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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「池のそばでの出会い」

2024年01月30日 05時30分39秒 | ヨハネ福音書より

 

前回まで、ヨハネ福音書4章では、

「第2のしるし」を見てきました。

王室の役人とイエスとの出会い、

その息子の癒しという「しるし」を通して、

イエスがどういう方であるかが分かりました。

その前は、サマリアの女とイエスとの出会いを通して、

イエスとはどういう方であるかが見えてきました。

 

あなたも主イエスと出会っておられますね。

あなたにとってイエスとはどういう方でしょうか。


ヨハネ福音書5章に入ります。

ここではイエスは誰と出会っておられるでしょうか。

ここからイエスとはどういう方でしょうか。

分かっていたと思っていた主イエスのまた、別の面が見えてきます。

 

ヨハネ5:1-9【口語訳】

5:1 こののち、ユダヤ人の祭があったので、

イエスはエルサレムに上られた。

5:2 エルサレムにある羊の門のそばに、

ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

 5:3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、

大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

 5:4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、

水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、

いやされたからである。〕

 5:5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

 5:6 イエスはその人が横になっているのを見、

また長い間わずらっていたのを知って、

その人に「なおりたいのか」と言われた。

 5:7 この病人はイエスに答えた、

「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。

わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

 5:8 イエスは彼に言われた、

「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

 5:9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。

その日は安息日であった。

 

イエスがひとりの病人に声をかけられた時の話です。

エルサレムにある羊の門の近くのベテスダと呼ばれる池のそばにいた病人でした。

この病人はどういう人でしたか。

38年もの長い間、病気に苦しんでいた人でした。

この人は池の水が動くのを横になって待っていました。

また、自分が一番に池に入るために、助けてくれる人を待っていた人でした。


しかし、他の人から見ると、この人の願っていることは無理な話であり、

希望の持てない絶望的な状況と見えていたと思われます。

それでもこの人は癒されることをあきらめていなかったようです。

そして、長い年月が経っていました。

 

ある意味、この人は、人に押しのけられて、

自分の思うようにならない思いをしている人たちの代表とも言えます。

 

その近くにイエスがやって来られたのですが、

どちらが先に声をかけましたか。

イエスの方からその病人に声をかけられましたね。

どういうふうに声をかけておられますか。

「病気になって何年くらいになりますか」でしたか。

(違います)

その病人に声をかけられたイエスの、その言い方についてどう思いますか。

次回に続きます。

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「第2のしるし」

2024年01月23日 05時30分50秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書4章からの続きです。

前のところを覚えていますか。

王室の役人でもあった、その父親は理解できなくても、

イエスの言葉を信じて帰って行きました。

 

その死にかかっていた息子がいやされた、

その時間はイエスが「あなたの息子は治ります」と言われた、

ちょうどその時間だったことを父親は知りました。

そのことを彼は家族や家にいる者たちに話して聞かせたようです。

その結果、家の者皆が信じたのです。

「父親は、その時刻が、『あなたの息子は治る』とイエスが言われた時刻だと知り、

彼自身も家の者たちもみな信じた。」(4:53)

この家の人たちはイエスを見てもいないし、話も聞いていません。

しかし、イエスに会い、イエスの言葉をもらって帰ってきた父親の言う言葉を

聞いて、信じたのでした。

 

では、ここにも、家の者が皆信じたとありますが、何を信じたのですか。

そうですね。

まずは、父親の言っていることを信じたのですね。

言い換えれば、目の前の息子は治る時が来て自然に治ったのではなく、

奇跡的に治ったといということです。

この家の者たちは、こういうこともあるのだと、自然に治ったと思っても、

別におかしくないのです。

 

父親の言ったことを信じたとは、もっと言えば、

息子が治ったことは、イエスによって癒されたということです。

そして、もっと言えば、この家の者たちは皆、イエスを信じたのです。

彼らはイエスを見ていませんし、会ってもいません。

 

これはあなたやわたしの場合と似ていませんか。

あなたもわたしもイエスを見ていませんが、

誰かの話や聖書の言葉によってイエスを信じました。

「見ないで信じる者は幸いである」とイエスは言われましたね。

見ないで、しかし、言葉だけで信じた、

その信仰を主なる神は高く評価しておられます。

「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、

これを第二のしるしとして行われた。」

ヨハネ福音書4章は、この言葉で終わっています。

では、ここに出てくる「しるし」とは、何でしょうか。

 

それは何かを指し示しているしるしです。

聖書によれば、この息子のいやし、それ自体が目的でなく、

それはあくまで「しるし」なのです。

イエスが誰であるかを指し示している「しるし」なのだと、わたしは理解しています。

イエスが誰であるかを知ることが、なぜ、そんなに重要なことなのでしょうか。

 

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、

あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

次回は、ヨハネ福音書第5章に進みます。

 

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「神に喜ばれること、とは」

2024年01月19日 05時30分40秒 | ヨハネ福音書より

 

「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

ヨハネ福音書4章の話の続きです。

 

イエスが、そう言われた後、王室の役人はイエスに言いました。

「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」

その後で、イエスは言われました。

「行きなさい。あなたの息子は治ります。」

この言葉を聞いた役人はどうしましたか。

 

「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」とあります。

ここにも「信じて」という言葉が出てきます。

彼、役人は何を信じたのですか。

そうですね。

イエスが語った言葉を信じたのです。

それでひとりで帰って行きました。

見えるイエスではなく、見えないイエスの言葉を握って帰って行きました。

 

イエスが語った言葉を信じるのと、イエスを信じるのとはどう違うでしょうか。

その人の言った言葉を信じるのは、その人を信じることになります。

「あんな人の言うことを誰が信じるか」と言う場合もあります。

その人の言った言葉が信じられないのは、その人が信頼されず、

信用されていない時です。

 

この役人はイエスの言った言葉を信じて帰って行きました。

「行きなさい。あなたの息子は治ります」という、その言葉が理解できたからですか。

彼は理解できなくても、その言葉を信じて帰って行ったのですね。

(回りくどいことを言っていますが、何を言いたいのですか。)


わたしたちはイエスを信じると言っていますが、

それはまた、イエスの言っておられる言葉を信じることになります。

イエスの言葉を信じる人は、イエスを信じる人です。

理解できたから信じるのではなく、理解できても、できなくても、

イエスが言われるのなら、その言葉を信じるのです。

それがイエスを信じる人、信頼する人ですね。

 

ということで、

「あなたがたはしるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

と言われた、イエスの言葉は、何を信じることかが分かってきましたね。

(前から分かっていたよ)

 

「おたく、何か信仰してはるのですか」と聞かれたことがありますか。

あなたは今年、新しい年、何かのみ言葉を信じて、握っていますか。

そのみ言葉を信じる人は、そのみ言葉を語っておられる方を信じる人です。

わたしたちは漠然と神を信じるのではなく、

ハッキリした自分に語られたみ言葉を信じるのです。

そのみ言葉を信じることが神を信じることです。

「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」

その信仰を神は求めておられ、その信仰を神は喜ばれます。

 

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「何を信じるのか」

2024年01月16日 05時30分25秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書4章の話の続きです。

「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

とイエスは言われました。

ここで信じるとは何を信じるのでしょうか。

これは、王室の役人がイエスに死にかかっている息子のいやしのことを

お願いした時、イエスが最初に言われた言葉です。

「あなたがたは」と言っていますので、この役人を含めた、

そこにいる人たちに言っている言葉ですね。

イエスは、大切なことを短い言葉で単刀直入に語っておられます。

こんなことを言っても人に分かってもらえるだろうか、

とは思われないのでしょうか。

説明不足の言葉だと思いませんか。

分かろうとしない人はそれでよい。

分かろうと求める人はわかる、ということなのでしょうか。

 

ユダヤ人たちは信じるためのしるしを求めたようです。

イエスはここで、あなたがたはしるしや奇跡を見ないと

信じない人たちだと言っておられます。

何かを見て、はじめて、そうなのかと信じるわけですね。

 

またイエスは、見ないで信じる人は幸いだと言われました。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。

見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハ 20:29新改訳2017)

これは、復活のイエスが弟子のひとりトマスに言われた言葉です。

 

王室の役人の話に帰ります。

イエスはここで、この役人に信仰のチャレンジをしておられます。

見ないで信じる信仰のチャレンジです。

そうですね。

わかりますね。

この役人はイエスのそのチャレンジに応えたでしょうか。

 

このお話しの最後の方をもう一度見てください。

「父親は、その時刻が、『あなたの息子は治る』と

イエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。」(4:53)

ここにも「信じた」と言われていますね。

父親とこの家の人たちは何を信じたのでしょうか。

どう思いますか。

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「み言葉を握る」

2024年01月12日 05時30分03秒 | ヨハネ福音書より

 

死にかかっている息子の病気のいやしのために、

王室の役人という立場にある、ひとりの父親が

カペナウムからイエスのおられるカナまでやってきました。

30キロほどの道のりです。

そして、その息子のために、イエスに自分の家に来てほしいと頼んでいます。

 

イエスは、よろしい、行きましょうと、言われたでしょうか。

いいえ、「行きなさい。あなたの息子は治ります」と言われました。

 

その後、父親は

「イエスさま、死にかかっている息子です。

このままでは危ないのです。

どうか、うちに来て息子に手を置いて祈ってやってください。

そうすれば息子は助かります。」

とは、言わなかったのです。

 

イエスの言われた言葉を、そのまま信じて帰って行きました。

この時、彼はどんな気持ちで帰って行ったのでしょうか。

家には死にかかっている重症の息子が寝ています。

しかし、イエスは治ります、とハッキリ言われました。

 

それにしても、なぜイエスは父親の求めに答えて、

息子のために出掛けて行かなかったのでしょうか。


ひとりの病気の子どものために、

わざわざ30キロの道を行くことは、

時間もかかるし、大変だと思われたのでしょうか。

 

他の人の場合、すぐさま一緒に出掛けて行かれた場合もあります。

これからはわたしの想像です。

これが唯一正しいとは思わないでください。

 

この父親には、死にかかっている息子の傍にいてやりたい気持ちが

当然あったはずです。

自分がその場を離れた後、息を引き取るかもしれないのです。

そんな状況の中で、

彼はカペナウムの町からイエスのおられるカナの地まで30キロの道を

やって来ました。

 

イエスは、この人は大変な道をやって来たのだなーと思っただけではなく、

父親のその信仰を見られたと思います。

ですから、その後、イエスが言われた言葉もまた、

その父親の信仰を試すような言葉でした。

「行きなさい。あなたの息子は治ります。」

 

彼がここまでやって来たのは、イエスをお連れして、

何としても息子のために手を置いていやしてもらいたかったのです。

その思いが打ち消されたように、彼はひとりで来た道を引き返していきました。

どんな思いで帰りの道を進んで行ったのでしょうか。

 

この父親が、来た道をひとりで引き返していくことは、

自分の思いや願いを捨てて、イエスのみ言葉を受け取ったことになります。

 

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、

わが道は、あなたがたの道とは異なっていると、主は言われる。」(イザヤ55:8

口語訳)

 

彼は目に見えるイエスではなく、目に見えないイエスの言葉だけを握ったのです。

しかし、帰って行く道で、

これでよかったのか。

このままでは、息子は死んでしまうのではないか。

父親として自分は息子のために何もしてあげられなかった、

と言うことにならないだろうか。

と、こういうことは思わなかったでしょうか。

 

しかし、彼はイエスを後にして、ひとり家に向かっています。

イエスの言われた言葉を思い返し、握りしめ、

悪いように思ってしまう自分の思い、不安な思いと戦いながらです。

 

いや、そんなことはない。

彼は一度信じたのだから、その時からもう平安で、

そのまま家に向かっていたはずである、

と思われる方もおられるかもしれません。

 

何と、彼が帰って行く途中、家のしもべたちが迎えにやって来ました。

そして、「息子さんは治りました」と告げました。

「ホントか、ホントか、よかった、よかった」と言って、

そのまま彼は帰りの道を急いだのではありません。

しもべたちに「息子が治ったのは何時頃だったのか」と聞いています。

なんでそんな時間のことを聞いたのでしょうか。

 

普通、時間を聞くのは、亡くなった人の場合です。

それで息を引き取ったのは何時頃だったのか、と。

 

そうです。

その時まで、彼はイエスの言われた言葉をしっかり握っていたのです。

そして、そのみ言葉を確認したかったのですね。

そのために時間を聞きました。

彼は息子が治ったという結果だけを見ていませんでした。

彼はイエスの言われた言葉を握っていました。

 

この話から、

信仰をもって主のみ言葉を握っていくということが、

どういうことかについて教えられます。

どう思いますか。

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