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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「神のいのちのあかし」(5)

2017年08月31日 07時39分43秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「お元気ですか」


「今日は、元気がないですね」
「元気を出しなさい」

お天気のことも気になりますが、人が元気のない、さえない顔をしていると気になります。
気の元である元気というのはどこからくるのでしょうか。
確かに、食べたり、飲んだりすることで元気になります。
しかし、死んだ人にいくら食べさても、飲ませても、生き返ることはありません。
命がないからです。
ですから、食べ物や飲み物も大切ですが、それはいのちを与えてくれるのではなく、すでにある命を維持させてくれるものです。

「人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるのである」とイエスは言われました。

それにしても、いのちとは不思議なものですね。
目には見えませんが、いのちの存在を否定する人はいません。
いのちは目に見えませんが、その人が死ねば、いのちがなくなったことは分かります。

心もそうです。
目に見えませんが、人に心があることを否定する人はいません。
顔の表情によってその人の心の状態、喜びや悲しみなどの感情は分かりますが、
その顔が心ではありません。
心は見えませんから、心にもないことを言ってしまうことがあります。

創造主なる神もそうです。
神のいのちはいろいろなところに、現わされていますが、この神は人の目に見えないので、このいのちの源なる神の存在を否定する人はいます。

また、さらに重要なことを言っているみ言葉があります。
1コリント15:45
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。
しかし最後のアダムは命を与える霊となった。(口語訳)

最初の人アダムはわかりますね。
最後のアダムとは誰のことでしょうか。
そうです。イエス・キリストのことです。
イエスは33年のこの世での人生を十字架の死で終わり、3日目に墓からよみがえり、その後天に昇り、姿が見えなくなりました。
その方が「いのちを与える霊」となったのです。
ですから、イエスとのつながり、関係をもつ人はこのいのちを与えられます。
それはその人がもっていなかったいのちです。
それを神のいのちとも、永遠の命とも言います。聖書の原語では、「ゾーエ」のいのちです。
人がそのいのちをもっていることは何によって分かるのでしょうか。
どう思いますか。

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「神のいのちのあかし」(4)

2017年08月29日 07時33分25秒 | 「神のいのちーシリーズ」


「感謝なメール」

ある姉妹から、感謝なメールをもらいました。
ご本人の承諾を頂き、以下に紹介させていただきます。

わたしが平野小学校に行っていた頃のことです。
当時は近辺の家の親が集まって子供たちのことをいろいろ相談する集まりがありました。私の所は川端さんの家に集まることになっていました。
そんなある日のこと集まりがあって、私のところからは父が行ってくれました。
その集まりから帰って来た父が、私に話してくれたことで、今でも印象に残っていることがあります。
父が話してくれたことは、
「川端さんのご家庭はほんとに良い人たちや。川端さんの家は、うちらの宗教とは違うのや。キリスト教なんやわ。」ということでした。

私のクラスメイトの名前も川端聖子(きよこ)さんでした。
その時、私は別に何も感じなかったのですが、その父の言葉を65年以上経った今も覚えていました。
それが神の家族を通して、神の命を見せていくという神様の永遠のご計画なのだと分かりました。
父はその後、随分経ってからですが、自分の主治医が召天された時、葬儀に参列して「キリスト教の葬儀は良いものやわ」と話していました。
父が生きている間に私達がイエス様を信じたとしたら「ようそんな思い切ったことを」と腰が抜けるほど驚いたことと思いますが、内心は喜んでくれたことと思います。

主がこの姉妹に60年以上も前の、このお話を思い出させてくださったのです。
未信者であった姉妹のお父さんが、あるクリスチャンの家族を見て、言葉は違いますが、神のいのちに気づかれたのだとも言えます。
これは素晴らしいあかしだと思い、ここに紹介させていただきました。

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「神のいのちのあかし」(3)

2017年08月27日 07時28分09秒 | 聖書の真理発見
「神の家族」

今日、科学技術が発展し、経済も大きく成長してきた時代にあって、なぜか家族、家庭のことがどこかで軽視される傾向があります。
家庭内別居、家庭内暴力、離婚、孤独死、児童虐待などなど、人の居場所となるはずの、その家庭がなんと混乱と崩壊の危機に直面しています。

神の家族という、この神の御計画は、実は、アダムが罪を犯す前から神のうちにあった思いでした。
その御計画は創世記2章のエデンの園の中央にあった「命の木」に見ることができます。
わたしはこのことを知らされた時、驚きました。
わたしたちの主なる神の首尾一貫した御計画に驚き、また感動を覚えました。
人類歴史の流れを貫き、最初から事を進めておられる方がおられます。
人間の罪や愚かさ、失敗に邪魔されることがあっても、変わることのない御計画が着々と進められています。
その御計画とは、あなたやわたしが主イエスを信じて救われたのは、ただ自分の罪が赦され、天国に行けるということだけではありません。
神の家族を通して、神のいのちを見せていくという、その永遠の御計画は創世記3章のアダムの罪から始まったのではありません。
その前からです。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ11:33 新共同訳)

パウロがコリントの教会の人たちを通して、神のいのちのすばらしさを知らされ、また、自分自身喜びを経験しているように、今日のわたしたちも他のクリスチャンたちの姿に神のいのちの表れを見て、そこに喜び、恵みを経験することがあります。
そこに神の家族、キリストによる愛の共同体の意味を見ることができます。

見えない神の、そのいのちは御子イエス・キリストを通して、見えるように現わされました。そしてまた、そのキリストを信じて、神のいのちをもらって生きる人たちが起こされてきました。その人たちは神の子と呼ばれる人たちです。言い換えると、神の家族とも言えます。主なる神は、その神のいのちを、神の家族を通して、この世に見せようとしておられます。ここに神の永遠の御計画があります。

エペソ 2:19
そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。(口語訳)

神のいのちによって互いに愛し合う、神の家族の共同体、ここに今日の教会の使命があります。人間の努力や知恵、知識によってこれを形成しようとするなら、互いに愛し合う共同体とは、単なる理想ということになります。
しかし、信じる者たちのうちに与えられている神のいのちによって生きる人たちにとって、これは単なる理想ではなく、現実です。
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「神のいのちのあかし」(2)

2017年08月25日 07時23分16秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「背後にある神の御手」

パウロという人が厳しい苦難の現実の中で、神のいのちを、つまり喜びを経験していたのは本当なのか、それはどういうことだったのか。
パウロが書いている手紙、コリント人への第2の手紙7章を読んでみると、なるほどそういうことだったのかと、よく分かります。
この手紙は問題のあったコリントの教会のクリスチャンたちに宛てて書かれたものですが、どうやら、パウロはテトスという人がコリントの教会に行って、帰ってきて、その教会の様子を詳しく聞いたようです。
そのことが、当時、内にも外にも苦難のただ中にいたパウロを慰め、大きな喜びとなったようです。
ただし、パウロはそのことを単にコリントの教会の様子を知らせてくれたテトスのおかげだと言っていません。また、そのことで、ただ、コリントの教会の人たちに感謝しているだけではありません。
パウロはその人たちの背後に働いている見えない神の配慮の御手を見て、喜んでいます。

2コリント7:5-6
マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。
しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。(新共同訳)

コリントから帰ってきたテトスの報告を聞いて、パウロは大変慰めを受けました。それが大きな喜びとなったようです。
ただし、それは「気落ちした者を力づけてくださる神」の配慮によるものであるとパウロは受け取っています。
この「力づけてくださる神」は、パウロの外にある戦いを終わらせ、内ある恐れを取り除いてはくれませんでしたが、目に見えるテトスやコリントの教会の兄弟姉妹を通して、苦しみの中にあったパウロに慰めと大きな喜びを与えてくれたのです。
神のいのちを生きているコリントの教会の人たちのあかしを通して、パウロ自身が神のいのちによって反応し、周りにある苦難の中で心には大きな喜びを味わっています。
これは神のいのちを経験している者には分かることですね。
どう思いますか。

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「神のいのちのあかし」(1)

2017年08月23日 10時19分58秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「苦難の中での喜び」

前回は、小さな水鳥の姿に、また寒さの中に美しい花を咲かせている梅の木の姿に、いのちの表われを見ました。また、神のいのちの表れを神の独り子イエス・キリストの地上での人生の中に見ることが出来るという話をしてきました。
聖書によれば、わたしたちイエス・キリストを信じ、受け入れた者たちは新しく生まれた者です。新しく生まれた人たちは、うちに新しいいのち、神のいのちをもっています。
ただ、そのいのちに生きているかどうかはまた、別問題です。

神のいのちについて定義づけされ、詳しく説明されたからといって、知識としては分かっても、感動をもって分かるのとはまた違います。
その点、聖書には詳しい説明ではなく、むしろ、体験的なあかしや誰かに宛てた手紙を通して、神のいのちを生きている人たちのことがあかしされています。
聖書の時代の人たちの生き方から、その同じいのちを持っている者として、今日のわたしたちもどのように神のいのちに生きることが出来るかについて、もっと具体的に教えられます。
その一つの例をあげると、パウロの手紙です。
パウロの手紙は、まとまった何かの論文や教えの本ではなく、当時の教会の具体的な問題に対して書かれたものです。しかし、そこには単なる手紙以上に深い霊的な真理や体験的なあかしがちりばめられています。
神のいのちをどのように生きているかについて、パウロの手紙にはあちこちにそのあかしを通して見ることができます。

その一つを紹介しましょう。
パウロは自分たちがマケドニアに着いた時の大変な状態を語っています。
こんな言い方をしています。
「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがありました」
ところが、一方では、このように言っています。
「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」
この手紙は西暦57年頃に開拓後約6年くらいと言われているコリントの教会に宛てて書かれたものです。
厳しい周囲の状況の中で苦しい思いをしながら、同時に喜びに満ちあふれていると言っていますが、これはただ、きれいごとを言っているのでしょうか。
この手紙をよく読んでみると、そうではなく、パウロはきわめて正直にありのままを書いていることがよく分かります。
苦難の中での、その喜びこそ、まさに神のいのちです。
ただし、その喜びは単なる霊的な心の喜びではありませんでした。
それは極めて、現実に体験する喜びでした。
もっと詳しく知りたい方は、コリント人への第2の手紙7章を読んでみてください。

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