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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「イエスの国とこの世」

2018年10月30日 05時53分51秒 | 神の国とは

 「神の国」について聖書から学んでいる。
死後の天国のことでもなく、将来完成される神の国でもなく、今現在現わされる神の国のことを学んでいる。
イエスの到来は神の国の到来であったが、今日もイエスは「神の国とその義とを求めなさい」と言われていると、わたしは信じている。

 

イエスが十字架の前に、裁判の席で、総督ピラトに言った言葉があるが、そこにはイエスの国とこの世のものが対比なされている。

ヨハネ18:36 
イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。
もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。
しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。(口語訳)

 「わたしの国はこの世のものではない」とイエスは2度も言っておられる。
イエスを王とする神の国は、この世から出たものではなく、この世にその起源があるのではない。

言い換えれば、神の国は別の世界から、つまり天からのものなのだ。

主の祈りには、「御国が来ますように。みこころが天で行われているように、地にも行われますように」とある。

見えない天からこの地上に住むあなたやわたしのところに御国が来るのだ。

 

また、他の聖書の個所には王についての興味深い話が出てくる。

 「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた」(ヨハ 6:15 口語訳)

なぜ、人々は、この時、イエスを王としようとしたのか。

これは人里離れたへんぴなところで、イエスが5000人の人たちを5つのパンと2匹の魚で満腹させられた後のことであり、それはイエスの憐みの心から出たことであった。
ところが、その後人々は、イエスが王となって、この世を支配してくれれば、自分たちのいろいろな生活上の問題は簡単に解決してもらえると思ったようだ。

この時、この人たちに王として祭り上げられ、利用されることをイエスはきっぱりと拒否しておられる。

イエスの神の国はこの世から出るものではないからである。

この話は今の時代のわたしたちにも関係のある話だろうか。

どう思いますか。

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「誕生時にも、死の直前にも」

2018年10月26日 06時00分23秒 | 神の国とは

 神の国とは何なのか。

神の国に、正確には神の王国に王がおられるとするなら、それは誰なのかについて見てきた。

 イエスは生まれた時、王家に生まれた人のように、ユダヤ人の王として生まれたということを聖書は記している。

もうひとつ、イエスの十字架の死を前にして、王の話が出てくる。

 

当時、ユダヤの国はローマ帝国の植民地とされていたため、イエスはローマの総督ピラトの下で裁判を受けることになった。
その裁判の席で、イエスは当時の宗教家たちのいろいろな訴えに対しては何も答えず、沈黙しておられた。
ところが、ただひとつ、ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか」と聞いた時だけ、「そのとおりである」と答えておられる。

このようにイエスが王であることに反応したのは、時の権力者であった。その誕生の時はユダヤの国の王ヘロデであった。そして、また死刑の判決を受ける裁判の場では、当時のローマ帝国から遣わされていた総督ピラトであった。

というわけで、ユダヤの国の王もローマ帝国の総督も、どちらも王としてのイエスのことを問題にしている。

そのどちらも王としてのイエスに立ち向かう抵抗勢力とも言える。

 

イエスの十字架の死、復活、その後、聖霊が降り、初代教会が誕生したが、その教会の使徒たち、クリスチャンたちが同じような政治的、宗教的な抵抗勢力によって苦しみ、イエスと同じような苦難の道を通ることになった。イエスを主とし、王として信じ、従う道を貫いて行ったからである。

この人たちは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われたイエスの言葉に文字通り従った人たちであった。

 

イエスが王であるとすれば、それはどこの国の王なのか。もうお分かりですね。

ユダヤの国においても、ローマ帝国の支配下にあっても、イエスを主とし、王とする人々によって神の国が前進していったのである。
4つの福音書とそれに続く使徒行伝には、そのことがハッキリと記されている。

ここから分かるように、「御国が来ますように」という主の祈りは、確実に現実のものとなっていったのである。

それはこの時代に生きるわたしたちにも関係があるのだろうか。

 

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「ユダヤ人の王」

2018年10月23日 05時54分21秒 | 神の国とは

神の国に、神の王国に王がおられるとするなら、それは誰なのか。

王のことが、誰なのか分からないまま、神の国のことを分かろうとすると、それは何か大切なポイントを見逃していることになる。

 

イエスがベツレヘムの町で生まれた時、東の方から来た博士たちが、エルサレムにやって来て、こう言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその星を見たので、拝みに来たのです」

 名も知れない東の国の博士たち、そして王、星などが出てくる、このクリスマスのお話は、やや昔話に似た作り話ぽいと思って読む人もいるかもしれない。

ところが、その博士たちの話を聞いた当時のユダヤの王であったヘロデ王は不安に思った。ヘロデ王はこれは作り話だとは思わなかったようだ。

そこで、彼はベツレヘムに生まれた2才以下の男の子を皆、殺害した。

 

日本の歴史にまれに見る大量虐殺が行われたのは、キリシタンの迫害である。慶長のキリスト教禁教令が出されたのは、秀吉が権力集中の封建制を樹立する妨げとなったのがキリスト教だったからとも言わている。

秀吉の時代から江戸時代、そして明治政府に至るまで、長年、この国でキリスト教が厳しい弾圧のもとにおかれ、多くの殉教の血が流された。
このことについては、いろいろな意見もあるようだが、根本においては、自分たちのほかに、命をかけて従う別の王がいることになると、何時の時代も専制的な権力者にとっては、そのような信仰者たちは不安要因となるのだ。

 

ということで、イエス誕生の経緯も、ベツレヘムで大量の虐殺が行われたことも、決して作り話とは言えない。

そして、不思議なことにユダヤ人ではない東の国の博士たちが星を見て、ユダヤ人の王誕生のことを知らされていたのだ。

イエスは人の誰かが決めたのではなく、生まれた時から王家に生まれた人のようにユダヤ人の王だったことを、聖書は暗示的に教えている。

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「神の国の王とは」

2018年10月19日 05時58分03秒 | 神の国とは

イエスが教えてくださった有名な主の祈りの中に、「御国が来ますように」という言葉がある。

御国のことを死後の天国のことと思っている人には、この意味が分からなくなる。

ちなみに、聖書に出てくる「御国」「天国」「神の国」はすべて同じ意味の言葉である。

御霊、聖霊が同じ言葉であるのと同様だ。

わたしは数えたわけではないが、新約聖書の4つの福音書には88回も神の国という言葉が出てくると言われる。

ここでもう一つ、注意すべき大切なことがある。

日本語の聖書には「神の国」と訳されている言葉は、実は正確には「神の王国」の意味なのだ。

この「国」はCountryではなく、Kingdomである。

王国というと、何かわたしたちプロテスタントのクリスチャンにはなじみがないように感じてしまう。

この点では、「神の王国」と訳しているエホバの証人の方が正確だと言える。

日本は天皇ですが、世界には王のいる国がいくつかある。

英国には王室があり、王族がいて、ウイリアム王子と呼ばれる人もいる。

というわけで、神の国には王がいる。王がいない王国はありえない。

となると、神の国、神の王国とはどういうものなのか。

ひと言でいうと、その王の主権と支配が現わされるところが神の国である。

また、その王の支配下にいる人たちがいて、はじめて神の王国は成り立つのだ。

では、神の国の王とは誰なのか。

次回に続く。

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「死後の天国」

2018年10月16日 06時53分48秒 | 神の国とは

 聖書には確かに、死後の世界のこと、いわゆる天国のことを言っている個所もなくはない。

そこには完全な神の支配がなされる天の御国が存在している。

 

ヘブル11:13-16
 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。
まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。
だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(口語訳)

素晴らしい。天にある故郷だ。
この聖書の個所はわたしも大好きなところである。

うさぎ追いし、かの山、小鮒釣りし、かの川、夢は今も巡りて、忘れがたき故郷。

これは地上の故郷ではあるが、不思議に思うことがある。
人はなぜ、懐かしい故郷をいつまでも忘れたくないだろうか。

わたしは現役の牧師をしている時、亡くなられた方の葬儀の中で、よくこの聖書の個所から死後の希望についてメッセージをしたことを覚えている。

主イエスを信じる人は、罪が赦され、地上の人生が終わっても、終わらない天国に入るという希望が約束されているのだ。

そこはまさに永遠のいのちを生きるところなのである。

 

しかし、聖書に出てくるほとんどの個所で、神の国のことを死後のこととして受け取るなら、その意味が分からなくなってしまう。

聖書に出てくる「神の国」ということがもう一つはっきりしていない人は、そこに原因があるかもしれない。

この神の国のことがハッキリしていないと、この地上での信仰生活にどういう影響があるのだろうか。

次回に続く。

 

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