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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「力を称賛し栄光を与える」

2021年11月30日 05時53分51秒 | 詩篇より

 

詩篇29篇に入ります。

これは11節までの短いところですが、ダビデの歌で、

28章までのところとは、またガラッと変わっています。

この29篇のキーワードとも言える言葉は、力と栄光です。

力、栄光、言葉としては、何か抽象的な、現実離れした言葉と思えませんか。

 

29:1 神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。

 29:2 み名の栄光を主に帰せよ、聖なる装いをもって主を拝め。

 29:3 主のみ声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ、

主は大水の上におられる。

 29:4 主のみ声は力があり、主のみ声は威厳がある。

 29:5 主のみ声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる。

 29:6 主はレバノンを子牛のように踊らせ、

シリオンを若い野牛のように踊らされる。

 29:7 主のみ声は炎をひらめかす。

 29:8 主のみ声は荒野を震わせ、主はカデシの荒野を震わされる。

 29:9 主のみ声はかしの木を巻きあげ、また林を裸にする。

その宮で、すべてのものは呼ばわって言う、「栄光」と。

 29:10 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、

とこしえに王であらせられる。

 29:11 主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。

(口語訳)

 

テレビで相撲を見ていますか。

大相撲では、力士と言われますが、その力ある人たちが相撲をして

競い合います。

これはとてもわかりやすい「力」です。

そして、15日間、戦い抜いて、千秋楽の土俵の上で、

ひとりの力士に優勝カップが与えられます。

場内からは大歓声が起こります。

つまり、戦い抜いて優勝したひとりの力士が「栄光」を受けるのですね。

 

相撲に限らず、野球や、サッカーなどスポーツの世界で、

競い合い勝ち抜いた人やチームにナニナニ賞という栄光が与えられます。

これらはみな、同じパターンです。

「力と栄光」です。

ということはどういうことでしょうか。

人は昔も今も皆、力を称賛し、それに栄光を与えているということです。

不思議だと思いませんか。

この観点から、もう一度、詩篇29篇を読んでみてください。

 

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「祈りが聞かれた」

2021年11月26日 05時30分58秒 | 詩篇より

 

詩篇28篇に向き合う時をもっています。

これで3回目ですが、最後に、もう一つ大切なことがあります。

この28篇の5節から6節に変わっていくところです。

お気づきになったでしょうか。

1節から2節は、自分の祈りが聞かれることを祈っています。

3節から5節までは、悪しき者のことで、主が彼らに報い、

受けるべき罰を与えてください、と祈っています。

 

ところが、突然、6節では、「主はわたしの願いの声を聞かれた」、

7節では、「わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、

歌をもって主をほめたたえる」と言っています。

祈りは聞かれて、ダビデはとても喜んでいるようです。

 

では、この6節以降が書かれたのは、少し間があり、

何日か後のことでしょうか。

28篇は比較的短いダビデの詩であり、祈りですが、

何日か後に6節以降のことを書き加えたというのも不自然です。

では、6節以降突然、このように祈りが変わっているのは、

どういうことでしょうか。

 

想像できることがあります。

ダビデの心に、このような変化が起こったのではないか。

自分の正直な心や思いを主の前に祈り、

また主なる神がどういう方であるかの信仰を告白していった祈りの中で、

彼の心の思いが変わったのです。

どう変わったのでしょうか。

自分の祈りが聞かれたという思い、確信のようなものが与えられたのです。

あなたも似たような経験があったのではありませんか。

主の前に祈っていく時、祈り始めた時の思いと、

後の思いが変えられていくことを経験している人は少なくないと思います。

この祈りは聞かれた、という確信もその一つだとわたしは思います。

そして、この祈りが聞かれた、という確信の後に、

主なる神がどういう方であるかの信仰の告白が続いているわけです。

 

ここで、主イエスのみ言葉を思い出します。

「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、

すでにかなえられたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ 11:24 口語訳)

 

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「区切りと二つの質問」

2021年11月23日 05時30分29秒 | 詩篇より

 

前回は、詩篇28篇のところについて質問をさせてもらいました。

この28篇を内容から区切ると、こうなります。

これはわたしの見方です。これが正解と言っているわけではなく、

他の見方もあるかもしれません。

 

1.わたしの祈り、願いを聞いてください。(1~2節)

2.悪しき者と一緒にしないでください。(3~5節)

3.祈りが聞かれた。(6~9節)

(このように内容を区切ることをやってみるだけで、

この28篇にもう少し向き合うことになります。

さっと読んで終わりとはなりません。)

 

次に、二つの質問です。

1.この28篇から人間とはどういう者でしょうか。

目に見えない神に祈ることができる者です。

しかし、この場合、人に電話をする場合のように「そうですか」

とか、「なるほど」とか、「それは大変ですね」という反応が

すぐに返ってくるわけではありません。

それで、祈っている側は、自分の祈りを聞いてもらっているのか

どうかが分かりません。

そう言うことはあまり気にしないで、祈っている人もいるかも

しれませんが、このダビデは主に対して念を押しています。


「わたしの祈りに耳を閉ざさないでください」とか、

「沈黙しないでください」と。

同じ人間でも、祈る人によっていろいろですね。

 

また、人間とは、ここに出てくる悪しき者もいますし、

口では良いことを言っていても、内心は何を思っているのか

分からないところがあります。

そういう人を主が裁いてくださいとダビデは祈っています。

人を裁いてくださいと主に裁きを求めるとは、

酷いことをする人だと思いますか。

それは自分が主に代わって裁かないためであると、わたしは思います。

 

また、人間とは、歌をもって主に感謝をささげることが

できる者です。

 

2.この28篇で、主なる神とはどういう方でしょうか。

主なる神がどのような方であるか。

それはまた、あなたやわたしの信仰の告白ともなりますので、

この問いはとても大切だと、わたしは思っています。

主なる神はわたしたちの祈りを聞かれる方です

わたしの力、わたしの盾と言っていますので、

戦いに向かうための力となり、また敵の攻撃から守られる盾と

なってくださる方です。

別に戦争をしているわけではありませんが、

わたしたちにも日常的に戦わなければならないことがあり、

また、守りが必要なことがあります。

また、主なる神とは、より頼むことのできる方であり、

助けを与えてくださる方です。

救いの砦となってくだる方です。

ご自身の民(あなたやわたし)を救い、恵み、羊飼いとなって

導いてくださる方です。

 

この28篇がだいぶ身近になってきたでしょうか。

次回に続きます。

 

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「黙想のための質問」

2021年11月19日 05時30分12秒 | 詩篇より

 

詩篇28:1-9(口語訳)ダビデの歌

 28:1 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。

わが岩よ、わたしにむかって耳しいとならないでください。

もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは

墓に下る者と等しくなるでしょう。

 28:2 わたしがあなたにむかって助けを求め、

あなたの至聖所にむかって手をあげるとき、

わたしの願いの声を聞いてください。

 28:3 悪しき者および悪を行う者らと共に

わたしを引き行かないでください。

彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、

その心には害悪をいだく者です。

 28:4 どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって

彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、

その受くべき罰を彼らに与えてください。

 28:5 彼らは主のもろもろのみわざと、

み手のわざとを顧みないゆえに、

主は彼らを倒して、再び建てられることはない。

 28:6 主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。

 28:7 主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。

わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、

歌をもって主をほめたたえる。

 28:8 主はその民の力、その油そそがれた者の救のとりでである。

 28:9 どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、

彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください。

 

今回は、少しバイブル・トークのやり方を取り入れたいと思います。

と言っても、何も新しいことではありません。

何だ、そんなことかと思われるようなことです。

しかし、このことを通して、あなたは新しく何かに

気づくかもしれません。

主からの語りかけを聞くことになるかもしれません。

そのことをわたしは期待していますので、この質問をしています。

 

では、まず最初に、

この詩篇28篇は9節までの短いところですが、

1節から9節までを内容の上から区切るとすると、

どういう区切りになりますか。

その区切った、それぞれに題をつけると、

どういう題がつけられますか。

 

次に二つの質問です。

この個所で、人間とはどういう者でしょうか。

この個所で、神とはどういう方でしょうか。

 

いつもは、さっと読めば終わりとなる内容ですが、

面倒なことをさせるなーと思われますか。

忙しい人には、さっと読めば終わり、

という記事の方が合っているかもしれません。

 

しかし、わたしの経験から言えば、

簡単に読めてさっと終わる場合よりも、面倒でも少し時間を取って、

自分なりに考え、思い巡らし、み言葉に向き合う時をもつ方が、

人から教えられる以上に、自分で気づき、自分で新しい発見が

あります。

「求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見出します。

たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7新改訳2017)

次回に続きます。

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「違ってきた」

2021年11月16日 05時30分55秒 | 資料紹介

 

つい先日、83回目の誕生日を通過しました。

健康のことでは、足が痛い、腰が痛いなどはありませんが、

しかし気がかりなところはあります。

信仰のこと、老後の更にその先のこと、家族のことなどなど

いろいろ思うこともあります。

信仰とは、年数を重ねるほどに成長し、強くなっていくのだ

と思っている人もいます。

しかし、わたしはそうは思いません。

わたしの場合、若い頃に、大胆に信仰に生きていた(自分なりにです

が)時もあります。

 

また、年を取って信仰が円熟したのではないですか、

と言われると、やはり、そう簡単には「そうです」と

答えられません。

これはわたしの場合の話ですよ。

他の80代の方は別のことを言われるかもしれません。

 

じゃあ、わたしの場合(敢えてこの言葉を入れます)、

年を取るのと、信仰はあまり関係ないのでしょうか。

言えることがあります。

わたしの場合、信仰の面で違ってきたことがあります。

どう違ってきたのか、聞きたいですか。

(時々、わたしがこういう言い方をするので、わたしの近くにいる人、主から与えられた賜物、賢い妻は、「聞きたくありません」と答えます。)

それは聖書の読み方、とらえ方が違ってきたということです。

自慢しているのではありませんよ。

主のあわれみによるものだと思いますので、そのことをわたしなりに、

とても感謝しています。

このブログを長く読んでくださっている方々の中には、

そのことに気づいておられる方もおられるかもしれません。

詩篇の、この個所は何年も前にも取り上げているところだ

と分かっている人は、前のところと比べると、言っていることが

だいぶ違うなーと思われるかもしれません。

わたし自身そう思っています。

その以前の自分と今の自分を比べると、

あの時はそういうとり方をしていたのだ、しかし、

今は違うことが分かります。

「違ってきた」と言うのは、ひとつはそういうことです。

正直に言えば、わたしは以前の自分の書いたものを読み返すことは

あまりしたくないので、ほとんどしません。

今、何の話をしているのでしょうか。

このブログに長い間、お付き合いくださり、

年寄りの話に耳を傾けてくださり、本当に感謝しています。

次回は詩篇28篇に入ります。

 

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