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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「お話の内容確認の質問」

2019年10月29日 09時31分05秒 | 聖書の真理発見

 

ヨハネ2:1~11のお話から一緒に学んでいきましょう。


1.なぜ、この婚礼の席で大切なぶどう酒がなくなったのでしょうか。


(こんな単純な質問をする理由は、

①ストーリーのお話しを絵画的に描いてもらうため。

②ストリーの内容、状況をしっかり把握してもらうため。その内容がハッキリ分かっていないと、ここから一緒に霊的な真理を発見

することもむずかしい。

③ストーリーの中に入っていき、その登場人物のひとりとなるため。

以下の質問も同様です。)

 

2.母マリヤはなぜ、ぶどう酒のことでイエスの所に言いに来たのでしょうか。

マリヤはこの婚礼の場で、責任ある立場にあったのでしょうか。

マリアには他に選択肢はなかったのでしょうか。考えられる選択肢としては?

 

3.イエスは快く「わたしが何とかしましょう」と言われませんでした。

冷たいことを言われた母マリヤは怒りましたか。

イエスのやや冷たい対応に対して、マリヤは他に反応するとすれば、どういうことを言ったでしょうか。


4. 「この方が、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」とマリヤはしもべたちに言っていますが、

この言葉はイエスにも聞こえていたでしょうか。


5.しもべたちは、「かめに水を入れなさい」と言われたイエスの言葉に素直に従っているが、

普通こんな場合、人はどういう反応をするでしょうか。

考えられることはどういうことですか。

しもべたちがイエスの言う通りにしなかったなら、この話はどうなっていたでしょうか。

 

6.料理がしらはぶどう酒を味わった後、その出所を花婿に聞いていますが、

そうではなく、それを持ってきたしもべたちに聞いたとしたら、何と答えたでしょうか。

 

7.料理がしらに呼ばれ、理由を聞かれた花婿は何と答えたでしょうか。

 

次回は、真理発見のための質問です。

 

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「大きな変化」 

2019年10月25日 05時26分08秒 | 聖書の真理発見

 

情報化の時代とも言われる今の時代もいろいろな分野で変化が求められている。

誰が変化を起こすことができるのか。

変化が起こるために必要なことは何か。

人は変わることが出来るのか。

ある時、イエスは人の出来ない大きな変化を起こされた。

イエスとはどういう方なのか、これが聖書の中心テーマである。

 

ヨハネ2:1~11から共に学んでいきたい。

 

2:1 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。

2:3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、

「ぶどう酒がなくなってしまいました」。

2:4 イエスは母に言われた、

「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。(あなたの心配していることはわたしと何の関係がありますか。英訳)

わたしの時は、まだきていません」。

what does your concern have to do with Me ? (NKJV)

2:5 母は僕たち(給仕の者たち(新改訳2017)、手伝いの人たち、召使たち)に言った、

「このかた(あの方)が、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。

2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗(80ℓから120ℓ)もはいる石の水がめが、六つ置いてあ

った。

2:7 イエスは彼らに

「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。

2:8 そこで彼らに言われた、

「さあ、くんで、料理がしら(宴会の世話役)のところに持って行きなさい」。

すると、彼らは持って行った。

2:9 料理がしら(宴会の世話役)は、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくん

だ僕たちは知っていた)花婿を呼んで

2:10 言った、

「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒

を今までとっておかれました」。

2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。(口語訳)


この話を4コマの場面に分けて、絵に描いてみることも出来るでしょうか。

活字の本文に頼らないで、お話をイメージしてもらうためです。

しばらく、このお話から一緒に学んでいきます。

 次回に続く。

 

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「神の国の司法権」

2019年10月22日 06時18分07秒 | 聖書の真理発見

 

律法学者たちの訴えに対して、イエスはすぐに答えられず、かがんで地面に何か書いておられた。

わたしたちの祈りもすぐに答えられないことがある。

なぜだろうか。

主の側に目的があり、その問題において主が主導権を握るためである。

イエスがすぐに答えられなのは、わたしたちのペースに合わせ、わたしたちの国でことをされいためである
そしてまた、わたしたちに何かを気付かせるためである

更に、このお話から教えられることがある。

イエスは女に対して「わたしもあなたを罰しない」と罪の赦しを宣言された。

罪の赦しは神の国の現れでもある。

イエスの福音は罪の赦しの福音であると共に、神の国の福音でもある。

 使 13:38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエス

による
罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。
(口語訳)

 ルカ 4:43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えね

ならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。(口語訳)

 

罪を赦すというのは、有罪、無罪を決める裁判所の働きである。

イエスは宣教の開始において「悔い改めよ、神の国は近づいた」と言われた。

悔い改めることは、罪の問題の解決のためであり、赦しとつながっている。それはま

た、神の国とつながっている。

一つの国には立法、司法、行政という三権分立というのがあるというのを、わたしも遠

い昔に学校で習ったことがある。

神の国にも司法権があり、それは罪を赦したり、裁いたりする権威である。

イエスが罪を赦す権威を持っておられるのは、神の国の司法権を持っておられることを

示している。

神の本来の目的は、イスラエルを通して、この地上に神の国を現し、そのイスラエルを

通して全世界を祝福しようとすることにあった。しかし、イスラエルは律法を勝手に解

釈することで、この神の国を私物化しようとした。

その結果、イエスを通して神の国がこの地に表されることになり、それは弟子たちにも

受け継がれ、パウロにも、そして初代教会に受け継がれていった。

主イエスとのつながりを通して、あなたやわたしもこの御国の民とされている。

今日も、その神の国は教会を通して現わされることになっていて、その教会はイエスの

時代、パウロの時代にもまして全世界に広がっている。

しかし一方で、イスラエルの二の舞をしかねない現実もあるのではないか。

 

 

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「養育掛」

2019年10月18日 06時19分47秒 | 聖書の真理発見

 

時間は朝早い時間帯だった。

場所はエルサレムの宮の中だった。

そこで、イエスは座って人々に教えておられた。

そこへ、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱって来て、皆の中に立たせのだ。

そこからこの話は始まった。

 

・この話から人間とはどういう者か。


人の罪を追及する、この律法学者たちの態度と赦しを宣言するイエスの態度とはどちらが分かりやすいだろうか。

人間は、人のことは分かりやすいが、自分のことは見えていないことが多い。

人間とは、人と比べることで、罪のあるなしを判断するところがある。

そういう意味で、今日のわたしたちもこの律法学者たちのことは分かりやすいが、イエスのこの時の態度は分かりにくい。


イエスはこう言われた。

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取

りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう」(ルカ6:41~42口語訳)


人間が考えることは、どちらかと言えば、人を赦すことよりも裁くことである。

 

・この話からイエスとはどういう方か。

人にどう思われようと関係なく、罪を赦す権威をもっておられる方である。(マルコ2:10)

「わたしもあなたを罰しない」とイエスは言われた。

実は、その場を立ち去った他の人たちも、その女を罰することはしなかったのだ。

では、その人たちとイエスとは何がどう違うか。

他の人たちは女を罰することはしなかったが、赦すこともしなかった。

それに対して、罪のないイエスは本当はこの女を罰することが出来たが、赦された。

人々は「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」とは言えなかった。

イエスは、人の心を見ておられる方である。

また、人間の知恵以上の知恵を持っておられる方である。

その場の主導権をとられ、神の国とその義とを表される方である。

主導権を取られるということは、そこに神の国の主権と支配が現わされることになる。

イエスの罪の赦しによって、そこに神の国の王なる方の主権と義とが現わされたのだ。

それは神の国の到来の一つのしるしでもある。

 

もう一つ、このお話から学ぶ大切な真理がある。

この女は律法学者たちからではあったが、イエスのところを連れて来られたことによって罪の赦しの救いを経験することになった。

実は、このことは下記のガラテヤ人への手紙の一節と合致することに、わたしは気づかされた。

 

「しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない」

(ガラテヤ 3:23~25口語訳)

 

このお話から適用の質問です。

人を裁く思いが起こってくる時、どうしますか。

 

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「イエスに目を留めていた人」

2019年10月16日 05時49分03秒 | 聖書の真理発見

 

人々がなおも問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。

これを聞くと、人々は年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

そこでイエスはを起して女に言われた、

「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。

 

ヨハネ:1-11のストーリーから学んでいます。

「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」イエスは聞いておられます

聞かなくても、見れば分かったはずですが、なぜ、イエスは女にこんなことを聞いておられるのでしょうか。

すぐに「わたしもあなたを罰しない」と言われてもよかったのではないでしょうか。

 

わたしは石打の刑を受ける、もうすぐ自分に向かって石が飛んでくる。

そういう恐怖のただ中にいた女、そしてまた、自分に代わって責められていたイエスの姿、

そしてまた、なぜか、他の人に紛れてその場を立ち去る気持ちになれなかった女。

イエスはそばにいる女のそのような思いをすべて見ておられたのではないか。

ひとつは、女が恐れと不安の思いをハッキリと自分で消し去るためにも、「女よ、みんなはどこにいるか。

あなたを罰する者はなかったのか」
というイエスの問いかけが必要だったのだ。

 

・あなたを罰する者はなかったのかというイエスの問いに対して「主よ、誰もだれもございません」と女は答えましが、

その答えは正しかったでしょうか。

 

罪のない者が最初に女に石を投げつけてもよかったのだ。しかし、皆はその場から立ち去って行った。

だから誰もいなくなった。

いや、違う。ひとりだけ残っていた。

その人は石を投げることが出来た人だ。

その罪のない人が最初に石を投げるなら、他の人も後に続いて投げてよかった。

それで、イエスは聞いておられる。

「あなたを罰する者はいなかったのか」

「わたしもあなたを罰しない」という前に、イエスは女にハッキリしてほしかったのだ。

「主よ、だれもございません」と女は答えた。

つまり、この答えには、イエスは自分を罰することが出来る人だ。しかし、罰することはされない人だ、という意味が込められている。

 

・この女は何をしたので、その罪が赦されたのでしょうか。

 

「主よ、誰もだれもございません」と女は答えたが、それは、イエスは自分を罪に定めようとしておられない、

いや、赦そうとしておられる、と彼女は信じて、このように答えたの

イエス女にこのように聞いておられるのは、この信仰を求めておられたからだ

女はある意味、イエスをそのような方と信じた。

どうして、この女にそのような信仰があったのだろうか。

それは、それまでのイエスの言動をすぐ近くでずっと見ていたからである。

イエスに目を向け、イエスに目をとめ、イエスの言われることに耳を傾けていたこの女はここで、イエスを信じ、イエスと出会っている。

それ以外のことを女は何もしていない。

イエスは、その女のことが分かって言われた。

「わたしもあなたを罰しない。安心して、行きなさい」

 

このお話では、イエスの前で罪をハッキリとされた女はそこに留まっていたが、

律法学者をはじめとする他の人たちは、反対に自分の罪を自覚した後、イエスのもとから離れていった。

 

女と律法学者たち、この対比をどう思いますか。

 

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