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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「誰に話したのか」

2025年03月11日 06時53分53秒 | 聖書の真理発見

ルカ15章の中で、
このいわゆる「放蕩息子とその兄」ということで、
よく知られているこの話は、
イエスのたとえ話でした。

では、お聞きしたいことがあります。
イエスはこの話を誰に向かって話したのでしょうか。

弟子たちに話したのですか。
群衆に話したのですか。
ルカ15章の初めの方を読んでみてください。
ここに「罪びとや取税人」という人たちが
出てきます。
この人たちに話したのでしょうか。
そうでもなさそうです。

ルカ15:1-3
1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、
話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、
「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3 そこでイエスは、
彼らにこのようなたとえを話された。(新改訳2017)

ここでイエスは3つのたとえ話をされましたが、
その3番目がこの放蕩息子とその兄の話でした。

上記のみ言葉によれば、
この話をイエスがしたのは、
どうやらイエスに対して文句を言った
パリサイ人や律法学者たちに対してでした。
もちろん、そこにいた罪びとや取税人と
言われる人たちも、
この話を聞いていたと思われます。
では、この話の中に出て来る「兄息子」とは
誰のことでしょうか。

イエスの口からはそのことを言っておられません。
しかし、これを読む人たちには想像できますね。
弟息子が、罪びとや取税人に当たるとすれば、
兄の方は、文句を言っていたパリサイ人や
律法学者のことと言えます。

彼らは、神を信じていました。
当時の宗教指導者でもあったこの人たちは、
聖書の教えを忠実に守ろうとしていましたし、
人にもそのように教えていました。
神がどういう方であるかを他の人たち以上に
知っているつもりでした。
しかし、イエスが教えている父なる神が
どのような方であるかを知らなかったのです。

放蕩をして財産を使い尽くして帰って来た
弟息子に比べて、
この兄は
家にいて忠実に仕事をして働いていたのです。
誰が見ても、弟に比べて、
この兄は良く出来た人だと思われる人でした。

では、お聞きしたいことがあります。
わたしたちの住んでいる、
この日本には弟息子のタイプと兄息子のタイプの
どちらが多いと思いますか。
わたしがバイブルトークでこの質問をすると、
多くの場合、日本にはやはり兄息子のタイプが
多いという答えが返ってきます。

しかし、最近あるグループで比較的若い人が
言ったのは、
半分半分くらいではないでしょうか、
ということでした。

日本もそういう時代になって来たのか、
とわたしは思いました。

「放蕩息子の話」として有名なこの話は、
実は兄息子のような人たちに対して
語られているということを確認した時、
わたしはこの話の深い意味に
改めて気づかされました。

そしてまた、日本での宣教の視点も、この兄息子の方にもっと重点を置く必要があるのではないかと思わされています。
どう思いますか。
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「わかりやすいのは」

2025年03月07日 08時19分41秒 | 聖書の真理発見

ルカ15章、放蕩息子の話の後半に入っています。
畑から帰って来て家に入ろうとしない兄息子と
家から出てきた父親とのふたりの会話です。
同じ弟息子のことで、
兄と父とは全く違ったことを言っています。
あなたはどちらの言い分の方がわかりやすいですか。
それはなぜでしょうか。

ルカ15:29-32
15:29 しかし、兄は父に答えた。
『ご覧ください。長年の間、
私はお父さんにお仕えし、
あなたの戒めを破ったことは一度もありません。
その私には、友だちと楽しむようにと、
子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、
遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が
帰って来ると、
そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
15:31父は彼に言った。
『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。
私のものは全部おまえのものだ。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、
喜び祝うのは当然ではないか。』」

兄息子の言い分は、
とてもわかりやすいです。
弟と自分のことを対比しています。
 父親の言いつけに一度も背いたことのない兄。
それに対して、
父親の財産を放蕩によって無駄遣いした弟。
自分には友だちを呼んだ時も
子山羊一匹ももらっていない。
こんな弟に肥えた子牛をご馳走している。
誰が考えても、
あなたのやっていることはおかしい、
とでも言っているようです。
では、次にお父さんの言い分です。
「すまん、すまん、
いつも畑で働いてくれているお前のことを
忘れていた。
まあ、そう言わないで、皆と一緒に祝いの場に
入ってくれないか。」
とは言っていません。
そうではなく、
「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。
私のものは全部おまえのものだ。」
と言っています。
兄を無視したことを謝ったりしていません。

そして、弟息子のことについては、
このように祝宴を開いて、
喜び祝う理由をハッキリ言っています。
その理由は、
「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから、
喜び祝うのは当然ではないか。」
というのが父親の言い分でした。

兄の言っていることと、
このお父さんの言っていることと、
どちらの方がわかりやすいですか。

どちらがわかりやすいかと言えば、
もちろん、兄の言っていることの方が
実感としてはわかりやすいですね。
父親の言っていることは、
素晴らしい言葉ではあるのですが、
少しぴんとこないような感じです。

この父親の言っていることは、
一般的にはわかりにくいのは、理由があります。
普通、こんな父親に出会うことがないからです。
一般に、
わたしたちがわかる、わからないというのは、
どこかで経験したことはわかりやすいし、
経験したことがないことは、わかりにくいのです。

では聖書は、世の父親の皆さんが、
このようなお父さんになりましょう、
と理想のお父さん像を見せているのでしょうか。

イエスのたとえ話「放蕩息子とその兄」の話から、
そのような教訓的な受け取り方をする人は
いないかもしれません。
このお父さんは、
あまりにも現実離れしているからです。

主イエスを信じている人たちは、
気づいていますね。
この父親とは、
父なる神さまのことなのだ、と。
目に見えない父なる神とは、こういう方なのだ、
とイエスは教えています。
このように目には見えない神のことを、
見えるようにハッキリと表現することは
人には出来ないことです。

この放蕩息子とその兄の話は、
シンプルで誰にもわかりやすい話ですが、
普通は弟と兄のふたりのことは描けるとしても、
父親をこのように描くことは出来ません。

そういう意味で、この話をしておられるイエスが、
どういう方であるかが見えてきます。
そうです。
イエスは人間とはどういう者かを
よく知っておられます。
ですから、イエスを知る人は、
人間とはどういうものであるかを
知るようになります。
イエスの目には、
人間は自分で自分を救えないものです。
イエスの目には、
人間は神に愛されている者です。
 と同時に、イエスは目に見えない父なる神が
どのような方であるかをよく知っておられます。
ですから、イエスを知る人は、
父なる神を知るようになります。

ヨハネ14:9 
イエスは彼に言われた。
「ピリポ、こんなに長い間、
あなたがたと一緒にいるのに、
わたしを知らないのですか。
わたしを見た人は、父を見たのです。
どうしてあなたは、
『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
(新改訳2017)

次回に続きます。

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「兄息子の登場」

2025年03月04日 05時30分45秒 | 聖書の真理発見

ルカ15章から放蕩息子の話を続けてきました。

ボロボロで家に帰って来た息子を、
手放しで喜び抱きしめている父親の姿を
まだ覚えておられますか。
父親の喜びは、息子を抱きしめたところで
終わっていません。
その後、音楽や踊りも入った祝宴が始まっています。
この祝宴の様子から、
父親の喜びがどれほどのものであるか
が想像できます。
父親は自分の喜びの中に周りを
大きく包み込んでいます。
話は、ここで終わっていません。

これから後半に入ります。
話の前半と後半、この違いが実に鮮明です。
ひとりの同じ父親に、
弟息子とはまったく違った、
もうひとりの息子がいました。
その兄息子が畑仕事を終えて、
家に帰ってきました。
ところが、自分の家なのに、
そこに入ろうとしませんでした。
なぜでしたか。

家の中から何かが聞こえて来たからです。
兄の耳に聞こえてきたのは何でしたか。

ルカ15:25-28
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、
帰って来て家に近づくと、
音楽や踊りの音が聞こえてきた。
15:26 それで、しもべの一人を呼んで、
これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 しもべは彼に言った。
『あなたのご兄弟がお帰りになりました。
無事な姿でお迎えしたので、
お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 すると兄は怒って、
家に入ろうともしなかった。
それで、父が出て来て彼をなだめた。

帰って来た兄息子の耳に聞こえてきたのは、
何と音楽や踊りの音でした。
外にまで聞こえてきたのですから、
家の中では相当にぎやかにやっていた
のだと想像できます。

自分は畑で一生懸命働いていたのに、
留守の自分を無視して、
これはどういうことなのか、
と彼の心に穏やかならない気持ちが
起こって来たようです。
だからそのまま家に入って行かず、
しもべを呼んで話を聞いています。
そのしもべの話を聞いたこの兄息子は、
弟が帰って来たと知り、
喜んで家に入って行ったのではありません。
反対に更に怒って家に入ろうとしませんでした。

とてもリアルな話ですね。
2000年以上後の今日にも、
この日本でも、身近にありそうな話です。
この兄息子の気持ちは、
聖書を始めて読む未信者の人たちにも
よくわかる話です。

その後、どうなったでしょうか。
兄がしもべと話した後、
今度は家の中から父親が出てきました。
そして、怒って家に入ろうとしない息子と
話をしています。

この父親は、どうして兄息子が帰って来て、
家に入ろうとしないでいるのが
わかったのでしょうか。
兄息子が父親を呼び出したのですか。
想像ですが、
たぶん先に兄と話したしもべから
「お兄さんが畑から帰って来られていますが、
家に入ろうとされません」
と父親に知らされたのではないかと思います。
それで父親自身が祝いの場から外に出て来て、
兄に話をしているようです。

ここで父親は兄をなだめた、
と言われています。
どういう言葉でなだめたのでしょうか。
この後、兄息子は怒りに満ちた本音の言葉で、
ストレートにお父さんと向きあっています。
お父さんは、その兄にどのように対応していますか。
次回に続きます。
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「想像していた父親と実際の父親」

2025年02月28日 05時30分07秒 | 聖書の真理発見

イエスのたとえ話「放蕩息子」のところからです。
ルカ15章11節からの話で、前回の続きです。

家に帰って来た弟息子は、
お父さんを前にして用意していた言葉を
全部言えたでしょうか。
言えなかったようです。
どの言葉が言えなかったのでしょうか。
彼は「雇い人の一人にしてください。」と
言っていません。

息子と呼ばれる資格はない
と思っていた彼にとって、
これは一番大切だと思える、その言葉が、
なぜ、言えなかったのでしょうか。

想像できることがあります。
「息子と呼ばれる資格はありません」
と言った息子に対して、
お父さんはそばにいたしもべたちに
「一番良い服を持って来て、この子に着せなさい」
と言っています。
その後、このお父さんは何と言いましたか。

「手に指輪をはめ」と言っています。
家にいる雇人がどんなに素晴らしい雇人であっても、その人にこの父親は指輪を
与えることはないはずです。
指輪は息子にしか与えません。
「息子と呼ばれる資格はない」
と言っている息子に、
お父さんは指輪を与えると言っています。

彼が何をしたからでしょうか。
息子がしっかり悔い改めていることを
確認したからでしょうか。

ルカ15:20-22
15:20 こうして彼は立ち上がって、
自分の父のもとへ向かった。
ところが、まだ家までは遠かったのに、
父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、
駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、
あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い衣を持って来て、
この子に着せなさい。
手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい・・・』

これはお父さんがしもべに言っている言葉ですが、
「指輪を」と言っている重大なひと言を、
息子は聞き逃すはずはありません。
これは思ってもいなかった父親の言葉でした。
それはある意味、決定的な言葉でしたので、
彼は「雇人のひとりにしてください」
とは言えなかった、とわたしは思います。

豚を飼っていた時に、弟息子が想像していた父親と、この時、実際に出会った父親とは
全く違っていました。
もっと言えば、この息子は、
父親がどういう人であるかを
本当は知らなかったのです。

主イエスを信じているクリスチャンであれば、
この父親は父なる神であることがわかっています。
あなたやわたしも父なる神が
自分の想像していた方とは違っていたという、
そういう経験はないでしょうか。

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「言えなかった言葉」

2025年02月25日 05時30分29秒 | 聖書の真理発見


ルカ15章の話の続きです。
遠い国に行って、放蕩をし、
父親からもらった財産をすべて失い、
お腹を空かして家に帰って来たこの息子を
手放しで喜び、抱きしめている人がいます。
 お父さんでした。
これはすごい感動的な場面ですね。

この父親は、息子が何をしたので、
このように赦し受け入れたのでしょうか。
 彼がしたことと言えば、
すべてを失って帰って来ただけです。

普通の話であれば、
息子がこれこれこういう態度を示したので、
お父さんは彼を赦して家に入れてやった、
ということはあるでしょう。

ところが、
このイエスのお話の中のお父さんのことは、
わかるようでわかりにくいと思いませんか。
やっていることはわかります。
 しかし、何でそこまで・・・というところが
わかりにくいのです。
普通のお父さんとはまるで違うからです。

ルカ15:18-24
15:18 立って、父のところに行こう。
そしてこう言おう。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、
あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。
雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、
自分の父のもとへ向かった。
ところが、まだ家までは遠かったのに、
父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、
駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、
あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い衣を持って来て、
この子に着せなさい。
手に指輪をはめ、
足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。
食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから。』
こうして彼らは祝宴を始めた。(新改訳2017)

さて、ここでもう一つ、
注目したいことがあります。
この弟息子は、豚を飼っている時に、
お父さんのところへ帰って、
こう言おうと思っていたことがありました。
実際にお父さんを前にして彼は
その言葉を全部言えたでしょうか。
言えなかったようです。
どの言葉が言えなかったのでしょうか。

彼にとっては一番大切だと思っていた、
その肝心な言葉が、なぜ、言えなかったのでしょうか。
どう思いますか。
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