方をすればよいのでしょうか。

聖書を読み、そこからイエスのもとに行く読み方をします。

そのイエスのもとに行けば「いのち」を、永遠のいのちを得られる、

とイエスご自身がハッキリと言っておられるからです。

 

聖書はいろいろな読み方ができますが、

わたしは聖書を学び、聖書学者のようにならなくても、

イエスのもとに行き、イエスに出会い、いのちを得る、

そういう読み方をしたいと思っています。

主イエスによれば、ここに聖書の中心テーマがあるからです。

どう思いますか。

 

ルカ24:27も、時間のある方は読んでみてください。

 

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「永遠のいのちを持っている」

2024年02月20日 05時30分25秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ5:24,25(新改訳2017)

まことに、まことに、あなたがたに言います。

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、

永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、

死からいのちに移っています。

まことに、まことに、あなたがたに言います。

死人が神の子の声を聞く時が来ます。

今がその時です。それを聞く者は生きます。

 

ここに「永遠のいのち」とあります。

わたしの今生きている「命」は永遠ではありません。

いつの日か、心肺停止となった時、呼吸も止まり、終わる命です。

わたしはこの「永遠のいのち」を「神のいのち」とも理解しています。

ここに「永遠のいのちを持ち」とあります。

ですから、これは死後だけのことではありません。

今、現在のことでもあります。

 

ヨハネ3:36は、「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている・・・」

とハッキリ言い切っています。

 

あなたはイエスさまを信じていますね。

では、この聖書のみ言葉によれば、あなたも永遠のいのちを持っているのです。

 

24節に「わたしの言葉を聞いて・・・」とイエスは言っておられます。

このイエスのみ言葉を聞いて、

あなたも永遠のいのちを持っていることを信じていますか。

 

次に、「死からいのちに移っています」と言われていますが、

この「いのち」とは何の「いのち」でしょうか。

そうです。

「永遠のいのち」と同じ「いのち」です。

原語のギリシャ語ではどちらも「ゾーエ」という言葉で、

これは神のいのちにだけ使われている言葉です。

わたしはギリシャ語には詳しくないのですが、これだけは覚えています。

5章26節の

「それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、

子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」

に出てくる「いのち」も同じです。

24節の後半、「死からいのちに移っている」というのは、

その後25節の「それを聞く者は生きます」と同じ意味に取るとすれば、

25節の意味はどうなるでしょうか。

「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。」

 

わかるようで、わかりにくい言葉ですが、

この「死人」は霊的な意味での死人であるとするなら、

上の意味と同じことが言われています。

 

ということで、このみ言葉によれば、

イエスさまを信じているあなたもわたしも永遠のいのちを与えられており、

死からいのちに移っているのです。

 

わたしは自分にはまだまだいろいろと問題もあり、

足らないところもありますが、このみ言葉をこの通りに信じています。

永遠のいのちですよ。

こんなすごいものをくれる人が、他に誰がいますか。

ハレルヤ

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「子が与えるいのちとは」

2024年02月16日 05時30分11秒 | ヨハネ福音書より

 

前回は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、

自分から何も行うことはできません。」とイエスが言われた、

その言葉を見てきました。

イエスとはどういう方でしょうか。

そのことを改めて思わされるみ言葉でしたね。

次に進みます。

 

ヨハネ5章21節です。

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、

子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(新改訳2017)

 

ここにも父なる神のされること、

子なるイエスがされることが語られています。

父が死人をよみがえらせるというのは、復活のことですね。

これはわかりますが、

では、子なるイエスも、

ご自分が与えたいとも思う者にいのちを与える、

というのはどういうことでしょうか。

 

わたしもあなたも今現在、命があるから生きています。

この命がなくなれば、わたしは死にます。

若い頃と比べると、この命はだいぶおとろえを見せてはいます。

 

しかし、その上で、イエスからいのちを与えられる、と言われています。

ということは、イエスが与えるいのちとは、

今わたしやあなたがもっている命とは違ういのちです。

それは神のいのちとも言えます。

 

命そのものは目には見えませんが、命にはいろいろな種類があります。

お花や果物などの植物の命、犬や猫などの動物の命、

どちらも命は命ですが、命の種類が全く違います。

そして、人間の命です。

この人間の命は、植物の命、魚の命、鳥の命、動物の命とも全く違います。

そうですね。

そして、神のいのちです。

この神のいのちは、人間のいのちとは全く違ういのちです。

 

「それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、

子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」。

(ヨハネ5:26新改訳2017)

 

ということで、5章21節では、

人間の命を持っているあなたやわたしに、

イエスはその命とは全く違う神のいのちを与えると言っておられます。

すごいことだと思いませんか。

(思わない。)

そこから見ていくと、5章24節、25節のみ言葉がだいぶわかってきます。

時間のある方は、ご自分で確認してみてください。

 

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「イエスとはどういう方か」

2024年02月13日 05時30分18秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書5:19-20a

5:19 イエスは彼らに答えて言われた。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。

子は、父がしておられることを見て行う以外には、

自分から何も行うことはできません。

すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

5:20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、

子にお示しになるからです。」(新改訳2017)

 

ヨハネ福音書5章の後半は、ストーリー性はないのですが、

イエスがユダヤ人たちに語った言葉が続いています。

そのユダヤ人とはどういう人たちでしたか。

 

イエスが安息日を破ったと言って、それを問題にしている人たちです。

更に彼らは、イエスが神を父と呼び、ご自分を神と等しくされたと言って、

怒り、イエスを殺害しようとしていた人たちです。

その人たちに何の遠慮や気配りをすることなく、

上記のようにイエスは大胆に言うべきことを話しておられます。

 

イエスが水をぶどう酒に変えたり、

38年間も病気で苦しんでいる人を一瞬にして癒されたりするのは、

やはりイエスが神であられたからだと

単純に思っているクリスチャンは少なくないと思います。

わたしを含めてです。

ですから、イエスのそのような癒しや奇跡のことを、

それほど深く考えることはなかったかもしれません。

 

しかし、上記のイエスの言葉が本当であるとするなら、

その癒しや奇跡についての見方も変わってきます。

イエスは父なる神からこの世に遣わされた方です。

神の子であられるのですが、人間となり、人の子となられました。

そのイエスは、父のすることを見てする以外には

自分からは何もすることはできないと言っておられます。

そして、父なる神はその子、イエスをとても愛しておられ、

ご自分がすることをすべて、子に知らせると言っておられます。

ということはどういうことになるでしょうか。

 

あのベテスダの池のそばに横たわっていた38年もの長い間、

病気で苦しんでいた人が一瞬にして癒された、

あの劇的な癒しもイエスがひとりで、

神だから自由にやられたということではないのですね。

父と相談のうえで、父の意向にそって、

父のしようとしておられることを見て、なさったということですね。

 

一般に日本人は、神の存在は信じているが、

イエスという人のことはどうもわかりにくい、と言われる人が結構います。

しかし、わたしたちクリスチャンはどうでしょうか。

父なる神とイエスとはどちらがわかりにくいでしょうか。

イエスのことは福音書で、写真や動画で見るようにわかりますが、

目に見えない父なる神はわかりにくいとも言えます。

 

しかし、ここでイエスは、自分は自分からは何一つできない、

父のすることを見てする以外にはできないと言っておられます。

これはわかるようで、わかりにくいですね。

ということは、イエスと目に見えない父なる神との関係が

どれほどの深い関係なのかということです。

父と子の関係なのですが、それも人間の父と子の関係以上ですね。

父と子とがひとつとなっている関係ですね。

 

人間となられたイエスは、父なる神が何をなそうとしておられるのかが

わかったのです。

イエスはその父なる神のことに心の目と耳を集中しておられるようです。

その父なる神に全面的に従おうとしておられます。

「父が子を愛し・・・」と言っておられますので、

ご自分のことを思ってくださる、その父の愛がよくわかっておられたのです。

イエスと父なる神とは、そういう関係だったのですね。

どう思いますか。

 

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