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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「もうひとりの犯罪人」

2024年03月29日 05時30分35秒 | 受難週

 

ルカ23章32-43節のところの続きです。

2000年以上も前に、

エルサレムに近いゴルゴダという丘で

3人の人が死刑囚として十字架にかけられました。

 

その真ん中のイエスに対して、

ユダヤ人の議員たち、

ローマの兵士たち、

そして一緒に十字架につけられていた犯罪人が

ののしり、嘲る言葉を浴びせていました。

 

そして、この場面で、

イエスと一緒に十字架刑につけられていた

もうひとりの犯罪人がいました。

今日は、その人の話です。

 

ルカ23:39-43

23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、

イエスをののしり、

「おまえはキリストではないか。

自分とおれたちを救え」と言った。

23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。

「おまえは神を恐れないのか。

おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

23:41 おれたちは、

自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。

だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

23:42 そして言った。

「イエス様。

あなたが御国に入られるときには、

私を思い出してください。」

23:43 イエスは彼に言われた。

「まことに、あなたに言います。

あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

(新改訳2017)

 

イエスと一緒に十字架につけられていた、

もうひとりの犯罪人は、

同じような状況に置かれていましたが、

イエスをののしった犯罪人をたしなめ、

そしてまたイエスに向かって

「あなたが御国に入られるときには、

私を思い出してください」と言っています。

彼はなぜ、この状況でこのようなことを言えたのでしょうか。

 

以下はわたしの想像です。

一緒に十字架にかけられているイエスのすぐ隣で、

その息づかいも分かるほどの一番近いところに彼はいました。

イエスが「父よ、彼らをおゆるし下さい」と祈っておられた、

その言葉をすぐ近くで聞いていたのです。

自分をののしり、あざ笑う人たちのために祈る、

イエスのその祈りの言葉は、

この犯罪人の心に何か響くものがあったに違いありません。

 

この同じ状況で、自分はこの人たちのために、

とてもそんなことは祈れない。

この犯罪人は他の人たちと違った目で

イエスを見はじめていました。

 

その後も、人々がさんざんののしり、

あざ笑い、馬鹿にしているのに、

この人は何も言わないでいる。

それで、彼は横目でイエスに注目していたのです。

この人はいったい何者なのか。

やはり、メシヤ・キリストなのではないのか。

いや、そうに違いない。

そう思うと、なぜか不思議な感動を覚える中で、

この犯罪人は自分の罪を認めています。

そしてまた、

多くの人たちの言っているあざけりの言葉に反して、

イエスが御国の位に着く人だと思ったのです。

そしてその時、自分のことを思い出してくださいと言っています。

 

これはまさに、

この人の死ぬ間際の信仰告白とも言えます。

「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と、

その後に言われたイエスは、

この人の言葉をそのように受け取られたのだとわたしは思います。

 

しかし、今日も、

イエスに目を向けさせないようにする人の言葉があり、

わたしはそちらの方に心を奪われることも少なくありません。

イエスの言われることに耳を傾け、

イエスに目を向け、注目していないと、

他の声に気を取られ、人の言うことに影響されてしまいます。

 

このもうひとりの犯罪人は、

反対にイエスに目を向けていたことで、

このような状況であったにもかかわらず

心が元気になったのだと、わたしは思います。

 

へブル12:2-3

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、

目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、

辱めをものともせずに十字架を忍び、

神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、

ご自分に対するこのような反抗を

耐え忍ばれた方のことを考えなさい。

あなたがたの心が元気を失い、

疲れ果ててしまわないようにするためです。(新改訳2017)

 

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「十字架上の3人」

2024年03月26日 05時30分06秒 | 受難週

 

今年も受難週に入りました。

今回は、それに関連する聖書の個所を選びました。

3人の人が一緒に十字架につけられた、あの場面です。

ルカ23章32-43節のところです。

 

イエスが真ん中で、その右と左にふたりの犯罪人がつけられました。

この光景が思い浮かびますか。

民衆は立ってこの十字架刑の光景を眺めていました。

 

誰かがインタビューして、民衆のひとりに

「この光景をどう思いますか」と聞くとすれば、

どんな答えが返ってくるでしょうか。

 

議員たちはあざ笑って言いました、

「あれは他人を救った。もし神のキリストで、

選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 

ローマの兵士たちも嘲って言いました。

「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 

ユダヤ人の議員たちとローマ兵たちは

ほぼ同じことを言っていますが、

ハッキリ違う点がありますね。

どこですか。

 

イエスが「神のキリスト」だということを

問題にしているのがユダヤ人であり、

「ユダヤ人の王」だということを

問題にしているのがローマ人です。

ここに、イエスが十字架につけられた歴史的な理由が

端的にあらわされていますね。

ひとつは宗教的な理由からであり、

もう一つは政治的な理由からです。

 

イエスはなぜ十字架につけられたのかと聞かれると、

多くのクリスチャンは、

それはわたしたちの罪のためでした、

と答えますよね。

 

ここでは「この人は、わたしたちの罪のために

十字架につけられたのだ」

と叫んでいる人は誰もいません。

 

ここで、整理してハッキリしておくことがあります。

未信者の人たちにイエスはなぜ十字架につけられたのですか、

と聞かれた場合、

ひとつは最初に歴史的な事実を語る必要があります。

その上で、

「それはわたしの罪のためでした」と霊的な真理を、

また自分のあかしを語る必要があるとわたしは思っています。

 

聖書は、まず先に、詳しく歴史的な事実を語っています。

さて、この場面で、イエスをののしった人がもうひとりいます。

誰でしたか。

 

そうです。

一緒に十字架につけられていた犯罪人のひとりでした。

「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」

この犯罪人はイエスに向かって、

なぜこのようなことを言ったのでしょうか。

 

これには理由があるとわたしは想像しています。

以下はわたしの想像です。

この犯罪人は、イエスの隣に十字架につけられていました。

ですから、

議員たちや兵士たちがイエスをののしる言葉を

聞いていたはずです。

自分よりも人々にののしられ、

憎まれている男がいることを彼は知りました。

自分よりも、です。

皆にいじめられ、バカにされている人間がここにいる。

皆に、です。

それなら自分も皆と同じように、

ののしる側につこうと思いました。

 

負け犬にムチという感じでしょうか。

そうすれば、自分は負け犬の側にいないことになります。

ですから、

「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」

という言葉が彼の口から出てきたのです。

 

ああ、ここには今の時代も変わらない

「いじめの問題」があります。

ここに人の見ている前で徹底的にいじめられ、

辱められた人がいます。

言い換えれば、ここにいじめられ、

死ぬほど辛い思いをする人の立場に身を置かれた人がいます。

 

どう思いますか。

次回は、一緒に十字架につけられていた、

もうひとりの犯罪人のことに続きます。

 

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「不思議なご配慮」

2023年04月07日 05時30分25秒 | 受難週

 

受難週に入り、今日は金曜日ですので、主の十字架を覚えたいと思います。

 

ヨハネ19章25~27節

さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、

クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。

 

イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、

母にいわれた、

「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。

それからこの弟子に言われた、

「ごらんなさい。これはあなたの母です」。

 

そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。(口語訳)

 

十字架上で苦しみの中にある主イエスはその愛弟子に、

「母のことをよろしく頼みます」とは言われなかったのです。

しかし、その後、この愛弟子はイエスの母を引き取って、

自分の母親のように老後の世話を最後までしたと思われます。

この話しを黙想してみませんか。

 

母マリヤには他に何人もの実の息子たちがいたのですが、

彼女はその息子たちの所ではなく、

他人でもあるイエスの弟子のひとりの母となり、

その人のお世話になったのです。

 

肉親という血のつながりではなく、

主イエスとのつながりによる神の家族の姿がここに見えてきます。

 

十字架上のイエスの不思議なご配慮でした。

 

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