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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「自然なことなのに、不自然なこと」

2023年11月28日 05時30分51秒 | ヨハネ福音書より

 

あなたが最初に主イエスを信じ、救われるために、

どういう手助けが必要だったと思いますか。

 

このヨハネ4章のお話しの中で、イエスは未信者のひとりの

サマリアの女性に、それも初対面の人に個人伝道を

しておられます。

この話しから、個人伝道のやり方、

ハウツウを学ぶことができるのでしょうか。

それとも、この主イエスが今日もあなたやわたしを通して

働いてくださるとするなら、どうでしょうか。

 

まず、井戸に水を汲みに来たサマリアのひとりの女性に、

イエスの方から「水を飲ませてください」と、

声をかけておられます。

 

これは伝道の一つのやり方として、

相手に何かを頼むことから始めるのだと、見てよいのでしょうか。

それとも、イエスはこの時、本当にのどが渇いていて、

水が欲しかったのでしょうか。

 

お昼の12時頃のことであり、

イエスは旅の疲れのために井戸の傍に座っておられたのです。

その状態で、「水を飲ませてください」と水を汲みに来た

初対面の女性に声をかけることは、ごく普通のことです。

不自然なところはありませんね。

 

ところが、声をかけられたこの女性は、

このイエスのことを不自然だと思ったのです。

なぜ、彼女はこんなことは普通あまりないことで、

不自然なことだと思ったのでしょうか。

おわかりですね。

「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、

飲み水をお求めになるのですか。」(9節)

 

当時、ユダヤ人はサマリア人のことを蔑み、

付き合いをしなかったので、ユダヤ人の方から声をかけることは

ほとんどなかったからです。

彼女の方から見れば、まったく非常識なことだと、

心の中ではそんなことを思ったとしても、

それは口に出さず、黙って水を汲んでイエスに飲ませることも

できたと思います。

口には出さなくて、この人はユダヤ人の常識を破ってまで

水が欲しいと言っているのだから、よほど疲れて、

のどが渇いているのだと、心の中で思いながら、

無言のまま無造作に水を差しだすこともできたはずです。

しかし、このサマリアの女性は、自分の思ったことを

ハッキリ口に出しています。

 

わたしたちが祈る場合も、主イエスに対して「どうして」という

疑問があれば、黙っていないで、

ハッキリ口に出して言って良い場合もあります。

そのほうが主イエスの方もハッキリしたことが言いやすい

のではないでしょうか。

あなたやわたしはどの程度、心で疑問に思っていることを

ハッキリ、イエスに言っているでしょうか。

 

このサマリアの女性に対して、

イエスはとてもハッキリしたことを言われました。

「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてください

とあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、

あなたのほうからその人に求めていたでしょう。

そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 

初対面で、会っただけでまだ何分も経っていない、

その相手にイエスはとても普通の人には言えないようなことを

言われました。

このイエスの言葉には、「知る」という言葉が2回使われています。

何と何を知るのでしょうか。

この二つのことを知れば、逆転が起こると言われています。

つまり、「水を飲ませてください」と言った側が、

水を与える側になるという逆転です。

二つのうちのひとつは、「水を飲ませてください」と

言ったイエスが誰であるかということです。

もうひとつは、イエスが与えるもの、

神の賜物とは何であるかを知ることです。

 

ここに、わたしたちの個人伝道にも関係する大切なことが

教えられています。

どう思いますか。

 

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「逆転」

2023年11月24日 05時30分11秒 | ヨハネ福音書より

 

わたしは聖書を学ぶことは大切だと思っています。

ただし、学んで知識を得ることで終わるのではなく、

そこから神の言葉を聞き、受け取ることを心がけています。

 

前回の話から言えば、パリサイ人たちがライバル意識をもって

イエスのことを見ていること、それを知るとイエスは、

ユダヤを去って行かれました。

 

わたしが誰かに対してライバル意識をもつなら、

イエスはわたしのところから去って行かれます。

わたしが神の国を求めておらず、自分の国を求めているからです。

 

ヨハネ3章では、ひとりの人、ニコデモとイエスの対話を通して、

神の国のこと、新しく生まれることについてのみ言葉を聞き、

受け取ることができました。

 

ヨハネ4章に入りますが、ここでもひとりの女性と

イエスとの対話が中心です。

未信者とも言える、この人たちの言うことに対して、

イエスはその時々に、それにふさわしいことを語っておられます。

ニコデモの時と同じように、

この対話を通してどのような神からの語りかけがあるでしょうか。

 

ヨハネ4:4-15

4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、

スカルというサマリアの町に来られた。

4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、

その井戸の傍らに、ただ座っておられた。

時はおよそ第六の時であった。

4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。

イエスは彼女に、

「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

4:9 そのサマリアの女は言った。

「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、

飲み水をお求めになるのですか。」

ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。

4:10 イエスは答えられた。

「もしあなたが神の賜物を知り、

また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのが

だれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に

求めていたでしょう。

そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

4:11 その女は言った。

「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、

この井戸は深いのです。その生ける水を、

どこから手に入れられるのでしょうか。

4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。

ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、

その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」

4:13 イエスは答えられた。

「この水を飲む人はみな、また渇きます。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、

いつまでも決して渇くことがありません。

わたしが与える水は、その人の内で泉となり、

永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

4:15 彼女はイエスに言った。

「主よ。私が渇くことのないように、

ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

(新改訳2017)

 

この箇所を4章15節で、区切った理由があります。

最初はイエスの方がこの女性に「水を飲ませてください」と

頼んでいます。

ところが、この15節にくると、彼女の方がイエスに

「その水をわたしに下さい」と言っていることに

注目したいのです。

つまり、逆転しています。

これはどこでどうなったのでしょうか。

 

わたしたちの個人伝道も、このように向こうから求めてくるなら、

とてもやりやすいと思います。

最初は、こちらから相手に何かを求めて、その後、

相手の方が逆にこちらに求めてくるという、

そういう個人伝道の方法はあるのでしょうか。

 

どこかの会社の営業マンもこのような手口を使っている

かもしれません。

では、多くの実績を上げている営業マンと比べて、

イエスは何がどう違っているでしょうか。

また、わたしたちの個人伝道とイエスのなさり方は、

何がどう違っているでしょうか。

 

この観点から、もう一度、この箇所を読みなおしてみませんか。

何か気づくことがあるかもしれません。

その「気づき」こそがとても大切だとわたしは思います。

 

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「人の評価」

2023年11月21日 05時30分36秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書4章に入ります。

ヨハネ4:1-3

4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作って

バプテスマを授けている、と伝え聞いた。

それを知るとイエスは、

4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、

弟子たちであったのだが──

4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。(新改訳2017)

 

取り敢えず、短いですが、3節までです。

3節までに、イエスがユダヤを去って再びガリラヤへ行かれた

理由が記されています。

その理由は何でしたか。

そうですね。

パリサイ人たちがイエスとヨハネを比較してイエスの人気が

上がってきていることを知ったのです。

 

イエスご自身は人の人気を気にする方ではなかったはずですが、

当時の宗教指導者でもあったパリサイ人たちは

人の人気をとても気にしていたことがここで分かります。


彼らパリサイ人たちは、ヨハネのところに人が集まって行って

いる様子、今度はイエスの方へ人が引かれて行っている様子、

イエスがヨハネよりも多くの弟子を作っていることを

人づてに聞いたようです。

そして自分たちからも人が離れていくのではないかという不安が

あったのかもしれません。

 

前に出て来たヨハネの弟子たちもそういうところがありましたね。

そう言うわたしも人の人気、自分のことが人に

どう評価されているのかを気にする時がありましたし、

この年になっても、今でもそういう時がないことは言えません。

 

人のことはわかりやすいのですが、

自分のことは棚に上げていることもあります。

そのことに気がつけば、その都度祈りの中で、

棚からおろして、人の評価を気にする思いなどの肉は、

キリストと共に十字架に死んでいると認めるようにしています。

(ローマ6:11)

しばらくすると、平安が与えられます。

そして、そういう回数も減っていく感じです。

 

ピリピ2:3

何事も党派心や虚栄からするのでなく、

へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。

(口語訳)

 

次回へつづきます。

 

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「ライバル、現わる」

2023年11月17日 05時30分02秒 | ヨハネ福音書より

 

バプテスマのヨハネは素晴らしい預言的な働きをし、

ヨルダン川で多くの人たちにバプテスマを授けていました。

人々がそこに大勢集まって来ていました。

ヨハネの弟子となる人たちも出てきました。

そんな中で、イエスという方が現れたのです。

ヨハネの弟子たちの何人かが、

そのことでライバルが現れたと思ったようです。

そして、大勢の人たちがあちらの方へも行きだした様子を見て、

それが気になったようです。

 

競争相手、商売がたき、ライバルと、今日も多くの人たちが

経験しています。

わたしも牧師として教会の牧会をしていた時、

やはり成長して、人数の増えている教会のことを知ると、

何かライバルのように思う時がありました。

あなたにはそういう経験はありませんか。

 

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、

彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

3:23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを

授けていた。そこには水が豊かにあったからである。

人々はやって来て、バプテスマを受けていた。

3:24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。

3:25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、

あるユダヤ人ときよめについて論争をした。

3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。

「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、

先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けて

おられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」

3:27 ヨハネは答えた。

「人は、天から与えられるのでなければ、

何も受けることができません。

3:28 『私はキリストではありません。

むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と

私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。

3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。

そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、

花婿の声を聞いて大いに喜びます。

ですから、私もその喜びに満ちあふれています。

3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 

もちろん、ヨハネはここでイエスのことを自分のライバルなど

とは見ていません。

イエスのことが前もって聖霊によって知らされていたからです。

 

しかし、ヨハネの弟子たちはそうではなかったようです。

その弟子たちに対して、ヨハネはここで語っているのです。

ですから、ライバルのことを意識してしまいやすい

わたしにも言われていることです。

このヨハネのことをどう思いますか。

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「光よりも闇を愛した」

2023年11月14日 05時30分43秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ3:17-21

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、

御子によって世が救われるためである。

3:18 御子を信じる者はさばかれない。

信じない者はすでにさばかれている。

神のひとり子の名を信じなかったからである。

3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、

自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、

その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

3:21 しかし、真理を行う者は、

その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、

光の方に来る。(新改訳2017)

 

この箇所について、誰かの説明を聞いてわかるという方法も

あります。

しかし、それだけではありません。

あなたやわたしが自分で気づいてわかることもあります。

そのためにも求めること、探すこと、門をたたくことが

求められます。

 

その目的のために以下のような質問を用意しました。

あくまでもこれは、あなたの頭のよさや信仰の程度を試すための

質問ではありません。

自分から求め、探すことのお手伝いをさせていただくためです。

求める人に与えられ、探す人が見出すと、

主イエスがみ言葉によって約束されているからです。

 

自分で求め、気づき、発見する喜びを

すでに味わっている方々もおられると思います。

そのすべてではないとしても、それは聖霊による啓示、

主からの語りかけとも言えます。

 

質問
上記の聖書の個所から、以下の質問について、

出来るだけ自分なりの応答を書き出してみてください。

・ヨハネ3:17-21のこの箇所で、対比されている言葉が

いろいろあります。どういう言葉でしょうか。

世を裁くー世が救われる

信じる者―信じない者

光―闇

あと3つほどあります。あげてみてください。

 

・17節に、「世が救われるため」とありますが、

ここで救われるとはどういうことでしょうか。

16節から判断するとどうなりますか。

・御子イエス・キリストを信じる人は、なぜ裁かれない

のでしょうか。

その人たちは、神に裁かれるようなことを何もしていない

のでしょうか。

それとも、しているのでしょうか。

・人はなぜ、光よりも闇を愛するのでしょうか。

この悲しい現実について、最近、何か思うことがありますか。

最近のテレビのニュースなどでは、「光」に近い明るいニュースと

「闇」に近い暗いニュースを比べると、どちらの数の方が

多いでしょうか。それは何を現わしていると思いますか。

・光の方に来ない人は、なぜ来ないのでしょうか。

教会に誘っても来ない人も同じ理由からでしょうか。

・光に来ない人は光を憎むのですが、

光に来る人は闇を憎むのでしょうか。

・光に来ない人も大勢いる中で、来る人達もいます。

その人たちは、なぜ光の方に来るのでしょうか。

 

・ヨハネ1章の4,5節にも「光」が出てきます。

この光とは何を指していますか。

この箇所の前後を読んで判断してください。

 

・この箇所から人間とはどういう者でしょうか。

 

・この箇所からイエスとはどういう方でしょうか。

 

・この箇所で、あなたが心に留めておきたいことがありますか。

一つ上げるとすれば、どういうことですか。

 

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