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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「再度の引っ越し」

2023年05月30日 05時30分16秒 | その他

 

このブログをお読みいただいている皆さんですから、

わたしの個人的な近況をお知らせしておいた方がよいかと

思いますので、少し聖書からそれますが、お聞きください。

去る5月10日に私と家内はまた引っ越しをしました。

 

何と私たちは退職後、長年住み慣れた教会敷地内の牧師館を出て、

これで5回目の引っ越しとなりました。

そして、これが恐らく最後となります。

 

家内のからだの状態があまりよくなく、歩行も難しく、

台所での動きにも困難が生じてきたことが直接の理由です。

 

インターネットで調べ、半年くらい前に申し込んだのですが、

ここは夫婦で住める部屋はなく、すべて個室となっていますので、

別々に部屋が空くと、ひとりだけが先に入り、もうひとりは後に

残ることになります。

そのことで心配していたのですが、結果としては同じ5階の部屋の

別々のところが2つ空いたということを聞きました。

主の導きだと思ってすぐに決断した次第でした。

 

わたしの部屋の5階からベランダ越しに見渡す景色が最高です。

(と、初めて見た時、わたしは思いました。)

遠くの山々、近くの森、その間に新しそうに見える家々が見えます。

大空が大きく広がっており、空気もきれいなところです。

朝6時、玄関のかぎが開くのを待って、散歩に出かけています。

自然の素晴らしいところです。

 

このケアハウスでは、ある教会によって毎週礼拝が持たれています。

わたしはこんな礼拝がなされているケアハウスがあることで感動を

覚えました。

入居者は50名ほどですが、どなたがクリスチャンで、

そうでないのか分かりません。

日曜日の礼拝に出てみて、初めて入居者の中の数人のクリスチャン

の方々に出会いました。

 

この場所での生活は、わたしにとっての初めての経験ですが、

主が送ってくださったところと信じて、主の先立ちを信じて、

主が何をなそうとしておられるのかを知ることを優先し、

その主に従って行くことを心がけていきたいと思っています。

 

「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、

あなたを見放さず、

見捨てられないであろう。

恐れてはならない、おののいてはならない」。(申命記31:8口語訳)

 

どうぞ、お祈りに覚えてくだされば幸いです。

 

 

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「見えない神、見えるイエス」

2023年05月26日 05時30分11秒 | ヨハネ福音書より

 

あなたは聖書には何が書かれていると思って読んでいますか。

この聖書は、わたしについて証している、とイエスは言っておられます。

(ヨハネ5:39,40)

 

このヨハネ福音書では、

まさに冒頭からイエスがどういう方であるかを様々な角度から証しています。

 

ヨハネ1:14、15

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

わたしたちはその栄光を見た。

それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、

「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。

わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、

この人のことである」。

 

言葉とは、自分の思いや考えを伝えるために大切なコミュニケーションの

方法です。

 

神の言葉とは、神がご自身の思いや考えを伝えるための言葉です。

 

オギャーと生まれたばかりの赤ちゃんは、言葉をすぐには話せませんが、

耳から聞いていくうちに次第にことばを話せるようになり、

少しづつ自分の願いや思いを伝えることできるようになります。

 

神の言葉が人となって、わたしたちの間に住まわれました。

そのイエスが教えた教えだけではありません。

イエスご自身の存在そのものが、神の言葉であり、この方を通して、

神はご自分の思いや願い、考えを現しておられます。

 

この方、イエス・キリストを通して、あなたもわたしも神の思いや願い、

神の恵みや神の真実が分かるようなりました。

もっと言えば、目に見えない神が、目に見える人となられたイエスを通して

見えてくるのです。

ひとことで言えば、それは人にはない神の栄光です。

 

しかしながら、今日のわたしたちにはイエスは目に見えません。

ところが、聖書を通して、また聖霊の働きを通して、

なぜかイエスを身近に分かってきました。

言い換えると、イエスとの出会いとも言えます。

直接この目で見たこともないイエスと、です。

ですから、ここに出てくるヨハネと同じようにイエスをあかしする者と

されています。

 

考えてみると、不思議ですね。

どう思いますか。

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「受け入れ、信じた人たち」

2023年05月23日 05時33分11秒 | ヨハネ福音書より


多くの人たちはイエスがこの世に来られたのに、この方を受け入れませんでした。
ところが、この方を受け入れる人と受け入れない人は何どう違ってくるのかが、次の御言に記されています。
よく知られている有名のみ言葉ですね。


ヨハネ 1:12~13
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(新改訳 2017)


この方を受け入れた人と受け入れない人たちに違いが出てきます。
どういう違いですか。


受け入れた人とは、その名を信じた人たちのことです。
その方についての説明を理解した人たちのことではありません。
受け入れ、信じた人たちであって、理解し、分かって納得できた人たちのことではありません。


その方を受け入れ、信じた人たちは、神の子どもとなる特別な資格が与えられました。
その方を受け入れた人たちは、神によって生まれたのです。


わたしもあなたも人間の子どもとしてこの世に生まれてきましたが、神によって生まれた人は神の子となります。

人間の子どもと神の子どもは違います。
外見では分かりませんが、何が違うのでしょうか。
生まれが違います。

人から生まれたのは人間の子どもです。
神によって生まれた人は神の子どもです。
どちらの場合も、生まれるということは自分では出来ないことです。

人は命が与えられて生まれます。
この方を受け入れる人は、神の子としての特別な資格を与えられます。
資格だけではなく、神のいのちを与えられて神の子として生まれます。
スゴイことですね。


それも、わたしやあなたが、ただ、この方を受け入れただけのことです。


参照聖句としてヨハネ 3:3、ローマ6:4、Ⅱコリント 5:17なども、時間のある人はご自分で調べてみてください。


不思議なことですが、ご自分で聖書を開いて確認していくことで、また新しい発見や気づきがあります。


次回に続きます。

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「人々は受け入れなかった」

2023年05月19日 05時30分11秒 | ヨハネ福音書より


ヨハネ1:9~11
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。(新改訳2017)


この9~11節で、イエス・キリストとはどういう方と言われていますか。
「すべての人を照らすまことの光」と言われています。


まことの光です。真実の光です。
人の心の闇をも照らす光です。
その光によって今まで見えなかったものが見えるようになります。


暗い顔をしている時と、明るい顔をしている時はありませんか。
あの人は暗いなーとか、あの人はいつも明るいなー、と言ったことはありませんか。


それは外からの光のためではなく、その人の今の気持ちや心が顔に現れていると言えます。


主イエスは暗闇を退ける真の光です。
この方は最初から世におられました。この方は世を造られました。

この方を世は知りませんでした。

この方はご自分のところに来られました。

この方はご自分の民に受け入れられませんでした。


主イエスは今もこの世に知られていません。
今も、この世の人たちに受け入れられていません。


では、この方を受け入れた人はどうなるのでしょうか。
受け入れた人と受け入れない人とは何がどう違ってくるのでしょうか。


12 節以降に言われていることです。


次回に続きます。

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「あかし」

2023年05月16日 05時42分17秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ1:6~8

神から遣わされた一人の人が現れた。

その名はヨハネであった。

この人は証しのために来た。

光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるため

であった。

彼は光ではなかった。

ただ光について証しするために来たのである。(新改訳2017)

 

この短い3節の中に、「証し」という言葉は何回出てきますか。

 

そうですね。3回も出てきます。

 

何かの集会などで、「どなたかあかしはありませんか」と

聞かれたことはありませんか。

その場合、「あかし」とは何かの信仰体験や自分が経験した恵のあか

しと、とられている場合が多いですね。

ですから、そう聞かれると、シ-ンとしてしまう集まりが

少なくありません。

自分には、今のところ何もないなと思われるからでしょうか。

 

しかし、しかしです。

聖書的に言えば、「あかし」とはイエス・キリストのことを証しする

という意味です。

「わたしの証人」とか「復活の証人」という言葉に見られる

とおりです。

 

その「あかし」は何のためでしょうか。

証は何のために必要なのでしょうか。

 

そのあかしによって信じる人が起こされるためです。

主なる神は、わたしたちがイエスについての何かの分かりやすい

説明によって信じるのではなく、

誰かのあかしによって信じることを求めておられます。

「あの人は素晴らしい」と言うのと、「イエスさまは素晴らしい」と

いうことの違いですね。

 

主なる神は、主イエスを証しする人を求めておられます。

ここに登場しているヨハネは、そのあかし人、第一号とも言えます。

どう思いますか。

 

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