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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「それでは次です」

2022年02月25日 05時30分41秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

ここでの「自分探しの旅」は、約2か月ほど続きました。

ローマ人への手紙は16章まであります。

12章以降は、ご自分で読んでください。

どうか、主イエスを信じた自分はどういう者であるか、

その点を忘れないでください。

 

しかし、このローマ人への手紙だけでそれは終わりません。

たえず、自分はどういう者であるかに帰って来なければならない、

そういうことが日常生活では度々起こってきます。

 

「あなたはそういう人だったのか。見損なった」と誰かに言われる

かもしれません。

そういう時にこそ、み言葉が自分のことをどう言っているかを

知らなければなりません。

 

それでは次です。先に行きます。

神とはどういう方でしょうか。

そのことだけを見つけるために、もう一度、

ローマ人への手紙の1章から見ていきたいと思います。

(えっ、また、はじめから?)

わたしやあなたのことを、そういう者と見てくださっている方、

その主なる神とはどういう方なのか、知りたくないですか。

 

「あのね、ある人があなたのことをとても目に留め、心にかけてくれて、

あなたのことをとても高く評価してくれているんですよ」と言われて、

その人がどんな人かを知りたくないですか。

その人が適当なことを言う、いい加減な人で、

あまり信用できないような人であれば、

すべて言われていることは紙くずかごにほり込んでよいのです。

 

わたしやあなたのことをそこまで言ってくれる人(そこまでですよ)、

それがどんな人(?)かを知ろうとすることは、ごく普通のことです。

「忙しい。そんなの興味ない」と言えますか。

 

ローマ人への手紙1章から、神とはどういう方かを見ていきましょう。

一般的に、神とは漠然としていて、あまり分からないし、

人が分かろうとしても無理だと思われているようです。

 

詩篇14:2

主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者が、

あるかないかを見られた。

 

聖書ほど目に見えない神について、詳しく、また分かりやすく語っている本は

他にないと思います。

「神を探し求める旅」です。

楽しみですね。

(老後の楽しみです!)

次回に続きます。

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「そういう者、ですから」

2022年02月22日 05時30分38秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

「自分探しの旅」を続けています。

主イエスを信じた自分とはどういう者なのか、

についてだいぶ多くの情報が得られたと思います。

その中には、「ホントに?」と信じられないようなこともありました。

「そのとおり、そのとおり」と納得できたところもありましたか。

 

ローマ人への手紙12章に進みます。

この章は「ですから」で始まっています。

この「ですから」が大切な言葉です。

前にも出てきました。どこでしたか。

そうです。

ローマ6章12節にも「ですから」とあります。

 

6:11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、

自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、

認めなさい。

6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、

からだの欲望に従ってはいけません。(新改訳2017)

 

この「ですから」が大切なキーワードです、と前にも話しました。

 

ローマ人への手紙の11章までは、

主イエスを信じているあなたやわたしがこうこう、こういう者である

と見てきました。

そのあなたやわたしに12章からは、ですから、このようにしなさい

と言われています。

 

くどいようですが、ここがとても大切だと前にも話しました。

なぜかと言いますと、これは、この世の中とは反対だからです。

世の中と何がどう反対なのでしょうか。

 

金メダルをとった人の方が、格が上です。

銀メダルはその下で、銅メダルはもう一つ下です。

それ以下の人たちのことは、あまり話題になりません。

人に対するこのような評価は、とても分かりやすく、

それに異論を唱える人はいないでしょう。

 

つまり、世の中では、何が出来たか出来なかったか、その結果によって、

その人のことが評価されます。

これが普通のこと、当たり前のことです。

 

その考えが頭にしっかり入っている場合、

聖書がここで言っていることがサッパリ分かりにくいかもしれません。

 

主イエスを信じて、あなたはこのような者として

神に高く評価されているのです。

「ですから」このような生き方をしなさい、それができるのです、

と聖書は言っています。

 

もっとも、勝利の賞を得ることなど、どうでもよいことだとは

言われていません。

「競技場で走る人たちはみな走っても、

賞を受けるのは一人だけだということを、

あなたがたは知らないのですか。

ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」

(1コリント9:24 新改訳2017)

 

あなたやわたしは、主イエスを信じて、

罪を赦され、神の子としての資格を与えられ、

主に愛される者、聖なる者、

憐みの器、御国を継ぐ相続人、

御霊の助けを受けられる者、主イエスがとりなしてくださっている者、

圧倒的な勝利者(まだまだありますね。)とされている者です。

 

ですから、こういうことをしなさい、というのが、

ローマ人への手紙12章以降に語られていることです。

 

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、

あなたがたに勧めます。

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、

聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1 新改訳2017)

 

次回からは、少し話が飛びます。

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「接ぎ木された野生のオリーブ」

2022年02月18日 05時30分46秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

ローマ人への手紙11章です。

ここで、主イエスを信じているあなたやわたしはどういう者でしょうか。

この11章はイスラエルの救いのことがテーマです。

わたしたち日本人にはやや難しいところかもしれません。

 

神が長い長い人類歴史の中に、過去、現在、未来とご計画をもって

働いておられることが分かります。

パウロはユダヤ人でしたから、同胞の救いをとても思っていたようです。

わたしたち日本人クリスチャンが、同胞の日本人の救いを

思う以上かもしれません。

 

そのユダヤ人たちの救いと、異邦人の救いが対比されています。

あなたやわたしはユダヤ人ではなく、異邦人ですから、

こちらの側(異邦人)の自分を見ていくことになります。

そして、このローマ人への手紙は、当時、異邦人であったローマにいた

クリスチャンたちに対して書かれたものです。

 

・野生のオリーブであるわたしは、イスラエルというオリーブに接ぎ木され、

そこから豊かな養分をもらっている者です。(17節)

 

・彼らは不信仰によって折られましたが、わたしは信仰によって

立っています。(20節)

(だから、不信仰のイスラエルを見て、思い上がることなく、

恐れなければなりません。)

 

・倒れた者の上にあるのは神の厳しさですが、

わたしの上にあるのは神のいつくしみです。(22節)

(厳しさがあって、いつくしみの心もある、その方のいつくしみです。)

 

・わたしは、本来野生であったオリーブから切り取られ、

元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木された者です。(24節)

(元の性質に反して、なのですね。)

 

・わたしも、かつては神に不従順でしたが、今は彼らイスラエルの

不従順のゆえに、あわれみを受けている者です。(30節)

 

こんなことがあるのですね。

ということは、今日のクリスチャンたちが神に不従順になり、

頑なになっていくなら、神はまったく別のところから

憐れみを受ける人たちを起こされるのかもしれません。

ローマ人への手紙11章まで終わりました。

 

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「失望に終わらない」

2022年02月15日 05時30分38秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

ローマ人への手紙10章です。

ここで、主イエスを信じているあなたやわたしは、どういう者でしょうか。

 

・神の義を知らず、自らの義を立てようとして、

神の義に従わなかった者です。(3節)

(過去において、確かにそうでした。

しかし、今も、時々そういう面があります。)

 

・自分の口でイエスを主と告白し、心で神はイエスを死者の中から

よみがえらせたと信じて、救われた者です。(9、10節)

(この日本では、100人にひとりくらいかもしれません。

こんなことを信じている人は。

これは奇跡とも言えないでしょうか。)

 

・この方に信頼する者ですから、失望することはありません。(11節)

(66年の信仰の歩みを振り返って、時々、失望というか、

信仰が分からなくなったこともありましたが、

最終的にはこの方を信頼して、決して失望に終わることは

ありませんでした。)

 

・主ご自身を呼び求めるわたしは、豊かな恵みが与えられます。(12節)

 

・良い知らせを宣べ伝える人がいて、わたしもそれを聞いて、

信じたひとりです。(15節)

 

・探さなかったのに主を見出し、尋ねなかったのに、

ご自分を現わしていただいた、わたしもそういう者です。(20節)

 

このようにローマ人への手紙を読んできて、

また、気づかされることがありますね。

どういうことですか。

 

主イエスを信じたわたしやあなたはどういう者であるかを見てきて、

更に、気づかされたことは、主なる神はどういう方かという点です。

わたしがこのような者とされたのは、この主のおかげ、この主の恵み、

あわれみによるのです。

では、その主なる神とはどういう方なのか。

この方も見えないので、よく分からないのですが、しかし、その分からない、

目にも見えず、耳にも聞こえない、フィーリングでも感じられない、

その神とはどういう方でしょうか。

別にもう知る必要はないですか。

 

神学ではなく、知識として知るのではなく、

信じ、信頼している方のことを知るのです。

興味ありますか。

(失礼な言い方ですね。)

 

それは横に置いておくとして、もう少し「自分探しの旅」を続けましょう。

ローマ人への手紙はまだ、16章まであります。

次回は11章からです。

 

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「縁のなかった者が」

2022年02月11日 05時30分55秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

主イエスを信じているあなたやわたしは、どういう者であるかを、

ローマ人への手紙から見ています。

自分探しの旅を続けています。

 

だいぶ多くの言葉を拾い出しました。

自分の現実の姿を見ると、聖書で言われている、そういう者とは

とてもとても思えません。

 

しかし、これはあるべき理想、目指すべき理想の姿を教えているのでは

ありません。

 

見えない、感じられない霊的な真実として、

み言葉をそのまま信じて受け入れることが信仰ですね。

 

さて、これらの言葉をもらっているのですが、その言葉をそのまま

信じて受け取るだけでも、とても励まされます。

「ですから、信仰は聞くことから始まります。

聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

(ローマ10:17新改訳2017)

 

しかし、もう一つあります。

このような言葉を使って祈ることもできます。

たとえば、

「主よ、感謝します。

わたしはあなたのものとされていることを知り、感謝します。

わたしは罪を赦され、あなたの前で義とされていることを感謝します。

わたしは弱い者ですが、御霊によって助けられる者です。

その助けをいただき、本当に感謝します。

何をどう祈ってよいか分からない者ですが、御霊ご自身が、

聖徒であるわたしのためにとりなしてくださることを、感謝します。」

などなどです。

 

ローマ人への手紙9章に進みます。

ここで主イエスを信じているあなたやわたしは、どういう者でしょうか。

 

・「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、

いつくしもうと思う者をいつくしむ」と言われる

主なる神のあわれみ、いつくしみをいただいた者です。(15節)

(「ダビデの子、わたしをあわれんでください」と叫んでいたエリコの町の

あの盲人バルテマイ、そしてまた異邦の地に住んでいたあのカナンの女性は、

そのあわれみを受けました。

初対面の彼らにあのような憐れみを示された主イエスは、

今もあなたやわたしに憐れみを示してくださる方です。)

 

・「みこころのままにあわれみ、みこころのままに頑なにされる」と

言われる神の憐れみをいただいた者です。(18節)

(頑なになることもあります。しかし、主のあわれみを受けた者です。)

 

・滅ぼされるはずの怒りの器であった者ですが、あわれみの器とされました。(22節)

(滅ぼされるのか、憐れみを受けるのか、その中間もあるのでしょうか。)

 

・「わたしの民ではない者」でしたが、「わたしの民」と呼ばれる者と

なりました。

(本当にキリスト教はアメリカの宗教だと思っていました。

縁のない者と思っていたわたしが神の民とされました。不思議です。)

 

・「愛されない者」でしたが、「愛される者」となりました。

(主よ、よくよく自分を見ると、わたしは愛される者とは、

とても思えません。しかし、あなたに愛される者となりました。

主よ、本当に感謝です。あなたの愛は人の愛とは違うのですね。)

 

・「生ける神の子と呼ばれる」者となりました。(25節)

 

・義を追い求めなかった者ですが、信仰による義を得ました。(30節)

 

・「つまずきの石、妨げの岩」と言われる、この方に、

わたしは信頼する者です。(33節)

(主よ、今も、この日本においても、イエスさま、あなたはつまずきの石、

妨げの岩なのですね。

それなのに、わたしはあなたにつまずいていません。

不思議です。)

 

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