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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「わたしのものだ」

2021年09月28日 06時57分54秒 | 詩篇より

 

詩篇24:1~10【口語訳】

これは「ダビデの歌」です。

この個所を敢えて分けると、どういう分け方になりますか。

これは、わたしの分け方です。

10節までの短いところですが、3つに分けて見ます。

  • 1~2節
  • 3~6節
  • 7~10節

まず、一番目の個所です。

 

24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは

主のものである。

24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。

 

地上と、その中にあるもの、世界とその中に住んでいる者が

誰のものであるか、その所有者がいるというのです。

これはわたしの物か、あなたの物か、誰のものか、

その所有の線引きはハッキリしています。

人の物を自分の物のように扱う人は盗人となります。

時々テレビでも目にする地球と世界地図、その中にあるもの、

そこに住む者のすべてについて、これは「わたしのもの」だと、

主張される方がいるのですね。

主なる神のことをそのように告白し、主張している人がいます。

ダビデです。

 

目に見えない神は、目に見える自然や生き物を通してご自身を

見せておられます。

ご自身がその所有者であり、創造主であることを見せておられます。

人が自分の都合によって自然を破壊していることは、

所有者の許可なしに勝手にやっていることになります。

 

2番目の個所です。

 

 24:3 主の山に登るべき者はだれか。

その聖所に立つべき者はだれか。

 24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、

偽って誓わない者こそ、その人である。

 24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

 24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、

み顔を求める者のやからである。

 

どのような人が主の山に登り、主の聖所に立つことができるのか、

と問いかけています。

その後に、このような人だと、具体的に挙げられています。

この中で、今のあなたやわたしに、ちょっとどうかなと、

思うものがありますか。

・潔白な手と清い心をもつ人

・むなしいものに魂を奪われることのない人

・偽り、人をあざむくことをしない人

そのような人にどういう特典があるのですか。

そのような人は、どういう人と見られるのですか。

次回に続きます。

 

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「詩篇23篇の内容確認」

2021年09月24日 05時30分22秒 | 詩篇より

 

23:1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

 

羊や羊飼いは日本で、そんなに身近に見えるものではありませんが、

この詩篇では、

目に見える羊や羊飼いの姿を通して、

目に見えない主なる神と自分の関係を見ています。

このイメージはそれほど難しいことではないですね。

 

2節には、「緑の牧場」がありますが、4節には「死の陰の谷」が

出てきます。

この二つの場所は全く違う場所であり、スゴイ対比ですね。

この人生、コロナの感染が収束しても、その後いつまでも「緑の牧場」が

続くとは限りません。

別のかたちでまた「死の陰の谷」のようなところを通されることがあります。

しかし、その「谷」もずっと続くとは限りません。

そこを抜け出る時が来ます。

主はわたしたちと共におられますが、

ただそばにおられるだけではありません。

その死の陰の谷を通る時が、主のムチや杖で打たれる時となる

こともあります。

しかし、なぜか後になって、それはわたしのためであったと分かり、

逆にそれが慰めとなるのです。

 

5節には、敵が出てきます。

主イエスを信じていけば、周りの人が皆、親切に暖かく接してくれる

ようになるとは限りません。

わたしたちの周りに敵意を持つ人たちがいなくなるのではありません。

信仰に立って主を愛し従っていた人、そしてまたこの23篇の著者でもある

ダビデも、自分に敵意を持つ人によって長く苦しいところを通されました。

それによってダビデはもっと主に近づけられ、

その信仰はもっと養われていきました。

そして、わたしも80年余りのこの人生振り返ってみると、

本当に主の恵み、慈しみが後についてきていることに気づきました。

 

そして、どうなるか分からない不確定なこと、それは明日以降の

先のことです。

老後の安心を提供するという生命保険によってではなく、

老後のその先、人生最後の死に臨む時、更にその後の行く先を主によって、

あなたもわたしもハッキリ約束されています。

とこしえに主の家に住むのです。

ハレルヤ

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「祈りに転換」

2021年09月21日 13時09分48秒 | 詩篇より

 

詩篇23篇の中で、その4節を中心にこの個所を暗記することを

お勧めしました。

英語の讃美には、この詩篇23節を、そのまま歌う讃美があります。

素晴らしい賛美です。

The Lord is my Shepherdで検索すると、ユーチューブで簡単に

聞くことができますよ。

しかし、また、この個所を暗記している人には、もう一つ特典があります。

この詩篇を自分の言葉にして、いつでもどこでも、

これを祈りに変えることができます。

わたしはこのように、この言葉で祈ります。

 

「主よ、感謝です。あなたはわたしの牧者、羊飼いです。

ですから、わたしには乏しいことがありません。

あなたはわたしを緑の牧場にくつろがせ、

憩いの水のほとりに伴ってくださいます。

主よ、あなたはわたしの魂を生き返らせ、

御名のために正しい道に導いてくださいます。

たとい、わたしが死の影の谷のようなところを歩むことがあっても、

災いを恐れません。

あなたがわたしと共におられるからです。

そしてまた、その災いの中で、あなたのむちや杖で打たれることがあっても、

それはわたしの慰めとなります。

人間関係で、わたしに敵意をもつような人がいても、

あなたは、その人たちの前で、わたしのために祝宴をもうけ、

わたしの頭に喜びの油を注いでくださいます。

わたしの心はあふれるばかりです。

明日も明後日も、これから先、わたしの生きている限り、

あなたの恵みと慈しみが後についてきます。

わたしはとこしえにあなたの宮に住みます。」

 

とこんな感じですが、もっと自由にあなたも自分にしっくりくるような

言葉で言い換えて祈ってみてください。

もちろん、あまり言葉を変えないで、このみ言葉を自分の祈りの言葉と

することもできます。

そういう風にしていくと、良いことがあります。

自分でこの詩篇の言葉の意味を考えるようになるからです。

人から教えられるよりも、その方がはるかに霊的な養いをもらえると

わたしは思います。

やってみますか。

 

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「一番有名な詩篇」

2021年09月17日 05時30分41秒 | 詩篇より

 

詩篇23篇に入ります。

あっ23篇だ、と思いましたか。

そうですね。

詩篇の中でも、クリスチャンであれば、知らない人はいないとまで言える

一番有名なところです。

今、現在の新型コロナウイルス感染拡大の中にあって、不安、恐れが

拡大する中にあって、この23篇の4節を心に覚えて、

信仰の励ましとしている人たちは世界中で少なくないと思います。

 

23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたがわたしと共におられるからです。

 

わたしが重症患者となって、特別な集中治療室(死の陰の谷)に

運ばれることになったとしても、この詩篇23:4のみ言葉を告白し、

主への信仰をもち続けたいと思っています。

この地上での最後の日を、どこかの病院か自宅で向かえる時が

来た時(例外なくすべての人にその時が来ますが、わたしはもうすぐ83歳です

から、かなり先頭集団の中を行っていると思います)、

この短いみ言葉は、わたしが主との信頼の関係を持ち続けるうえで、

とても助けとなり、力となる言葉です。

ですから、ベッドの上で、わたしの意識がもうろうとしている時、

「お父さん、詩篇23篇4節ですよ」と声をかけてもらえるとうれしいです。

(今、わたしは何の話をしているのでしょうか?)

 

となると、この23篇の4節だけではなく、この23篇のすべてを

暗記しておいてもよいと思います。1節から6節までだけですから、

そう長くないですから。

記憶力があまりよくないわたしもそうしています。

聖書の他の個所は覚えられなくても、この23篇だけでも覚えている人は、

この人生、どんな時が来ても、このみ言葉の黙想から信仰の大きな励ましを

もらうはずです。

 

詩篇23:1-6(口語訳)

ダビデの歌

 23:1 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

 23:2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

 23:3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に

導かれる。

 23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたがわたしと共におられるからです。

あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

 23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、

わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

 23:6 わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。

わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 

次回に続きます。

 

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「讃美は主から出る」

2021年09月14日 05時30分37秒 | 詩篇より

 

間が少し空きましたが、詩篇22篇にもどります。

詩篇には、神との親しい関係やその交わりについての素晴らしい実例、

あかしを見ることができます。

そして、その神がどういう方であるかについての信仰告白が数多く見られます。

ですから、そこにわたしたちの神との交わりについて、

また、その神を信じる信仰について多くの励ましをもらいます。

 

前回(だいぶ前)は主の御名、御顔について触れました。

主の御名にしても、主の御顔にしても、どちらも目に見えない主との親しい

信頼の関係を表すものですね。

わたしたちにとって、主への愛と人格的な関係に心を向けていくうえで、

祈りと共に、賛美すること、主をほめたたえることは、とても簡単で、

とても分かりやすい方法です。

 

22:25 大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。

わたしは主を恐れる者(人たち)の前で、わたしの誓いを果します。(口語訳)

 

「わたしの讃美はあなたから出るのです」

えっ、讃美はわたしやあなたの口から出るのではないのですか。

あるいは、讃美リーダーや素晴らしい楽器の演奏に助けられて、

讃美が歌えるのではないのですか。

 

ダビデはここで、賛美はあなたから、つまり主から出ると言っています。

主から出る賛美を歌ったことがありますか。

最初に歌い始めるのは自分であっても、歌っているうちに、

その讃美がどんどん出てくることがあります。

讃美は主から出るとはそのようなことではないかと、わたしは思っています。

 

そしてまた、主を求める人たちは聖書を読むこともあります。

祈ることもあります。

しかし、主を尋ね求める者、その人たちも主をほめたたえます。

 

この後、この22篇の26節から終わりまでは、

主が王として支配される王国のことに話が向けられています。

キーとなる言葉は、28節の「国は主のものであって」です。

この国とは王国Kingdomのことです。

 

 22:26 貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえる

でしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。

 22:27 地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからは

みな、み前に伏し拝むでしょう。

 22:28 国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。

 22:29 地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、

おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。

 22:30 子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、

 22:31 主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

 

この詩篇22篇は、最初、どういうことから始まったか覚えていますか。

そうです。

なぜ、わたしを見捨てたのですか。

わたしは虫けら同然で、人間のくず、民の恥となっている、と言っていました。

苦難が近づいているのに、助けてくれるものがいないとも言っていました。

この詩篇の著者は、どこからどう展開して、最後は神がすべ治められる王国の

すばらしさを思う話につながっていったのでしょうか。

この王国は将来の千年王国のこととも言えますが、しかし、主イエスが教え、

パウロも教えている「神の国」とも言えます。

そして、今日のわたしたちはその神の国の一端を体験しています。

どう思いますか。

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